16 あなたが薄情な人ではないと、信じているだけです。


 コレティアと一緒に屋敷へ行き、奴隷にフラウィアの居場所を尋ねると、応接間タブラリウムにいる、との返事だった。


「私は、ここで待ってるわ」


 顔を見せてフラウィアの気が変わっては大変だと思ったのか、コレティアが玄関広間アトリウムで足を止める。構わず俺は、タブラリウムへ入っていった。


「コレティアの縁談を進めていたんじゃなかったんですか」


 入るなり、質問を口にした俺を、フラウィアは椅子に座ったまま、穏やかな笑みを浮かべて迎えた。


「なぜ、コレティアをアンティオキアへ? せっかく、苦労してローマへ連れ帰ったのに」


「事情が変わったんですよ」


 フラウィアが答えながら、目の前の椅子を示す。立ったまま小柄なフラウィアに質問を浴びせかけていると、まるで俺が糾弾しているみたいな妙な気持ちにさせられる。俺は、椅子に腰掛けた。


 フラウィアを見ると、笑いをこらえているような顔をしている。

 俺は、ぴんと来た。


「コレティアが求婚者を蹴り飛ばして、ついに大怪我をさせたんですか? それで、訴えられそうだ、と?」


「訴えたくても、訴えられないでしょうよ」


 微笑みながらフラウィアが言う。確かに、十七歳の少女に蹴り飛ばされて大怪我をさせられましたなんて、いい年をした大人の男なら、恥ずかしくて人に言えない。


「それに、怪我をした時は、コレティアが手を出したわけではないのだもの」


 おかしそうに笑いながら、フラウィアは昨夜の晩餐ばんさんで起こった事件を教えてくれた。


 昨夜、招かれた求婚者の一人は、例によってコレティアの蹴りを食らって昏倒こんとうした。それだけなら、いつもと同じだ。だが、昨日の求婚者は、いつもより臆病者だったようだ。


 目覚めた時、すぐ傍らに、自分を蹴り飛ばした恐怖の女王が端然たんぜんと座っているのを見て、動転のあまり逃げようとした。

 その際、足を滑らせて、自分から臥台がだいの脚に頭をぶつけたそうだ。臥台の脚には青銅製の飾りがついていて、転んだ拍子に、飾りで額をぱっくり切った。

 つくづく運の悪い奴だ。


「出血は多かったけれど、傷は大したことがなかったの。でも、血を見て逆上してしまってねえ。二度とコレティアの顔は見たくない。求婚者だって現れないようにしてやるって息巻いて、帰ってしまったの」


 眉を寄せ、困った表情をしながらも、フラウィアの声には抑えきれない笑いがあふれている。そんな面白い騒動なら、俺も見たかった。


「最近では珍しい、文武両道できもの据わった立派な青年って紹介だったのだけれど、だめね。人の噂をそのまま信じては。やっぱり、自分の目で確かめなくては」


 あくまで真面目な表情で言うと、フラウィアは話の間に奴隷が運んできたミントティーを一口飲んだ。


「それで、ほとぼりを冷ます間、アンティオキアへと?」

 俺の問いに、フラウィアはゆっくりと頷いた。


「その通り。私の方も、コレティアがいない間に、あの子が気に入るような青年を探して、対策を立てたいもの」


 どんな男ならコレティアが気に入るのか、俺には想像もつかない。だがまあ、母親なら予想がつくのだろう。


 フラウィアは俺を見ると、コレティアそっくりの悪戯っぽい笑顔を浮かべた。


「それに、手紙でコレティアの縁談を進めるようにと指示するだけで、実際の苦労は私にだけ押し付けるなんて、不公平だと思わない? 夫婦なんですもの、クィントゥスもコレティアの縁談に苦労するべきでしょう」


