第4章 女王の裳裾の影で蠢くもの 紀元79年 9月

1 ナイルの女主人


「お嬢さん。アレクサンドリアの港が見えますぜ」


 レンドロスの声に、船室にいた俺とコレティアは、甲板へ出た。潮風が髪やテュニカの裾をたなびかせる。


 帆に十分に風を孕んだガラテア号は、海面を切り裂くようにアレクサンドリアを目指して進んでゆく。

 夕陽に照らされた海は、宝石を砕いて散りばめたかのように輝いていた。緩やかに波立つさまは、遠く中国からやってくる絹の滑らかさを連想させる。


 金色を帯びた赤、ルビーのような紅、熟れたスモモのような桃色、蝋燭ろうそくの光りのような橙色、冷やかな赤紫と、夕暮れの様々な色調の赤が海面を彩り、「地中海の女王」とも「ナイルの女主人」とも称えられるアレクサンドリアの街を飾り立てていた。


 十七日前、俺とコレティアは、ようやくガリアからの革製品が届いたレンドロスの船に乗って、ローマを出航した。

 この時季の地中海は、北西風が吹く日が多い。ローマからアレクサンドリアへ向かうには絶好の風向きだ。


 何事もなくアレクサンドリアへ着けたのは、風向きが良好だったおかげだ。


「アレクサンドリアは、出航する時よりも、寄港する時の方が好きよ」


 甲板に出たコレティアが、潮風に金髪をなびかせながら、まぶしそうにファロス島の灯台を見上げた。

 白い肌が夕陽に照り映えて、内側から輝いているかのようだ。


 ファロス島は、アレクサンドリア港から一ミリアリウム(約一・五キロメートル)沖合にある島で、港とは人工の突堤で結ばれている。

 高さ九十パッスス(約百三十メートル)もあるファロスの灯台は、この世で最も高い建築物の一つだ。海岸線にすっくと直立する灯台の姿は、オベリスクを連想させる。


 ファロス島に灯台が建てられたのは、この付近の海岸には、沖から来る船にとって目印となる地形や建築物がない為である。プトレマイオス一世がエジプトを支配した際に、建築家ソストラトスの指揮で造られた。


 灯台は三層に分かれていて、基盤は一辺二十パッスス、高さ四十パッススの方形の塔で、その上に窓のある八角形の塔が載り、一番上層部は円柱状の塔である。屋根の上には海神ポセイドンの巨像が立ち、地中海を睥睨へいげいしている。


 だが、灯台の驚くべき特徴は、高さだけではない。塔の一番上には巨大な鏡が置かれていて、昼は太陽の光を、夜は鏡の前で樹脂の多い木を燃やした炎を反射させ、目印としての役目を果たしているのだ。灯台の光は三十四ミリアリウム(約五十キロメートル)先からでも見えるほどだ。


 夕暮れに灯台の光を見上げると、まるで、地上に降りてきた一番星のように思える。


 白い大理石で立てられた灯台は、夕暮れの光を浴びて、フラミンゴのように紅に染まっている。反対側は、そこだけ一足早く夜が来たように、青みがかった陰になっていた。


 港の向こう側には、夕暮れに赤く染まる街並みも見える。明るい赤と黒い陰に彩られた街並みは、精緻なモザイクのようだ。


 アレクサンドリアは、約四百年前、ナイル下流のデルタ地帯の西にアレクサンドロス大王によって建設された町だ。

 ローマの属州となった今では、首都で消費される小麦の三分の一はエジプトが産し、アレクサンドリアから大型帆船で運ばれる。


 大王が三十二歳で死んだ後、エジプトは大王の後継者ディアドコイ達の一人、プトレマイオス一世が支配し、アレクサンドリアが首都となった。


 プトレマイオス朝は、ローマ暦七一三年(紀元前三十年)にアウグストゥス帝によって滅ぼされるまで、約二百七十年にわたって続くが、最後の女王クレオパトラ七世は、あまりに有名だ。


 アウグストゥス帝の政敵アントニウスがクレオパトラの色香に迷わされ、ローマをないがしろにした愚挙は、当時の生き残りがいなくなった今でも、ローマ人の記憶に残っている。


