6 アグニの噂の出どころは? 


 カリペの件を役人に通報した後、俺とコレティアは港へ移動して、ゴルテスを知っている船長や商人がいないか聞き込んで回った。


 が、有益な情報は得られなかった。


 夕暮れまで聞き込みを続けた後、俺とコレティアはレンドロスの家へ向かった。夕食は、レンドロスと一緒にとる約束をしている。


「遅かったわね。どこに行ってたのよ」


 レンドロスの家へ着くなり、待ち構えていたアリュテが俺達を玄関へ迎えに来た。


「もうっ、せっかくアグニの噂の出所がわかったから、すぐに教えてあげようと来たのに、あなた達ったら、なかなか帰ってこないんだもの。待ちくたびれちゃったわ」


 アリュテは子供っぽく頬をふくらませて言う。


「待たせて悪かった。港に聞き込みに行ってたんだ。それより、もうわかったのか?」


 驚いて尋ねると、アリュテは「ふふん」と鼻を鳴らして胸を反らせた。


「言ったでしょ、私に任せておきなさいって。私にかかったら、噂の出所を調べるくらい、父さんを出し抜くより簡単よ」


 おそらく、嫁入り前のアリュテは、両親の目を盗んで遊び歩くような娘だったのだろう。レンドロスの苦労が忍ばれる。


「それで、噂を流していたのは誰だったんだ?」


「夕飯を食べながら話すわ。母さんが支度をして待ってるの。お腹を空かせたラリオスを待たせるのも可哀想だし」


 アリュテは夕べ俺とコレティアが通された中庭の向こうの部屋へ、俺達を案内した。


 部屋の中央には大きなテーブルが置かれ、焼いてソースをかけた魚や擂り身団子イシキア、白パンや葡萄酒等が並んでいる。


「臥台に寝転んでの優雅な食事とはいかないが、我慢してくれよ。その代わり、セルポネの料理は旨いぞ。わしが保証する」


 食事の前に葡萄酒で一杯やり始めていたレンドロスが、赤く染まった顔で言う。夫の言葉に、テーブルの上の皿を整えていたセルポネが、照れたようにおっとりと微笑んだ。


「形式ばって堅苦しい食事よりも、気のおけない人達と話しながら食事する方が好きよ」

 コレティアが笑顔で答えて席に着く。


「どうだ? 一杯」


 レンドロスが青銅のコップに葡萄酒を入れて、俺に差し出す。俺は礼を言って受け取ると杯を呷った。

 水で割られているが、濃い目だ。ギリシア風にチーズと小麦粉が入っていて、濃厚な味わいになっている。

 歩き疲れた体に、葡萄酒は心地よく染み渡った。


「お待ちかねの噂の出所なんだけど」


 食事が始まると、すぐにアリュテが口を開いた。


「どうやら、噂を流しているのは、ヨセフ・ベル・アブシェバって商人みたい」


「名前からすると、ユダヤ人か?」

 ヨセフは、ユダヤ人に多い名前だ。


「そそ。コム・エル・ディッカ地区に住んでいて、穀物商を営んでるわ」

 ラリオスの為に魚の骨を取り除いてやりながら、アリュテが頷く。


 アレクサンドリアの住人の四分の一はユダヤ人だ。ヒエロソリュマイェルサレムを除くと、最も多くユダヤ人が住んでいる都市である。


 ユダヤ人は、古くからアレクサンドリアに住みついている。経済力があるので、現地民であるエジプト人よりも社会的に上層にいるほどだ。

 プトレマイオス朝時代を通じてギリシア化し、今ではヘブライ語ではなく、ギリシア語を話している。ギリシア風の名前を名乗っているユダヤ人も、少なくない。


「ユダヤ風の名前を名乗っているということは、アプシェバはユダヤ教徒なのか?」


 俺は、口の中の魚を飲み下してから、アリュテに尋ねた。あっさりした白身にクミンやマジョラム等のハーブが利いていて旨い。


 ローマに支配される民族は数多いが、中でも、ユダヤ人は他の民族とは異なる特殊な存在である。


 その理由は、ユダヤ人が信じるユダヤ教が、一神教であるという差異に尽きる。


 ローマ人も、ローマ人以前にオリエントを支配していたギリシア人も、多神教である。多神教の民にとっての神々は、人間に助力を与えてくれる存在にすぎない。


 だが、一神教のユダヤ人にとっては、神は教徒の生活を戒律によって縛る存在である。もちろん、他の神を信仰する事態など、許すはずがない。

 この束縛が、ユダヤ人をローマに同化させる足枷となっていた。


 ローマが広大な領域を治められているのは、支配した土地の住人の同化を進めてきたからである。同じ価値観を共有し、経済圏に組み込めば、反乱も起こりにくい。

 同化の方法の最たるものが、ローマ市民権の授与だった。


 属州民がローマ市民権を得るには幾つかの手段があるが、一番多くローマ市民を創出しているのは、ローマ軍団である。


 ローマ軍団はローマ市民のみで構成する軍団兵レギオーナリウスと属州民で構成する補助兵アウクシリアに分かれている。

 補助兵は、兵役期間である二十五年を勤め上げれば、ローマ市民権を得られた。


 この市民権は世襲可能だ。市民権を得れば、属州税を免除される上に、軍人や役人として出世するにも有利だ。

