2 おじいちゃまは神様に怒られたわけじゃないんだね


 レンドロスの家は、町の北東にあるギリシア人居住区・ブルケイオン地区にあった。


 計画的に建てられた都市であるアレクサンドリアは、建設当初から、人種ごとに居住区が分けられている。

 町は南北、東西それぞれに走る大通りによって、四つの地区に分けられている。大通りは幅四十七パッスス(約七十メートル)にも及び、街の中央で交差しているのだ。


 プトレマイオス朝時代は、支配者であるギリシア人は、王宮もある都市の中心、北東のブルケイオン地区に、被支配民であるエジプト人は西南のラコティス地区に、その他の民族は南東のコム・エル・ディッカ地区に住まわされていた。

 支配者がローマへ交替しても、人種ごとの住み分けは、ほとんど変化していない。

 ちなみに、ファロス島と突堤で繋がっている北西の地区は、港と倉庫街になっている。


 レンドロスの家は、集合住宅ではなく、こぢんまりとしていたが、一戸建てだった。


「俺の祖先は、アレクサンドリアができて以来、ここに住んで船乗りをしてるんだ」


 レンドロスが自慢する。ギリシア風の家は、古めかしいが、よく手入れされていた。


「一家の主のお帰りだぞ」


 大声を上げながらレンドロスが我が家へと入っていく。奥から慌てた様子で、年老いた門番と、若い奴隷が主人を迎えに駆けてきた。


「なんだ、玄関が無人とは不用心だな」


 数か月ぶりの帰宅だというのに、肩すかしを食らったレンドロスが不満げな声を上げる。


「すみません」

 実直そうな門番が頭を下げる。と、軽い小さな足音が、駆けてきた。


「おじいちゃま!」

 門番と奴隷娘の間をすり抜け、小さな影が一番前へ飛び出す。


「おお、ラリオス! 来てたのか!」


 五歳くらいの少年の姿を見た途端、レンドロスの顔がやにさがった。

 足にしがみついてきた少年をひょいと抱き上げ、肩車する。ラリオスと呼ばれた少年は、手を叩いて喜んだ。


「すごいすごい! たかーい!」


「お前に、ローマで戦車の玩具を買って来たんだぞ。四頭立てのやつだ」

「わあ、すごい! 見せて見せて!」


「その前に、婆さん達に挨拶しないとな」


 エジプト人の若い女奴隷に、俺とコレティアの部屋を用意するように言いつけると、孫を肩に乗せたまま、レンドロスは廊下を進んでいく。

 俺とコレティアは後に続いた。


 玄関の廊下を過ぎると、中庭に出る。中庭には、二人の女性が立っていた。


「お帰りなさい、あなた」


 地味なストラを着た年かさの女性が、笑顔で夫を迎える。レンドロスの顔を見て、心から安堵した様子だ。レンドロスの妻だろう。


「おう。今、帰ったぞ。こっちは客だ。泊めることになった。元老院議員のお嬢さんだから、粗相のないようにな」


 レンドロスの言葉に、若い方の女が、小さく「へえ」と感心したように呟いた。


「つれあいのセルポネと、娘のアリュテだ」

 レンドロスが俺とコレティアを振り返り、二人を紹介すると、娘に軽口を叩く。


「なんだ、アリュテ。とうとう亭主に愛想をつかされて放り出されたか?」

「おあいにくさま。夫婦仲はいいのよ。父さんと母さんみたいにね」


 アリュテが唇を尖らせる。とびきりの美人というわけではないが、よく動く表情に愛嬌あいきょうがあった。

 客の前で娘にからかわれて、レンドロスは口をひん曲げる。


「へっ。誰が、こんな婆さんと……」

「母さんが婆さんなら、父さんは爺さんじゃない」

 すかさず、アリュテが口を挟む。


「ほらほら、あなた達。お客様を立ちっ放しにさせるなんて。さあさ、どうぞこちらへ」


 咎めるように夫と娘を見たセルポネが、俺とコレティアを中庭を横切ったところにある部屋へ案内する。

 先程まで、ここで娘や孫と語らっていたのだろう。テーブルの上には、ルリチシャの茶の入ったグラスや果物を盛った鉢が置かれたままだった。


「ごめんなさいね。片づけられてなくて。あなた方、お夕飯は?」

 クッションを置いた椅子に座るよう促しながら、セルポネが尋ねる。


「もう済ませましたから、お気遣いなく」

 俺の言葉に頷いたセルポネは、続けて問う。


「そう。長い船旅でお疲れかしら? それなら、すぐに寝台の用意をさせるけれど?」


「それよりも、私達もお茶をいただいてもいいかしら?」

「もちろんですよ。果物も新しいものを持ってこさせましょうね」


 コレティアの言葉に笑顔で頷くと、セルポネは手を叩いて奴隷を呼んだ。

 俺達に続いて部屋へ入ってきたレンドロスは鉢の中の無花果を手に取ると、くついだ様子で長椅子に腰掛ける。

 肩車から下りたラリオスは、祖父の側にぴったりくっついたままだ。アリュテもレンドロスの隣に腰を下ろした。


「父さんたら。久しぶりに帰ってきたんだから、母さんに優しい言葉をかけてあげてよ。母さんも私もすごく心配したんだから。ウェスウィウス山が噴火して、石が降ったり、海が大荒れになったりしたっていうじゃないの。もし、父さんが噴火に出くわしてたら、どうしようって、気が気じゃなかったんだから」


