8 根も葉もない噂の出どころ?
門番に迎えられ、家の中へ入ろうとする男に、俺とコレティアは駆け寄った。
「ヨセフ・ベル・アブシェバさんですね?」
「ああ、そうだが、君達は?」
頷いて首を傾げたアブシェバに、用意してきた嘘の口実を告げる。
「初めまして。わたしは船主である主人の使いで、ローマから来た者です。こちらは父親の代理で来たお嬢さんで。主人は、ぜひ、あなたと取引をさせていただきたいと……」
アブシェバは手を振り、俺の言葉を遮った。
「すまんが、取引相手を増やす気はないんだ。古い付き合いの船主に恩があるからね」
すげなく言うと、俺達を放って家へ入ろうとする。
「あなたが
アブシェバの背に向かって、コレティアが静かに声を掛ける。
興味を引かれたように、アブシェバは立ち止まった。振り返り、視線だけで続きを促す。
狭い路地には、俺達の他に人通りはない。だが、コレティアは、碧い瞳にからかうような光を浮かべ、声を潜めて告げた。
「アグニの噂を流しているのは、あなたでしょう? 他のユダヤ教徒に触れ回られては、困るのではない?」
どう聞いても脅迫だ。
俺は無言で、アブシェバの反応を見守った。
アブシェバは素早く左右を見回して、他に人がいないのを確認すると、一歩下がって、玄関へ入る道を開けた。
「どうやら、何か不幸な誤解があるようですな。少し、時間を取りましょう」
「協力的で嬉しいわ」
コレティアが咲いたばかりの薔薇の花のように微笑む。笑顔の下の鋭いトゲを隠そうともしない。
アブシェバは長い立派な
「あいにく、午後は倉庫へ在庫の確認に行かねばならんのでね。あまり長い時間は取れんが」
玄関扉を潜りながらアブシェバが言う。
さすが、どの神よりも金を信仰していると
玄関に入った俺達を迎えたのは、まだ若いユダヤ人の男だった。
黒々とした
「お帰りなさい、お義父さん」
アブシェバに丁寧に挨拶した青年は、あからさまに不審そうな視線を、俺とコレティアへ向けた。
おそらく、この家ではユダヤ人以外の客は滅多にないに違いない。
「ああ、イサク。すまんが、一つ頼まれてくれんか」
アブシェバは俺達に軽く断ると、青年に歩み寄った。
「わたしとしたことが、シナゴーグに忘れ物をしたようなんだ。収支報告を入れた文書箱なんだがな。ほら、お前も知っているだろう、赤い革の飾りがついた……。それを、ラビ様と話し込んで、うっかり部屋に置き忘れてしまった。あまり人目に触れさせてよい物でもないし、悪いが、取ってきてもらえるか?」
イサクと呼ばれた青年は、アブシェバの言葉に笑顔で頷いた。
「わかりました。赤い革の飾りの文書箱ですね」
「ああ。すまんな。客がいなければ、わたしが自分で取りに行くんだが……」
アブシェバは困った顔で俺とコレティアを見たが、もちろん、そんな程度で良心の
イサクは俺の笑顔に、花についた害虫でも見たように眉をしかめる。潔癖そうな顔に、侮蔑の表情が浮かんだ。
まさか、家の前で俺達がアブシェバを脅した
「ラビ様に、くれぐれもよろしくとお伝えしてくれ」
「はい」と、こっくり頷くと、イサクは俺達と入れ違いに家を出ていった。
「すみませんな。お待たせして」
アブシェバは俺達を応接用の部屋へ通した。
モザイクの床に家具の少ないローマ式のタブラリウムとは異なり、アブシェバの家の応接室は、床が色鮮やかな
壁際にはぐるりと、白地に青と緑の縞模様の布を掛けた長椅子が置かれ、長椅子の上には、これまた色とりどりの
アブシェバに示されて、俺達は戸口に近い長椅子に腰掛けた。
「さて。わたしが変な噂を流しているなどという根も葉もない話を、いったい誰から聞いたんだね?」
俺達の向かいの長椅子に座ったアブシェバは、さも迷惑そうな顔で口を開いた。
「あら、気になるの?」
からかうような表情でコレティアが聞き返す。アブシェバは顔をしかめた。
「当然だ。わたしは
憤然と言うアブシェバには、一見、怪しい雰囲気はない。だが、アリュテが俺達に嘘を言ったとは思えない。
「あんたは、アグニの噂を聞いた覚えはないのか?」
俺の質問に、アブシェバは眉を寄せた。
「まあ、ちらりとは聞いた覚えはがある。それは認めよう。だが、それを広めるような行為は、断じてしていない」
「誰からアグニの噂を聞いたんだ?」
俺は間を置かず問を重ねた。アブシェバが視線をさまよわせる。
「誰だったかな。確か、港で聞いたと思うんだが……。思い出せないな」
アブシェバは厚ぼったい瞼を閉じると、残念そうに首を横に振って、しらばっくれた。
「さっき、忘れ物を取りに出かけたのは息子さん? 真面目そうな人ね。さぞ、父親思いなんでしょう?」
黙っていたコレティアが突然、口を開いた。
「ああ……。養子だが、自慢の息子でね」
虚をつかれたアブシェバが、ぎこちなく頷く。
「イサクと呼んでいたわね。まだ若いようだけれど、お幾つ?」
「二十一歳だ」
「まだ、独身で?」
「ああ」
「お父さんの事業について、勉強中といったところかしら?」
コレティアは笑顔で次々と質問を浴びせ掛ける。
まるで、見合いの
「イサクのことを根掘り葉掘り聞いて、どうするつもりだ。イサクは、噂の話とは関係ないだろう!」
「アグニの噂を流している人物は、いったい何の目的で、噂を流しているのだと思う?」
動じず、コレティアは別の方向の問を投げ掛けた。
「そんなこと、わたしが知るものか! さあ、あんた達に費やせる時間は、これで終わりだ。お引き取り願おう」
アブシェバは邪険に告げると、片手を振って俺達を追い払う仕草をする。
家へ招かれた時は期待したのだが、これ以上しつこく粘っても、有益な情報は得られないだろう。
アブシェバの様子では、たとえ、アリュテが調べた通り、噂を流した張本人がアブシェバであっても、大人しくそれを認めるとは思えない。
俺達は言われるままに退去した。
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