 数ヶ月前、皇帝に就任したティトゥスは、青年時代からの愛人、ユダヤ王国の王女ベレニケを妻にと望んだが、ローマ市民はオリエントの女性が皇妃になる事態に抵抗を示した。

 市民は、クレオパトラがローマに及ぼした害悪を忘れていないのだ。市民の反対を受けて、ティトゥス帝は妻にすることを諦め、首都へ来ていたベレニケ王女をユダヤに帰している。


 つまり、四十歳のティトゥス帝は、現在、独身である。

 過去には妻がいたが、十年以上前に離婚しており、娘が一人いるだけだ。亡き父ウェスパシアヌス帝により、ティトゥスの後を継ぐのは弟のドミティアヌスと決められているため、帝位に不安はないが。


「船を降りたら、すぐに宿を探さないとな」


 俺は、暮れなずむ空を見上げて呟いた。薄紫だった東の空の色は、だんだんと濃くなり、夜の気配が近づいている。


 俺の呟きを聞いたレンドロスが申し出た。


「宿の当てはあるのか? なければ、俺のうちに泊めてやってもいいぜ。しなびた婆さんがいるだけの家でよけりゃあな」


「いいのか?」

 正直、ありがたい。レンドロスの家なら、下手な宿に泊まるよりも遥かに安心だ。

 聞き返した俺に、レンドロスは慌てて言い足した。


「言っとくが、期待しないでくれよ。空き部屋を使えるだけだし、飯も、うちのばばあが作る飯だ。まあ、葡萄酒くらいなら、つけてもいい。あんた達は、お得意さんだからな」


 普通、こんなに短期間でローマとアンティオキアを往復する客など、そういないだろう。


「あら、それで十分よ。お礼は弾むわ」

 コレティアがさっさと決断を下す。


「さすがお嬢さん。そう来なくっちゃ」

 レンドロスが、ひげの下でにやりと笑った。


 アレクサンドリアはエジプトの玄関口だ。ナイル川をさかのれば、ローマより遥か古くからの歴史を誇るエジプトを堪能たんのうできる。


 ピラミッド、スフィンクス、エジプトの神々に捧げられた数々の神殿等々、悠久の地エジプトは、人をきつけてやまない。帝国のあちこちから、観光客が訪れる。

 カエサルも、愛人クレオパトラを伴って、二ヶ月間も優雅なナイル周遊を楽しんでいる。


 俺だって、いつか金が貯まったら、ナイル川の船旅を楽しみたい。

 俺の財力では、他の観光客と一緒の船に、ぎゅうぎゅうに詰め込まれていくのがせいぜいだが。


 夕方の今からでは、探しても、ろくな宿は見つかるまい。レンドロスの申し出のおかげで、俺の心配事が一つ減った。


 水主かこ達が船尾の櫂を操り、ガラテア号が港へ入ってゆく。


 日没まで間がないにもかかわらず、港は活気に満ちていた。


 ローマへ小麦を運んで、アレクサンドリアへ帰ってきたのだろう。あちこちに大型帆船が停泊している。

 荷担ぎ達が忙しそうに積み荷を運び、船から降りた観光客が、ほうけたように周りを見回している。

 驢馬ろばに引かれた荷車が、ぼんやりしている観光客を蹴散らすように進み、日が暮れるにつれて数を増してきた娼婦達が、観光客相手に一稼ぎしようと、色っぽい肢体を見せびらかしていた。


 アレクサンドリアの女達の美しさは有名だ。

 旅行者達は、「アレクサンドリアの女達は、皆、女神のように美しい」と巻物の中で褒め称えている。


 アレクサンドリアには、様々な人種の女達が集まっている。

 赤毛のガリアの女、引き締まった体つきのヒスパニアの女、黒い宝石のようなエティオピアの女、数え上げれば際限がない。

 娼婦達は金と引き換えに、一夜の甘美な夢を味わわせてくれるらしい。


 残念ながら、今回の旅では、噂の真偽を確かめる術はないが。

 コレティアと旅する限り、俺にそんな機会があるわけがない。


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