 ウェスウィウス山の噴火から、まだ一ヶ月も経っていないが、アレクサンドリアには、もう情報が伝わっているらしい。人と物が集まるところには、当然、情報も集まってくる。


 今、安全な場所から噴火に遭った時を思い出すと、よく無事に逃れられたと思う。


 噂で噴火の被害を聞いたセルポネやアリュテは、さぞかし心配しただろう。


 もともと航海は危険に満ちている。いつ嵐に遭って難破してもおかしくはない。

 誰も知らない海の真ん中で藻屑もくずとなれば、家族はいつまでも帰ってこない者を待つ羽目になる。


「ウェスウィウス山の噴火はすごかった。が、俺の船がそれくらいでどうにかなるもんか」


 レンドロスがひげの下で大口を開けて、豪快に笑う。コレティアに蹴り飛ばされて気絶していたのを知っている俺は苦笑したが、レンドロスの名誉の為に黙っておいた。


「え? 父さん、本当に噴火に遭ったの?」


 レンドロスの言葉に、アリュテが驚いて声を上げる。セルポネも小さく息を飲んだ。


「ああ、ウェスウィウス山から軽石の雨が降ってきてな。海が川原みたいに軽石で覆われちまった。長いこと船乗りをしているが、あんな光景は、初めてだったな」


 髭に手をやりながらレンドロスが話す。と、顔を強張らせているセルポネに気がついて、慌てて言い足した。


「だが、船も俺も無事に帰ってきたんだ。もう、何も心配することなんかない」


 口では婆さんだなんて呼んでいるくせに、アリュテが言っていた通り、レンドロスとセルポネの夫婦仲はいいらしい。俺は微笑ましい気持ちで二人を見やった。


「よかったあ。じゃあ、おじいちゃまは、神様に怒られたわけじゃないんだね。無事に帰ってきたもの」


 祖父の顔を見上げて大人しく話を聞いていたラリオスが、心からほっとした様子で言う。


「山がどっかーんってなったのは、神様が怒ったからなんでしょう? えっと、アグ……アグラだっけ?」


「アグニのこと?」

 素早く反応したコレティアが問い返す。ラリオスは大きく頷いた。


「そう! アグニ! アグニって神様が怒ったんだって」


 まさか、アレクサンドリアで再びアグニの名前を聞くとは、思っていなかった。


「ウェスウィウス山の噴火は、アグニの怒りだという噂が、アレクサンドリアで流れているのか?」


 俺はアリュテに尋ねた。

 「え? ええ……」と、俺の真剣な声に戸惑いながら、アリュテが頷く。


「いつからだ?」


「えーっと。そうね、ウェスウィウス山の噴火が伝わって、すぐに流れ出したかしら?」

 俺の質問に、アリュテが思い出す表情をしながら答える。


「アグニって神は、アレクサンドリアでよく知られているのか?」


 アレクサンドリアの南東、紅海に面するアラビア半島沿岸部は「幸運のアラビアアラビア・フェリックス」と呼ばれる。

 香辛料や没薬、インドからの真珠や宝石、更にはインド経由の中国の絹等の高額商品の取引で財産を築く機会に恵まれているからだ。

 それらの高額商品はアレクサンドリアへ集まり、海路ローマに運ばれる。


 アレクサンドリアはインドとの関わりが深い。プトレマイオス朝の時代には、インドの神官が、インドの神の教えを伝える為に、街頭に立つ姿も見られたらしい。アグニの名が普通に語られていても不思議ではない。


