9 聞きわけのいい息子や娘なんて、信用しないことにしているの
アブシェバの家を出た俺は、隣を歩くコレティアを見て、肩をすくめた。
「どうする? アブシェバはアグニの噂について白状しそうにないぜ。でも、なんでイサクについて、あんなに熱心に聞いたんだ?」
にやっと唇を歪めてからかう。
「一目惚れしたのか?」
俺が言い終わるより早く、コレティアの足が、俺のくるぶしを刈ろうと
予想していた俺は、ひょいと横に飛びのいて、攻撃を避けた。
「私、聞きわけのいい息子や娘なんて、信用しないことにしているの」
腹立たしげに鼻をつんと上げて、コレティアが言う。
「世の中には、あんたと違って、孝行息子や孝行娘が皆無ってわけじゃないんだぜ?」
「そういうあなたは、どうなの?」
コレティアが形の良い眉を寄せて、逆に食ってかかる。
「孝行息子だったら、誰かに
おどけて誤魔化すと、コレティアは声を立てて笑った。
「刺激的で、素敵じゃない。親の言うままに、つまらない毎日を送るより、ずっといいわ」
どうやらコレティアも尾行に気づいていたらしい。
碧い瞳が剣呑に輝き、声が浮き浮きと弾んでいる。どうやって撃退してやろうかと考えているのだろう。
尾行に気づいたのは、アブシェバの家の前の路地を出てすぐだった。ユダヤ人らしい服装の若い男が二人、つかず離れず従いてくる。
ゴルテスを殺した陰謀の関係者か、それとも、コレティアの美貌と身なりに、良からぬ犯罪を企てた不心得者か。
陰謀の関係者なら、丁寧に歓待した後、何を企んでいるのか演説会を開かせてやるし、単なる不心得者なら、役人に突き出してやる。
つまり、どちらでも、熱烈歓迎は変わらないってわけだ。
どうやって歓迎したものか考えていると、俺達を尾けている若い男の更に後ろから、薄汚れた身なりの一人のユダヤ人の男が、小走りに駆け寄ってきた。
「なあ、あんた達、アブシェバの家から出てきただろ?」
俺達の前へ来た男は、行く手をふさぐように大きく手を広げて立ち、顔を寄せ、声を潜めて話しかけてきた。
「アブシェバについて、いいネタがあるんだが……」
男は黄色い歯を見せて、
「もちろん、貰う物は貰わねえといけねえがな」
「幾らだ?」
俺は尋ねつつ、腰の財布へ右の手を伸ばす。
「そうだなあ。まずずは、十ドラクマ……」
筋ばった手を俺の目の前に差し出しながら、男は更に俺に寄ってくる。
視界の端で何かがきらりと陽光を反射したと思った瞬間、突然、男が俺の右腕を取ろうとした。
同時に、鞘から抜いた短剣を、俺の腹部へ突き立てようとする。
俺は、体の横に重心をずらす。
「ぎゃっ!」
男が悲鳴を上げる。切っ先が鈍った短剣が、俺の体の横の空間を刺す。
「暗殺するなら、もう少し気を遣うんだな。汚れた身なりの癖に、剣だけぴかぴかだぜ」
よろける男の腕を取り、足を払って地面へ倒す。短剣を握ったままの右手を、思い切りブーツの底で踏みつけた。
ごりっと嫌な感触が靴底から
俺は短剣を遠くに蹴り飛ばしながら視線を転じる。足止めをしていた男と同時に、尾行の男達も動いていた。
それだけではない。横の細い路地からも、短剣を抜いた男が三人、次々に飛び出してくる。
単なる物取りにしては、あまりにも多い。
男達に突き飛ばされた通行人が文句を言おうとし、男達の手に煌めく短剣を見て、悲鳴を上げた。巻き込まれまいと、あたふたと道の端へ寄る。
コレティアの動きに迷いはなかった。手近な露店に並べられていた素焼きの小振りな壺を取る。
大きく振りかぶる。
鋭く腕を振って尾行していた男の片方へ投げつけた。男が腕を払って、壺を叩き落とす。
一瞬の隙をついて、コレティアが走り寄った。
しなやかな足が美しい弧を描く。
地面に叩きつけられた壺が派手な音を立てて割れる。
顎を爪先でかすめ蹴られた男が、
失神を横目で確認する間もほとんどなく、俺はもう一人の男に目を向けた。
腰だめに短剣を構え、無言で男が突進してくる。
俺を見据える目には、明らかな殺意が宿っている。傷を負わせるのではなく、殺害を目的にした眼差しだ。
短剣が迫る。ぎりぎりまで避けない。
下手に早く避けても、方向を変えられるだけだ。
刃が身に届く寸前、体を開いて避ける。引きつけすぎたせいか、剣先がテュニカをかすめた。毛織の布が抗議の悲鳴を上げて裂ける。
勢いのあまり、たたらを踏んで体勢を崩した男の首の後ろに、鞘ごと抜いたグラディウスの柄頭を叩き込む。
一撃で昏倒させなければ、こちらが殺される。
横手から出てきた男達が、俺達へ迫る。
俺は近くの露店へ荷物を運んできていたロバの尻を、グラディウスの鞘で引っ叩いた。
突然の暴力にパニックを起こしたロバがいななき、露店の品物を跳ねとばして走り出す。
青銅器が重い音を立てて転がり、野菜の
混乱に乗じて、落ちた商品を盗もうとかがむ図太い者もいた。
ロバは、男達とは見当違いの方向へ走った。だが、右往左往する人混みが、足止めに役立った。
広い道が騒然となる。
「数が多い。逃げるぞ」
更に援軍が現れないとは限らない。周りのユダヤ人の全員が怪しく思えてくる。
有無を言わさぬ口調で告げた俺に、コレティアはつまらなさそうに唇を尖らせた。
「あら、せっかく獲物が巣穴から出てきてくれたのに」
「死んだら元も子もないだろう」
問答無用で左手でコレティアの手を取り、走り出す。
尊大な態度とは裏腹に、コレティアの手は小さかった。
コレティアの足は速かった。ストラとサンダルで、よくこれだけ速く走れるものだ。
ブーツの俺に、遅れずついてくる。
アレクサンドリアは、道が格子状に走っている。例外は
幾つかの角を曲がる。走りながら、コレティアはからかうような声を出した。
「守ってもらえるのじゃなかったかしら?」
「無謀につきあう義務はない」
即座に言い返してから、驚きに襲われた。
「一応、自分が護衛対象だっていう認識は、あったんだな」
ちらりと後ろに視線を走らせる。男達の姿は見えない。
うまく
「それなら、もう少し俺の言うことを聞いて、大人しくしてくれ」
苦々しく告げると、コレティアは形良い鼻をつんと上げた。
「あなたの意見に従う義務はないわ」
俺の口調を真似て言い返す。
こんな場合じゃなかったら、拍手を贈りたくなるほど、そっくりだった。
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