2 お金はなくても審美眼はあるらしい


 アンティオキアは東にそびえるシルピウス山と、町の西を流れるオロンテス川の間に横たわる、比較的平らな細長い土地に建てられた町だ。


 アンティオキアの風土の特色は、海からオロンテス川の渓谷を上って吹いてくる涼風だ。


 涼風は五月から十月中旬まで吹く。一日の内では、昼頃に吹き始め、夜まで続いた。

 この風のおかげで気温が下がり、凌ぎやすい気候になるばかりでなく、酷暑から農作物が守られて、生育が促進される。まさに天の恵みの風だ。

 大通りに沿った主要な街路は、涼風を受けやすいように設計されていた。


「お父様!」


 涼風を受けながら、シリア総督の官邸近くまで来ると、コレティアは急に馬を走らせた。


 官邸の前には、たった今、遠出から帰ってきたらしい男達が五人、降りたばかりの自分達の馬の脇に立っていた。

 その中の一人に、馬から飛び降りたコレティアは勢いを殺さず、体当たりでもするような勢いで抱きついた。


 最も年輩で、元老院議員である身分を示す、白地に裾に赤い太い線が入ったトーガを纏った男――ケリアリスだ。


 背はそれほど高くないが、がっしりした体格のケリアリスは、一歩足を後ろに引いてふんばっただけで、娘の体を抱きとめる。


「コレティア! お前の挨拶は、いつも熱烈だな!」


 コレティアの腰を両手で持ち、軽々と高く抱き上げ、ケリアリスは大きな声で笑う。


「ローマに帰ったはずだろう? まさか、帰らずにシリア中をうろついていたんじゃないだろうな?」


「まあ、ひどい。お父様ったら。私が言いつけを破る悪い娘だと思ってらっしゃるの?」


 コレティアが子どもっぽく頬を膨らませて抗議する。


「じゃあ、言いつけを守るいい子は、ローマで何をしでかして来たんだ?」


 コレティアは咲いたばかりの薔薇のように、とげを隠して華やかに微笑む。


「殺人事件の捜査をしていたの」

「ということは、犯人はお前じゃないんだな。そいつはよかった!」


 ケリアリスは豪快に笑う。おそらく本気で喜んでいるのだろう。

 フラウィアと同じく、娘の行状をよく理解しているというべきか。


 父親の言葉に、コレティアは再び頬を膨らませた。


「失礼ね、お父様。私なら、失敗しないわ」


 こちらも本気だ。コレティアの行動力と大胆さをもってすれば、完全犯罪も不可能ではないだろう。


 ケリアリスの部下らしいトーガの男達は、父と娘の物騒な会話にどう口を挟んだらよいのか、困って顔を見合わせている。


 俺は馬から降り、自分の馬とコレティアが乗り捨てた馬の両方の手綱を手にして、ケリアリスに丁寧に頭を下げた。


「閣下。お久しぶりでございます。公務の最中だったのではございませんか? お邪魔でしたら、少し時間を置いてまた伺いますが」


「おお、ルパス。ずっとコレティアの護衛を務めてくれていたのか。仕事熱心だな」


 ケリアリスは気さくに、俺にも笑いかけた。

 前執政官プロコンスルの称号も持つ有力元老院議員だが、偉ぶった振る舞いが一切ない。


 俺はケリアリスの性格に好感を抱いている。だが、好きでいつまでもコレティアにくっついているわけではない。


 俺は声をひそめると、真面目な表情を作って、ケリアリスに告げた。


「ローマのフラウィア様から、手紙と伝言を預かっております」


「伝言? 申してみよ」

「かしこまりました」

 俺は軽く咳払いすると、フラウィアの言葉を一語一句そのまま口にした。


「クィントゥス。コレティアを結婚させたいのなら、あなたも、努力をなさい。コレティアの説得は任せましたよ――との伝言です」


 伝言を聞くなり、ケリアリスは顔をしかめた。


「そうか、コレティアの説得を、か」


 いかにも気が進まなさそうに、苦い口調で呟く。ケリアリスに抱き上げられたままのコレティアは、笑顔で父親を見つめている。

 氷でできた男でも溶かしてしまいそうな魅力的な笑みだが、中に鋼鉄の剣のような意志を秘めているのは明らかだ。


「まあ、難しい話は後にしよう。まずは、娘との再会を祝わなくてはな」


 ケリアリスはさばさばと言うと、コレティアを地面へ下ろし、後ろの男達へ向き直った。


「というわけだ。わしは、家庭内の問題を解決せねばならん。留守の間の報告や訴訟は、まとめ次第、持ってきてくれ」


 頷いて、男達が官邸へ入っていく。

 表のにぎやかさに気づいた奴隷が三人、慌てて迎えに出てきた。俺は奴隷の一人に、俺とコレティアが借りていた馬を任せた。


 ケリアリスに促されて、コレティアは既に官邸へ入っている。後を追うと、ケリアリスに尋ねるコレティアの声が聞こえた。


「お父様、どちらへ出かけられていたの?」


「ゼウグマの軍団基地さ。まだ顔見せができてなかったからな」