 フラウィアは、コレティアの説得をケリアリスに任せるつもりらしい。コレティアが憧れている父親の説得なら、聞き入れるかもしれない。聞き入れない気もするが。


「で、俺に、またコレティアの護衛をしろとおっしゃるんですか?」


 眉を寄せて尋ねると、フラウィアはにっこり微笑んで、テーブルの上に置かれた革袋を示した。

 先程、ミントティーを運んできた奴隷が、一緒に置いていったものだ。


「報酬は、前回の二割増しでどうかしら?」


 中身は銀貨だろう。用意がいい。良過ぎるほどだ。

 俺は顔をしかめた。


「俺のことを、金さえもらえれば、なんでもやる男だと思ってないでしょうね?」


 返事次第では、屋敷から即座に出て行ってやる。


「そんな。とんでもありませんよ、ルパス」


 フラウィアは、そんな風に思われては心外だとばかりに、即座にかぶりを振った。穏やかな目で、真っ直ぐに俺を見る。


「私は、ただ、あなたが護衛もなしに、コレティアをむざむざ危険な旅に発たせるほど薄情な人ではないと、信じているだけです」


 俺は、喉元まで出かかった「くそっ」という言葉を飲み込んだ。元老院議員夫人の前で使うには汚すぎる。

 俺も、ポピディウスを笑えないほどの、お人よしだ。


 コレティアの性格はわかっている。お目付役がいなくなったら、一人で嬉々として危険の真っ只中へ飛び込んでいくだろう。

 コレティアは、好奇心を満たす為には、絶対にためらったりなんかしない。

 おまけに俺は、コレティアを見捨てられるほど、冷酷じゃない。放っておける性分だったら、ローマに帰ってきた時点で、俺は自由を謳歌おうかしている。


 したたかなフラウィアは、俺の性格など、とうにお見通しだろう。冷徹になれない甘さをやんわりとからかわれている気がして、居心地が悪い。


「ケリアリス総督がコレティアの説得に失敗しても、俺は知りませんよ」


 せめて、嫌みの一つでも言ってやりたくて、俺はすげない口調で言い、唇をひん曲げた。


「クィントゥスは、昔からコレティアに甘いから。説得に失敗するかもしれないわね」

 フラウィアは動ずる様子もなく頷いた。


「万策尽きたら、そうね。コレティアが、自分が気に入った夫を見つけて引っ張ってくるまで、のんびり待とうかしら」


 どこまで本気かわからない口調で言って、上品に笑う。

 俺は反射的に、コレティアが、未来の夫の首に犬のように鎖をつけて、ぐいぐい力任せに引っ張っている姿を思い描いた。


 誰がそんな目に遭うのかは知らないが、気の毒としか言いようがない。


「お母様。それ、本当?」

 不意に、コレティアが戸口から顔を出した。壁の向こうで、立ち聞きしていたらしい。


「まあ、コレティア。立ち聞きなんて、よくありませんよ。はしたない」

 フラウィアが眉を寄せて、コレティアを軽く睨む。


「ごめんなさい、お母様」

 コレティアは素直に謝ったが、悪びれた様子は微塵みじんもない。


「それより、さっきおっしゃったことは、本当?」


 瞳を輝かせたコレティアの表情を見ただけで、俺はコレティアの考えを看破した。

 絶対に夫探しなどせず、いつまでも自由気儘じゆうきままな身でいる気だ。

 フラウィアも同じ想像をしたらしい。表情を引き締めて、きっぱりと言う。


「まだ、そうと決めたわけではありませんよ、コレティア。あなたは、たった数人の求婚者に会っただけでしょう。それだけで結論を出すのは、早過ぎます。もっと色んな青年に会ってみたら、あなたが結婚してもいいと思える人がいるかもしれないでしょう?」


「そんな人、いるかしら」

 コレティアは不満そうに唇を尖らせて呟く。


「あなたがアンティオキアへ行っている間に、私が探しておきますよ」


 コレティアは何も言わなかった。だが、あからさまに迷惑そうな表情を見れば、何を考えているかは、明らかだ。

 フラウィアは慈愛を込めた目で、コレティアに微笑みかけた。


「あらあら。そんな顔はしないでちょうだい。帰って来てくれたと思ったら、また、暫くの間、離れるのに。最後に見た顔が、そんな顔では、寂しいわ」


「大丈夫よ、お母様。私は、いつだって元気でいるもの」


 コレティアは咲いたばかりの花のように笑うと、弾むような足取りでフラウィアに近づき、小柄な体を抱き締めた。

 フラウィアは目を閉じて、娘の腕に頬を寄せる。心から、娘の無事を神々に祈っているのだろう。


 フラウィアの気持ちは、よくわかる。コレティアのようなじゃじゃ馬を守り通さなければならないなんて、つくづく俺も、厄介な仕事を引き受けたもんだ。


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