15 狼も満腹なら手を出さない


「おいっ、コレティア!」


 俺は思わず声を荒げた。ポピディウスをグレースムから引き離そうと苦労しているのに、真逆のことをいってきつけるなんて。

 何を考えているのか、理解に苦しむ。


 一方、コレティアの言葉に光明を見出したポピディウスは、顔を輝かせた。


「そうだね、コレティア! 僕がグレースムを守ってあげなきゃね!」


 拳を握り締めて、使命感に燃えている。このまま、グレースムの所へ駆けて行きそうだ。


「おいっ、いったい何を考えている。ポピディウスの奴の背中を押すなんて。狼の口元へ子羊を差し出すようなもんだぞ」


 俺は、コレティアへ歩み寄ると、低い声で囁いた。俺に睨みつけられても、コレティアは平然としている。


「狼が絶対に食べるとは限らないでしょう。満腹なら、手を出さないわよ」

「狼が小食ならいいんだがな。だが、あれは、きっと貪欲だぞ」


 俺は、グレースムの緑がかった碧い瞳と、自信に漲った態度を思い出していた。


 グレースムはきっと、金だけに満足するような女じゃない。瞳の奥に秘めているのは、もっと大それた野望だ。そんな気がする。


「ポピディウスに何かあったらどうする?」

「なんとかするでしょう。いい年した大人なんだし」


 コレティアの返事は冷たい。


「それに、あなたが説得しても聞かなかったのでしょう。他の誰か言っても、同じよ。それなら、自分で調べて、グレースムの本当の姿を掴んだ方が、納得して諦めるでしょう」


「それは、そうだろうが」

 何だかコレティアに煙に巻かれた気がする。


「さあ、これでローマに心残りはないでしょう。さっさと荷造りを始めて」


 コレティアは俺を急かすように、ぱんぱんっと手を叩くと、ポピディウスへ微笑んだ。


「ポピディウス。グレースムの本当の姿がわかったら、手紙で教えてちょうだいね」


「もちろんだよ、コレティア! でも、手紙って……。どこかへ出かけるのかい?」

 小首を傾げたポピディウスに、コレティアはあっさり答えた。


「ええ、アレクサンドリア経由で、アンティオキアへね」


「俺は聞いてないぞ!」


 抗議の声を上げると、コレティアは出来の悪い生徒を嘆く教師のように頭を横に振った。


「今、言ったじゃない」

「ふざけるな。第一、フラウィアが承知しないだろう」


 せっかく、アンティオキアから帰ってきたばかりの娘を、フラウィアが手放すはずがない。

 縁談だって進めているのだ。


 俺が出した切り札を、コレティアは鼻で笑って一蹴した。


「ちゃんとお母様の許可は取ったわ。だから、お母様の気が変わらない内に、旅立つのよ」


 嘘だと叫びたかった。

 でも、本当なのだろう。コレティアは、すぐにばれるような嘘はつかない。


 一体、どんな手を使ったのかは知らないが、俺に可能な抵抗は一つだけだった。


「フラウィアに確認する。詳しい話は、それからだ」


「構わないけれど、先に荷造りをしてちょうだい。荷物は奴隷に運ばせておくから。今日中にローマを発つ予定なの」


 俺は、コレティアが大人しく奴隷を従えていた理由を、やっと悟った。最初から、荷物運びをさせる腹づもりだったのだ。


「せっかくローマへ帰ってきて知り合ったのに、もう出かけちゃうなんて。寂しいよ」


 俺が手早く荷物をまとめるのを戸口近くに立って見るともなしに眺めながら、ポピディウスが隣のコレティアに言う。


「また帰ってくるわよ。気が向いたら」


 フラウィアに縁談を進める気持ちがなくなったら――が本当のところだろう。俺は心の中で苦々しく呟いたが、声には出さなかった。


「でも、あなたからの手紙が届いたら、帰る気になるかもしれないわ、ポピディウス。私も、グレースムの本当の姿は気になるもの」


