10 そんな甘えは、許されない。
人通りの多い大通りまで出ると、俺達は、ようやく走るのをやめた。
大勢の人々が行き交う大通りでは、誰かにぶつからずに走るなど不可能だ。
だが、まだ完全には安心できない。
俺は油断なく辺りに目を配り、背後に注意しながら歩いたが、ここまでは追ってきていないようだ。尾行の気配も全然ない。
「ひとまず、レンドロスの家へ戻ろう。さすがに、アリュテにまで手は伸びていないと思うが、心配だ」
襲ってきた男達の正体は気にかかる。だからといって、コレティアを連れてコム・エル・ディッカ地区へは戻れない。
「いいか、レンドロスの家へ着いたら、あんたは大人しくしてるんだ。俺は役人に通報して、コム・エル・ディッカ地区へ戻る」
おそらく、襲撃者達は姿をくらましているだろう。とはいえ、あんな危険な連中を、放ってはおけない。
「無駄よ」
コレティアが険しい声で反論する。
「おそらく彼等は、シカリオイよ。たとえ捕まえられても、白状するとは思えないわ」
「シカリオイか」
俺は低く唸った。
暴力に訴えても、ユダヤ人による神権政治を樹立しようと、反ローマ闘争を行うユダヤ教徒の総称を
シカリオイは衣服の中に短剣を隠し、白昼堂々と反対派を暗殺して回る。
シカリオイの活動範囲はユダヤ地方全域に及んでいるという。ユダヤ戦役の際にも、シカリオイにより、穏健派のラビ等が殺された。
コレティアの言う通り、男達の短剣を扱い慣れた様子といい、
俺はもう一度、素早く辺りを見回した。
何気ない風を装って近づき、服に隠した短剣でずぶりと刺すのが、シカリオイの常套手段だ。
人ごみに乗じて刺されては、たまらない。
コレティアの美貌に惑わされて話しかけようとしたローマ人の観光客が、俺の眼光に射すくめられて、すごすごと退散した。
隣の俺だけに聞こえる囁き声で、コレティアが眉を寄せながら言う。
「シカリオイを私達に仕掛けたのは、アブシェバよ。よほどアグニの噂の件を調べられるのが嫌なのでしょうね」
「口封じってわけか」
俺は、アブシェバの家へ入った時のやり取りを思い出しながら、呟いた。
「アブシェバの家を出てから襲われるまでが、短過ぎる。忘れ物を取りに出たイサクが、手引きしたんだな」
「そうでしょうね。きっと、あらかじめ邪魔者を始末する為の符号でも決めていたのね」
「シナゴーグへ行って、本当にイサクが忘れ物を取りに来たのか、確かめるか。シカリオイまでけしかけて、俺達を亡き者にしようだなんて、ただごとじゃない」
俺は悔しさに歯噛みした。
アブシェバがシカリオイを扇動したというはっきりした証拠があれば、役人に引き渡して尋問できる。
だが、今の状況では、証拠不十分で釈放される可能性が高い。アブシェバが怪しいという読みは、あくまで俺達の推測でしかない。
「俺達を襲った男共を捕まえて、アブシェバの指図だと証言させられればいいんだが」
「捕まえたとしても、無駄でしょうね」
コレティアの口調は素っ気ない。
「六年前のユダヤ戦役の時も、捕虜になって生き延びるよりも、全員が、神に殉じて死を選んだもの。シカリオイにとっては、生きてローマの支配に屈するよりも、殉教して神の元へ逝く方が尊いのよ。たとえ捕まえても、有益な情報を漏らすとは思えないわ」
「くそっ」
腹の底から怒りが迫り上がり、俺は思わず舌打ちした。
胸がむかむかする。
生き延びようとする本能よりも、死を選ぶ信仰心が勝るなんて考えは、俺には理解できない。
年老いたり、病に冒されたわけでもないのに自ら死ぬのは、諦めて逃げるのと同じだ。
死んだら、そこで終わりだ。
少なくとも、俺は指一本でも体が動く限り、死に逃げたりしない。
そんな甘えは、許されない。
憤りが治まらず、もう一度、「くそっ」と吐き捨てる。
コレティアは無言で俺を見つめていた。碧い目は、珍しいものを見たように、
「あなたが本気で怒っているところ、初めて見たわ」
思いがけず生真面目な声で言われて、俺は冷静さを取り戻した。
「俺の記憶によると、あんたに怒らなかった日は一度もないはずなんだがな」
声音に、からかうような響きを混ぜて言い、顔をしかめてやる。
「あら。私の記憶とは、ずいぶん違うわね」
悪びれる素振りもなく、コレティアが言う。
「見解の不一致は放っておいて、建設的な話をしましょう」
放っておくには、お互いの考えが違い過ぎると思ったが、俺は黙っておいた。
確かに、他にもっと話し合うべき事柄がある。
コレティアは、先程の激しい運動で乱れたストラの
「証拠が出そうにないアブシェバに
そもそもは、コレティアをアンティオキアへ無事に送り届けるのが、フラウィアからの依頼だ。
コレティアから行きたいと申し出てくれるなら、俺には好都合だ。
「アンティオキアで何を確かめたいんだ?」
俺の問いかけに、コレティアは桃色の唇で微笑んだ。
「そうね。アグニの威光がどこまで広がっているかの確認、ってところかしら」
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