 だが、俺はアリュテに質問しながら、皇帝港でのレンドロスとコレティアのやり取りを思い出していた。

 あの時、レンドロスはアグニの名を知らなかった。ということは、アグニはよく知られた神ではないのか。


 無花果の汁で汚れたラリオスの口元を拭ってやりながら、アリュテはかぶりを振った。


「いいえ。噴火はアグニの怒りだって噂が流れるまでは、聞いた覚えがないわ。私が知っているインドの神は、シヴァくらいね」


 シヴァは、俺が初めて聞く神の名だ。


「アリュテ。あなたはアグニの噂を誰から聞いたの?」

 俺のそばの椅子で出された茶を飲んでいたコレティアが口を開く。


「知り合いの奥さんからよ。そうそう、夫も似たような話を言ってたわね。でも、あなた達、そんなにアグニの噂が気にかかるの?」


 アリュテが小首を傾げる。好奇心旺盛に尋ねる表情は、まだ若い嫁入り前の娘のようだ。


 コレティアがすぐさまアリュテに、殺人事件について説明し始める。俺達が捜査の為に、わざわざアレクサンドリアへ来た理由も。


 コレティアが話を始めてすぐ、幼い子供には刺激的な内容になりそうだと判断したセルポネが、そろそろ眠くなってきたラリオスを連れて、部屋を出ていった。

 ラリオスは、まだレンドロスの隣にいたいようだったが、眠気には勝てなかったと見える。手の甲で目をこすりながら、セルポネに手を引かれていく。


 一方、コレティアの話を聞いたアリュテは好奇心を刺激されたらしい。目を輝かせて口を開いた。


「つまり、あなた達は、ゴルテスが殺された理由に、アグニの噂が関わっているんじゃないかと考えているのね?」


「ああ。当てずっぽうでしかないがな。だが、ローマで得られた手掛かりは、もう全て行き詰っているんだ。手がかりになりそうなことは、なんでも調べてみる価値がある」


 俺の言葉に、アリュテがわくわくした表情で提案した。

「私が噂の出所を調べてあげましょうか?」


「いいのか?」

 俺はアリュテを、次いでレンドロスの顔を見た。

 俺もコレティアも、アレクサンドリアに伝手つては持っていない。この町に住むアリュテの協力が得られれば有難い。

 が、会ったばかりの若い女性を、血生臭い殺人事件の捜査に巻き込むのはためらわれる。


 俺の問いかけをどう受け取ったのか、アリュテが既婚夫人らしく地味な色のストラをまとった胸元を叩く。


「大丈夫よ。うちの主人は、ここで商売をしているの。これでも、顔は結構広いのよ」


 俺は、調査能力に疑問を呈したわけではないのだが。

 代わりに、レンドロスが顔をしかめて答えてくれた。


「こいつは小さい頃から好奇心旺盛で、面白そうなことには何だって首を突っ込むんだ。どうせ放っておいても、自分で噂の元を調べてくるに決まってる」


 どうやら、娘のじゃじゃ馬ぶりに困っているのは、フラウィアだけではないらしい。俺はアリュテの申し出を、有難く受けた。


「あまり大々的には調べないでくれよ。万が一にでも、あんたに危害が及ぶことがあれば、レンドロスに海に沈められちまう」


「大丈夫よ。そんなへまはしないわ」


 アリュテがからからと笑う。あっけらかんとして、自信満々なアリュテの笑顔に、俺とコレティアも釣られるように微笑んだ。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る