 シリア属州には三個軍団が駐屯しているが、うち二つはユーフラテス河流域のサモサタとゼウグマ、もう一つはアンティオキアより南のラファネアエに軍団基地を置いている。


 軍団が駐屯する皇帝属州の総督は、内政に加えて、いざという場合には軍団の指揮もらなければならない。

 それだけ優秀な人材が求められるのだ。


 総督として赴任しても、快適な州都から出ず、軍団基地など、用がなければ視察もしない総督がいる状況を考えれば、ケリアリスはよい指揮官かもしれない。


 それとも、軍団の様子を確認しなければならないほど、パルティアとの緊張が高まっているのか。


 同じ推測をしたらしいコレティアが、不謹慎にもわくわくと声を弾ませて、ケリアリスに重ねて尋ねる。


「春になったら、パルティアと戦争が始まるのかしら?」


 戦争に適した季節は、春から秋だ。冬になったら双方とも一端休戦し、前線に近い場所に冬季の宿営地を築いて春を待つ。


 娘の質問に、ケリアリスは難しい顔でかぶりを振った。


「それは、まだわからん。パルティア国内は、まだヴォロガセス二世とパコルス二世の王位争いで揺れている。勝った方が、配下の豪族達への示威行為に進軍してくるのか、な」


 ケリアリスは俺とコレティアを官邸の奥の一室へ通した。


「まあ、いざ戦争となったら、負けはせんさ。ローマ軍の強さを見せつけて、ローマに楯突たてつこうなんて馬鹿な考えを、二度と起こせなくしてやる」


 ケリアリスは自信ありげに笑った。

 ゼウグマの軍団基地への視察も、兵の士気を上げる為に行ってきたに違いない。武器や兵糧の準備も、冬の間に整えておくつもりだろう。


 広い官邸は道路側が公務用に、奥まった部分が総督の私用に使われているらしい。

 通された部屋は、趣味の良い調度が整えられて、居心地よさそうな部屋だった。


 応接室として使っているのだろうか。部屋の中央には、青銅製のテーブルと、椅子が四脚置かれていた。


 ケリアリスが俺達に座るように示し、自分も腰掛ける。椅子に座るとすぐ、奴隷がシナモンティーと器に盛った石榴ざくろを持ってきた。


 部屋の床は白と黒のモザイクで、戸口から右手の壁には南イタリアののどかな田園風景がモザイクで描かれている。

 反対側の壁際には飾り棚が備え付けられていた。


 飾り棚には、黒地に明るい橙色でヘラクレスが描かれたギリシアの赤絵の壺や、ガラスの瓶、アポロンが彫られた金のレリーフ、幸運の女神テュケーの青銅の像等が置かれていた。


 飾り棚の品々は、どれも趣味がいい。


 中でも、ガラスの瓶が俺の好みだ。

 丸みを帯びた下部の海の色を映し取ったような青といい、首の優美な形といい、この瓶に葡萄酒を入れて飲めば、さぞ美味く感じるだろう。


 ケリアリスが飾り棚の品に気を遣う性格とは思えない。

 となれば、飾り棚の品々を選んだ人物はコレティアだ。


 悔しいが、コレティアの審美眼は認めざるを得ない。

 ガラスの瓶を惚れ惚れと眺める俺の視線に気づいたコレティアが、からかうような笑みを見せた。


「あら、お金はなくても、審美眼はあるのね。まあ、見る目があっても、あなたじゃ、水差し一つ、買えないでしょうけれど」


「幾らしたんだ?」


 俺は好奇心に負けて聞いてみた。

 コレティアの言葉からすると、よほど高価に違いない。


「一万セステルティウスよ」


 あっさりとコレティアが答える。

 俺は、むせそうになったシナモンティーをかろうじて飲み下した。


 高価だとは思っていたが、予想以上だ。

 俺の稼ぎなら、十年近く飲まず食わずで働けば、手が届くだろうか。

 もし買えたとしても、葡萄酒なんて入れられそうにない。酔っ払って手を滑らせて割ってしまったらと思うと、酔えやしない。


「それで、結局、ローマで何をしでかしてアンティオキアへ戻ってきたんだ?」


 俺とコレティアのやり取りを微笑ましく眺めていたケリアリスが尋ねた。何か面白い話が聞けるだろうと、期待に目が輝いている。


 ケリアリスの問いかけに、コレティアは悪戯っぽい表情で切り出した。


「お父様。最近、アンティオキアで、ウェスウィウス山の噴火はアグニという神の怒りだ、なんて奇妙な噂が流れていませんか?」


 コレティアの言葉に、ペティリウスはいぶかしげに眉をひそめた。


「お前、何を知っている?」


 声を低めて、娘へ問いかける。

 さすが歴戦の将軍だ。威圧感はただごとではない。


 だが、コレティアは微笑むと、あっさりと肩を竦めた。


「知らないことの方が多過ぎて。だから、情報を集めているんです」


 コレティアは、逆に父親に流し目を送った。


「先程の言葉からすると、やはり、アンティオキアでもアグニの噂が流れているのですね?」


 うまく娘に乗せられたケリアリスは、渋い表情で頷いた。


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