 もしかして、コレティアは、ローマを離れる自分の代わりにポピディウスに調べさせる策略なのだろうか。

 ふと、そんな疑問が心に浮かぶ。だが、調べるのがポピディウスでは、正直なところ、力不足と言わざるを得ない。


 俺は、別の疑問を口にした。


「ゴルテスの事件の捜査はいいのか?」


「皇帝港や警察隊の詰所で、何か新しいことは、わかったの?」


 俺の問いに、コレティアは質問で答えた。俺は苛立たしい気持ちを隠さず、かぶりを振る。


「いいや。残念ながら、何も」


 俺とコレティアがウルビアの店で見つけた二枚の書字板は、写しを取った後、警察隊に提出してある。

 その後、捜査に行き詰まっている状況は、警察隊も俺達も同じだった。

 警察隊ではゴルテスの船の水主達を尋問しているが、有益な情報は何も出てきていない。


 グレースムの存在は警察隊には伝えていなかった。いくらグレースムがインチキ占い師とはいえ、ゴルテス殺害に関わっている確固たる証拠はない。


 証拠もなしに警察隊に通報するほど、俺達は人でなしじゃないし、警察隊に全幅の信頼をおいているわけでもない。

 証拠集めの為に、警察隊が拷問という手段をとる可能性がある事実は、俺だって知っている。無関係かもしれない人間が拷問されても平気でいられる神経は、持ち合わせていない。


「役に立たないわね、警察隊も」

 コレティアは鼻を鳴らして、警察隊への軽蔑を露わにした。


「ゴルテス殺しの犯人を、見逃す気はないわ。その為にアレクサンドリアを経由するのよ」


 ゴルテスはアレクサンドリアの人間だ。ローマで殺されたからといって、原因がローマにあるとは限らない。アレクサンドリアで調べれば、新しい手掛かりが出てくる可能性はある。


 求婚者のいるローマから逃げ出すついでとはいえ、コレティアの執念は、かなりのものだ。コレティアに密輸の真相を追究される前に冥界へ旅立ったゴルテスは、ある意味、幸運だったのかもしれない。


 俺は、不意にレンドロスの言葉を思い出した。

「ゴルテスには関わらない方が身の為ですぜ」


 まったく、その通りだ。ゴルテスの死体を見つたせいで、俺はローマへ連れ帰ったコレティアを、またぞろアンティオキアまで護衛しなければならない。

 本当なら、報酬を手に、とっくの昔に自由を満喫しているはずなのに。


「いいか、ポピディウス。グレースムを甘く見るなよ。あれは、簡単にどうこうできる女じゃない」


「うん、わかってるよ、ルパス! グレースムの無実は、僕が証明してみせる。そうしたらきっと、グレースムだって僕のことを認めてくれるよね」


 残していくポピディウスが心配で忠告すると、とんちんかんな言葉が返ってきた。開いた口がふさがらない。


「それの、どこがわかっているんだ。グレースムの色香に惑わされて、油断するなって忠告してるんだ」


 眉を寄せて厳しい顔を作ると、ポピディウスは自信がなさそうにうつむいた。


「そんなの、無理だよ、ルパス。グレースムに微笑まれるだけで、僕の心は、春の陽を浴びた雪みたいにけてしまうんだ」


 やはり、ポピディウスがグレースムの正体を調べるなんて、不可能だ。

 子犬に「ライオンを倒して来い」と命じるようなものだ。無謀すぎる。


 やめさせようと口を開きかけた瞬間、コレティアの鋭い声が飛んだ。


「ルパス! さっきから手が止まっているわよ。早く準備して」


「僕のことなら、大丈夫だよ。きっと、うまくやってみせる」


 どこからそんな自信が湧くのか知らないが、ポピディウスが目を輝かせ、拳を握り締めて宣言する。

 本人がここまでやる気満々なら、もう、俺がなんと言ったって無駄だろう。


 俺は説得を諦めて、荷造りに専念した。


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