第5章 反乱の亡霊 紀元79年 9月

1 しまりのない馬鹿面をさらしているわよ?


「ほんとに両方の馬に鞍をつけていいのかい?」


 貸し馬屋の店主は俺に小声で尋ねると、ちらりとコレティアに視線を走らせた。


 俺とコレティアは、八日間、ガレー船に揺られて、アレクサンドリアから、オロンテス川の河口に近い港町セレウキアへ着いたばかりだった。


 もう航海の季節も終わりに近いが、港は活気に満ちていた。

 荷担ぎがアンフォラを転がして運び、木箱を荷車へ積んでいる。停泊中の船の修理をするのだろう、板を積んだ荷馬車や船大工が通り過ぎていく。


 ローマの海の玄関が皇帝港とオスティアなら、アンティオキアの海港がセレウキアにあたる。セレウキアからオロンテス川を十四ミリアリウム(約二十キロメートル)遡れば、アンティオキアだ。


 アンティオキアは、アレクサンドロス大王の後継者の一人、セレウコス一世によって建てられた都市である。


 ローマに支配を受けるようになったのは、ローマ暦六九三年(紀元前六四年)にポンペイウスによって、セレウコス朝が滅ぼされて以後だ。

 アンティオキアは、その後、シリア属州の州都となっている。


 セレウキアからは船で川を遡ってアンティオキアへ行く方法もあるが、俺とコレティアは、身軽さを重視して馬を借りた。


「失礼ね。この人より、よほど巧く馬を扱えるわ」


 店主の声が聞こえていたらしい。コレティアは憤然と言うと、既に鞍を置いていた栗毛の馬に身軽に馬にまたがった。

 女らしい横乗りではなく、男と同じまたがり方だ。淡い緑の絹のストラの裾が翻り、引き締まったふくらはぎが覗く。


 思わずコレティアに見惚れた店主は、我に返ると、気まずさを誤魔化すように呟いた。


「すごい別嬪べっぴんさんだな。まるで、ダフネが月桂樹から元の姿に戻ったみたいだ」


 アンティオキアから南に七ミリアリウムほど郊外にはダフネという名の景勝地がある。

 もちろん、名の由来は、アポロンに言い寄られて、月桂樹に身を変えたニンフのダフネからだ。


「あのお嬢さんは、言い寄られて逃げ出すような殊勝な性格じゃないがな」


 俺は、コレティアに聞こえないように、低い声で呟いた。

 コレティアならば、気に入らなければ、たとえ相手がアポロンだろうと、蹴り飛ばすに違いない。


 俺は腰帯から財布を外すと、店主へ代金を渡そうとした。

 と、不意に足元の地面が揺れた。地震だ。


 反射的にかかとを浮かせ、瞬時に動けるように身構える。荷物を背に縛り付けた鹿毛の馬が、不安そうにいななく。

 幸い、地震はすぐに治まった。震動もさほど大きくはない。


「どうどう。いい子だ」

 俺は馬の鼻面を優しく撫でてなだめてやった。


 馬上のコレティアは、馬の脇腹を両膝で押さえ、たてがみを撫でて馬を落ち着かせている。


「最近、地震は多いのか?」

 俺が借りた鹿毛の馬に鞍をつける店主へ尋ねると、店主は諦めたように肩をすくめた。


「まあ、いつものことですからね。仕方がありませんよ」


 シリアは元々、地震が多い地域だ。港の人々も、小さな地震は慣れているのだろう。揺れが治まった途端、何事もなかったかのように働きだし、再び賑わいが戻ってくる。


「地震よりも心配なのは、パルティアの方ですよ。なんか、きな臭いみたいでねえ」


 店主は声をひそめると、大仰に顔をしかめた。


 アルメニアを挟んで、ローマとパルティアの関係が緊張状態にある事実は知っている。


 そもそも、最初にコレティアをローマへ連れ帰った理由も、ケリアリスが万が一、パルティアとの戦端が開かれた場合に、娘を前線に置いておきたくない為だった。


 依頼を受けた時は、自分の娘だけを安全な首都へ帰そうだなんて、過保護な父親だと反発も覚えた。


 だが、今なら、ケリアリスの気持ちがよくわかる。

 ケリアリスは自分の心の平安の為に、コレティアをローマへ帰そうとしたのだ。


 前線なんかにコレティアをいさせたら、何をしでかすか想像もつかない。

 大きな危険が迫れば迫るほど、生き生きするのがコレティアだ。


 父親のいない所で娘がどんな破天荒な事態を引き起こしているか考えたら、冷静に指揮もれない。

 加えて、三個軍団を率いるシリア総督が、自分の娘一人さえも御せないとわかったら、兵士達の失笑を買うだろう。


 コレティアがアンティオキアへ戻ってきたと知ったら、ケリアリスは、さて、どんな顔をするだろうか。


 俺は横目で、コレティアの様子を窺った。


 刺繍が入った淡い緑の絹のストラを着、背筋を伸ばして馬にまたがり、金の髪を潮風になびかせているさまは、神殿の奥に安置されている女神像が、生命を得て動き出したかのようだ。