 その為、補助兵に志願する属州民は多く、毎年、一定のローマ市民を創出していた。補助兵の制度は、属州民のローマ化に大きな役割を果たしている。


 だが、補助兵に志願するユダヤ人は、他の民族に比べると、驚くほど少なかった。


 ユダヤ教の神は、ユダヤ人が他のものに忠誠を捧げる事態を禁じている。だが、補助兵になれば、ローマ軍団の最高指揮権を持つ皇帝へ忠誠を誓わなくてはならない。


 ローマ軍団では、毎年、一月一日に各軍団で、軍団兵、補助兵が歓呼の声を上げ、皇帝への忠誠を誓う儀式が行われる。ユダヤ教徒がこれを受け入れられるわけがなかった。


 こうしたユダヤ人の特殊性を、歴代皇帝達は統治の必要上、認め続けてきた。弾圧して反乱を起こされるより、特殊性を認めて妥協して得られる平和を選んだのである。


 しかし、ローマが認めたユダヤ人の特殊性に納得できないのが、ギリシア人だった。

 ローマに支配されて以来、順調にローマ化しているギリシア人にとっては、ユダヤ人は義務を果たさずに権利だけを享受しているように見えてしまう。

 元々、ギリシア人もユダヤ人も通商に強い民である。お互いの権益を守る為に、敵対する事態も多い。


 ローマは支配者として、ギリシア人とユダヤ人の調停役を務め、反ローマに起たない限り、ユダヤ人の特殊性を認めてきた。

 しかし、イェルサレムにユダヤ人の祭政一致政体を立てる一事だけは認めなかった。認めてはローマの支配が崩れるからだ。


 だが、ユダヤ人にとっては、イェルサレムに神権一致政体を樹立することが、長年の民族の悲願である。


 ユダヤ人の間にくすぶる火種が爆発したのが、ローマ暦八一八年(紀元六六年)に勃発したユダヤでの反乱だった。


 一口にユダヤ教といっても、穏健派と急進派に大別される。穏健派は都市に住む富裕層に多く、商売の関係上、ローマが守る平和を受け入れていた。対して、急進派は内陸部のユダヤ人や、貧しいユダヤ人に多い。


 反ローマに立った急進派は、イェルサレムからローマの勢力を追放しようとし、ローマの守備隊は殺され、穏健派の中心的人物も殺された。とどまるところを知らない反ローマの暴動は、ユダヤ地方の各地へ広がった。

 この反乱を鎮める為に、ネロ帝に派遣された将軍が、後に皇帝となるウェスパシアヌスである。


 途中、ネロの自死と、それに伴う内乱により、ローマ軍の反攻は一時中断された。

 が、皇帝に即位したウェスパシアヌスに代わって、息子ティトゥスの指揮で、ローマ暦八二二年(紀元七十年)にユダヤ人が立て籠もるイェルサレムは落城した。


 俺の言葉に、ソースで汚れたラリオスの顔を拭いてやりながら、アリュテが頷いた。


「そうみたい。だから、会いに行くのはよしたの。あたしはユダヤ人に差別意識を持ってないけど、そうじゃない人もいるから」


 俺は、アリュテが軽率な行動を取らなかった幸運を、心から感謝した。

 今日、カリペから聞いた話が本当だとすると、水面下でとんでもない陰謀が動いているらしい。


 アグニの噂を流している人物は、陰謀に関わっている可能性がある。アリュテを危険な目には遭わせたくない。


「調べてくれて助かったよ、アリュテ。だが、悪いが、ここで手を引いてくれ。もしかしたら、アブシェバは予想以上の悪事に関わっているかもしれない」


「あら、そうなの? でも大丈夫。あたしの役目はここまで。主菜は、お二人さんに任せるわ。あっ、でも、調べて面白いことがわかったら、教えてちょうだいね」


 アリュテは明るく笑うと、目配せした。


「でも、変ね。アブシェバがユダヤ教徒なら、アグニの噂を流すはずがないわ。ユダヤ教は一神教だもの。他の神の名を語ることは、禁じられているのに」


 新しい謎を見つけたコレティアが、碧い瞳を煌めかせて言う。


「アブシェバは、調べる価値がありそうね」


「しかし、ウェスウィウス山の噴火はアグニの怒りだという噂を流して、何の得があるんだろうな。人心を混乱させたいのか?」


 俺は、皿に二つだけ残った擂り身団子の片方に手を伸ばしながら呟いた。粗く刻んだ海老がぷりぷりしていて旨い。


「首都では、ウェスウィウス山の噴火は、ウルカヌスやプロセルピナの怒りだと騒がれているけれど。なぜ、わざわざ遠くて馴染みの薄いインドのアグニの名を出すのかしらね」


 魚に添えられていた黒オリーブを摘みながら、コレティアが俺の言葉に頷く。


「アレクサンドリアでは、噴火のことは噂になっているくらいで、特に騒ぎなんかは起こってないわよ」


 葡萄酒で微かに頬を染めたアリュテが教えてくれる。

 ローマの金持ち達にとっては、自分達の別荘が並ぶネアポリス湾が噴火の被害に遭った事態は大問題だが、アレクサンドリアの住人にとっては、さほど直接的な影響はないのだろう。


「ここで悩んでいても始まらないわ。明日の予定は決まりね。アブシェバの正体を確かめに行きましょう」


 まるで、大競技場に剣闘士の試合を見に行くかのように、コレティアはわくわくした表情で宣言した。


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