3 アグニの噂を流している者は?


「ゼウグマの軍団基地へ出かける前に、ちらりと、そんな噂が耳へ入ってきた」


 総督であるケリアリスの耳へ入っているなら、アグニの噂はかなり広まっていると考えてよいだろう。


 ウェスウィウス山の噴火がシリアまで伝わっている事態は、おかしくはない。首都ローマに近いカンパニアでの大災害だし、ティトゥス帝も、現地に赴き救援活動の指揮を執っているという。

 話題性は、すこぶる高い。


 しかし、ウェスウィウス山の噴火はアグニの怒りだという噂が、ローマ、アレクサンドリア、アンティオキアと三つの都市で流れている状況は、かなり変だ。


 もし、ローマだけでアグニの噂を聞いたのなら、変だとは感じなかったかもしれない。

 アグニという神の名は珍しいが、何万柱もいるのがローマの神々だ。聞き慣れない神の名が出ても、大抵の人々は、「ああ、そんな神もいたのか」と納得するだろう。


 しかし、アリュテやケリアリスの話から推測するに、アグニの噂が流れ出したのは、ローマ、アレクサンドリア、アンティオキアで、ほぼ同時だ。


 いくら帝国の首都や主要都市で、物や情報のやり取りが盛んとはいえ、この伝達速度は異常だ。速すぎる。

 どこか一ヶ所で発生した噂が伝播でんぱしたのではなく、三ヶ所でほぼ同時に噂が流れ出したと考えた方が、に落ちる。


 コレティアも俺と同じ推理をし、ケリアリスに確認したのだろう。


 同時期に同じ噂が流れているなら、陰謀を企む者達は、少なくとも、ローマ、アレクサンドリア、アンティオキアの三都市に潜伏し、しかも、ある程度、打ち合わせをしているはずだ。


 でなければ、今のような事態は起こりえない。

 俺が考えていた以上に、大規模な陰謀が画策されているというわけか。


 ローマ帝国を揺るがす陰謀というゴルテスの言葉も、あながち誇張ではないかもしれない。


 アレクサンドリアでアグニの噂を流していた犯人がアブシェバとすると、陰謀を企てている者達は、ユダヤ人なのだろうか。

 確かに、ユダヤ人の居住区はある程度の規模の都市なら、帝国中どこの都市にも存在する。アンティオキアでも、町の南にユダヤ人地区がある。


 だが、一神教のユダヤ人が、なぜアグニというインドの神を持ち出すのだろう。自分達へ疑いの目を向けられない為の擬装だろうか。


「お父様。アグニの噂を流している犯人は、わかってますの?」


 コレティアの言葉に、俺は思考を中断した。


 誰がアグニの噂を流しているのかは、気になるところだ。俺はケリアリスを見つめて、回答を待つ。


 ケリアリスはシナモンティーを一口だけ飲むと、口を開いた。


「個人までは特定できていないんだがな。パルティアの商人が噂を流しているようだ」


 ローマとパルティアの国境は、ユーフラテス河である。

 パルティアとは何度も戦争をしているローマだが、ゲルマニアやブリタニア、ダキアの蛮族相手とは異なり、砦や堀を築いて通行を遮断するわけにはいかなかった。


 中国の絹やインドの香辛料や真珠や宝石等、ローマの金持ちが求めてやまない奢侈品しゃしひんは、パルティア国内を通ってもたらされる。

 戦争をする可能性があるからといって、国境を閉じるわけにはいかない。


 警戒しつつ、だが、通商は盛んに。そこが、シリア総督の苦労する点だ。現に、アンティオキアへ商売に出向いて来るパルティア商人は多い。


 しかし、噂の元がパルティア人とは、意外だった。てっきり、ユダヤ人だと思っていたのだが。

 同じ思いらしく、眉を寄せたコレティアが、ケリアリスに確認する。


「噂を流しているのは、パルティア人なのですね? ユダヤ人ではなく」


「ああ、そうだ。アグニとは聞き慣れない神だと思ったが、直接インドと交易するパルティア人なら、インドの神を知っていても不思議ではないと、報告を受けた時に納得したのを、覚えているからな」


 頷いたケリアリスは、先程の仕返しとばかりに、にやりと笑って娘へ問いかけた。


「で、コレティア。お前はどうして、噂の元がユダヤ人だと思ったんだ?」


 俺は苦笑して、シナモンティーを飲んだ。

 初めて飲んだが、なかなか美味い。


 蜂蜜を入れてあるのだろう、ほのかな甘さがシナモンとよく合う。シナモンの癖のある独特の香りが鼻腔をくすぐる。

 さすがは総督官邸だ。高価なシナモンを使った茶など、貧乏人の俺には、縁がない。


 ケリアリスの言葉に、してやられたと鼻の頭に一瞬、しわを寄せたコレティアは、皇帝港でゴルテスの言葉を聞いてからの出来事を、かいつまんで話し出した。


 途中で奴隷の少女が、「夕飯の支度ができましたが、どうなさいますか」と、戸口に立って、おずおずと尋ねてくる。


「ああ、ここへ持ってきてくれ」

 振り返りもせずに、ケリアリスが答える。


 一度、奥に下がった奴隷は、すぐに大きな盆を持って現れた。湯気の立つ鉢と皿が載っている。後にもう一人、盆を持った奴隷が続き、前菜や白パン、葡萄酒等を運んでくる。


 食事が始まると、話し手は俺とコレティアが交互に務めた。


 前菜は豆のスープと、いわしの香草焼きだった。スープには豆と一緒に大麦も入っていて、香り付けにコリアンダーが散らされている。鰯の香草焼きに使われているのは、クミンとミントだ。


 船旅の間の簡素な食事とは、比べようがない。

 俺もコレティアも、咀嚼そしゃくと説明で口が忙しくなる。


 俺達の話を聞き終えたケリアリスは、難しい顔で黙り込んだ。口へ放り込んだ鰯の香草焼きを、骨ごとばりばりと噛み砕く。


「少なくとも、ローマ、アレクサンドリア、アンティオキアで、帝国に対する陰謀が画策されている、というわけか……」


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