 通り過ぎる人々が、思わず足を止めて眺めていくのも、ただ単にシリアではゲルマン人の娘が珍しいからだけではあるまい。


「何をぐずぐずしているの。さっさと馬に乗りなさい」


 コレティアが新兵を叱る百人隊長のように、店主と立ち話をしていた俺を叱る。

 俺が馬に乗ると、コレティアはぐいっと自分の馬の手綱を引っ張って、街道へ馬首を巡らせた。


 セレウキアからアンティオキアまでは、舗装された立派な街道が通っている。

 港街道やオスティア街道ほどではないが、やはり荷馬車や荷車が多かった。荷馬車や荷車の車輪の音が、騒々しく石畳の街道に響く。


 オリエントの大都市は、全てアジアとの交易により経済的に発展してきた歴史を持つ。中でもアンティオキアは、交易路の要衝として、長く繁栄を享受している。


 パルティア国内には、インドまで遠征を行ったアレクサンドロス大王の遺産ともいうべきギリシア人の植民市が飛び石のように、今も残っている。

 インドや中国からの品物は、アラビア半島を回って海路からもたらされる場合と、ギリシア人植民市を通じて陸路からやってくる場合の、二通りの道がある。


 アンティオキアは陸路でもたらされる品物の集合地だった。

 首都ローマ、エジプトのアレクサンドリアに次いで、ローマ帝国第三の規模と繁栄を誇る都市であり、「アジアの女王」とも呼ばれている。


 俺とコレティアは荷車や荷馬車の間を縫いながら、のんびりと馬を走らせた。


 今のところ、尾行されている様子はない。あれほど急いでアレクサンドリアを発ったのだ。たとえシカリオイが俺達を狙っていても、さすがにまだ、ここまで手は伸びていまい。


 日射しはからりとしていて、暖かい。乾いた土の匂いがする。

 シリアの雨季は十一月から三月だ。乾季も終わりに近い今は、街道の石畳もからからに乾いて白っぽく見える。


 右手に目を向ければ、連なる山並みが見えた。ここからは見えないが、ふもとにはオロンテス川が流れているはずだ。

 地中海からアンティオキアまでは、オロンテス川に沿って幾つもの山々が並んでいる。山々の連なりは、アンティオキアの東にあるシルピウス山に至って終わる。


 空はよく晴れて、刷毛はけで描いたような白く薄い雲が浮かんでいる。

 鷹が翼に風を受け、ゆったりと山並みへ向かって飛んでいく。


 ありふれた光景だが、俺の目には好ましく見えた。

 アンティオキアへ着いてコレティアをケリアリスに引き渡せば、俺の仕事は終わりだ。


 ケリアリスはコレティアがアンティオキアに滞在するのを好まないだろう。だが、航海に適した時季は終わっている。


 海路ならアンティオキアからローマまで、長くて二ヶ月の船旅だが、陸路では三ヶ月にも及ぶ長旅になる。

 地中海を横切る海路と異なり、陸路の場合は、遙か遠回りの道のりになるからだ。


 余程、緊迫した事態が起こらない限り、コレティアはアンティオキアで冬を越す羽目になるだろう。

 俺はコレティアがケリアリスの保護下にある内に、遠くへ旅立てばいい。


「また、性懲りもなく、ろくでもない計画を企てているのでしょう。しまりのない馬鹿面ばかづらさらしているわよ」


 俺の思考を読んだかのように、すかさずコレティアが、冷ややかな眼差しを投げかける。


「腹が減ったなと思ってさ。アンティオキアへ着いたら、腹いっぱい飯を食って、公衆浴場でゆっくりしたいな、ってね」


 俺は適当な言葉で誤魔化した。

 コレティアは欠片も信じてない素振りで、不機嫌そうに鼻を鳴らす。どうせ、俺の考えなど、お見通しに違いない。


 コレティアとこんなやり取りをするのも、後少しだ。


 心の片隅が、刺激を無くす寂しさに不満を訴えていたが、俺は無視した。


 俺は、平穏を愛する平凡な一市民なのだ。

 刺激的で危険に満ちた毎日よりも、日々、慎ましい労働に汗を流し、公衆浴場でのんびりし、安い葡萄酒の壺を手に、寝台で晩酌を楽しむ方が、格段にいい。

 そうだ。そうに決まっている。


 俺は自分の心を、無理やり納得させた。


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