11 琥珀の名前を持つ女
ポピディウスの家でパンと葡萄酒とチーズ、デザートの葡萄という軽い昼食を三人でとった俺とコレティアは、十一区へ戻った。
七つの丘で起伏が激しいローマの街の中では、割合、広い平地だ。
昼間は繁華だが、人通りはそれほど多くはない。別の場所に行くには、わざわざ大競技場をぐるっと回らなければならないからだ。だから、用のある人間しか通らない。
あと二日で、九月になる。九月の
祭日の三日後には、ユピテルを記念した競技会、
そうなれば、大競技場の周りは、ユピテルが降臨して雷を降らせたように騒がしくなるだろう。なんせ、二十万人の喚声だ。
ローマ競技会は十五日間も開催され、戦車競走の他に、剣闘士の死闘や演劇も行われる。上は皇帝から、下は一般庶民までが観覧する。
だが、競技会が開催されていない現在は、ゆったりとした雰囲気が漂っていた。
うだるような暑さに、露店の店主達も全然やる気がなさそうだ。椅子を引っ張り出し、木陰で涼んでいる者もいる。
商業の神メルクリウスの神殿は、大競技場の南側にある。
太い通りから外れ、裏へ回ると、途端に見すぼらしい建物が増えた。空気まで、少し濁ったように感じる。
犬の糞や、腐った野菜くず、砕けた壺の欠片等が落ちているので、歩くのも油断ならない。
この辺りが高級住宅地にならない理由は、大競技場のすぐ側だからだ。
競技会は年に何度も開かれる。
その度に、大競技場から出てくる何万人もの民衆が、大声で騒いだり、ゴミを散らかしたり、挙句の果てに酔っ払って吐いたりするのだ。
身分の高い人間や、金持ちは、そんな場所には、まず住みたがらない。
ポピディウスに教えてもらったグレースムの
地味な建物で、一階は人目につかない。鉢植え等もなく、掃き清められた戸口に、黒く塗られた木の扉があるだけだ。
扉の中央には、目より少し下の高さに陶器製の楕円形の板が掛かっており、虫入り琥珀の絵が描かれていた。グレースムの店で間違いない。
扉を叩くと、小ざっぱりした身なりの黒人の少年奴隷が、扉の隙間から顔を覗かせた。
「予約をしていないんだが、大丈夫か?」
「ちょっと、待って下さい。聞いてきます」
少年奴隷は、たどたどしいラテン語で言うと、扉を閉めた。グレースムにお伺いを立てるのだろう。
少し待つと、少年奴隷が再び扉を開けた。
「どうぞ」と、俺とコレティアを招き入れる。
青銅製のイルカの飾りがついた長椅子が置かれた待合室を抜け、奥の部屋へ通される。
そこは、俺の予想以上に立派な部屋だった。
床は白と黒のモザイクで、壁は上半分が濃い緑に塗られ、下半分が羽目板張りになっている。羽目板には、枝付き燭台が彫られていた。
部屋の中央には、白い大理石のテーブルが置かれ、片方には背もたれの高い女性用の椅子が、向かい側には、大きな椅子が置かれていた。
おそらく、背もたれの高い椅子がグレースム用で、大きな椅子が客用なのだろう。
左手の壁際には飾り棚があり、赤地に黒でトロイ戦争の一場面が描かれたギリシアの壺や、
金で縁取りが施され、青銅の台に立て掛けられた大きな角杯は、もしかしたらゲルマニアに住む巨大な野生牛オーロックスの角かもしれない。
グレースムが集めたのか、客から贈られたものかは知らないが、どれも高価で趣味がいい。
だが、この部屋の中で何よりも目を引き、美しいのは正面にたたずむ女主人だった。
年齢は三十歳前後だろうか。しかし、
とはいえ、体つきに骨ばったところはなく、女性らしいまろやかさに満ちていた。
濃い青のストラを着、たっぷりと取った
袖の襞の間から覗く白い肌が、はっとするほど艶めかしい。
超然とした微笑みを浮かべていたグレースムは、入ってきた俺達を見た途端、息を飲んだ。
緑がかった碧い目が、信じられないものを見たように瞬き、長い睫毛の震えが
一つ、深く息を吸い込むと、再び神秘的な笑みがグレースムの顔に浮かぶ。
「何か、驚かせてしまったかしら?」
俺と同じく、グレースムの驚愕を
「いらしたのが、あまりに綺麗なお嬢さんだったから。あなたには、運命の不思議な力を感じるわ」
艶然と唇をほころばせるグレースムの笑みは、氷でできた男でも溶かしてしまいそうだ。
ポピディウスがグレースムを女神のように崇めているのも、理解できる。
「二人連れのお客様は珍しいの。占ってほしいのはどちら? それとも、お互いの相性かしら?」
少し低めのグレースムの声は、淀みなく、耳に心地よい。ラテン語の発音も完璧だ。
「見たところ、
部屋の中を見回したコレティアが、玩具を探す子供のようにグレースムに問いかける。
ローマ軍団では、出陣の前に、
鳥占官は立派な公職だが、占う前の晩に鳥の餌を抜くくらいの知恵は、働かせる。それだけで兵士達の士気が上がるのなら、安いものだ。
からかい混じりのコレティアの眼差しを、グレースムは真っ直ぐに見つめ返した。
二人とも、ゲルマン人らしく碧い目だが、コレティアの目が良く晴れた空の色なら、やや緑がかったグレースムの青い目は、誰も知らぬ深い森の中の湖みたいな碧さだ。
「私には、余計な道具は要らないの」
グレースムは神秘的な微笑を浮かべ、ゆっくりと告げる。
「私は、顔を見れば、その人の運命がわかるのよ」
他の誰かがこんな台詞を言えば、一笑に付すところだ。
しかし、美貌のグレースムに艶然と微笑まれて告げられると、信じそうになってしまう。
「私の顔を見て驚いたのも、そのせいなの? ずいぶん、驚いていたようだけれど?」
悪戯っぽい口調のまま、コレティアが問う。
「ええ。あなたのように珍しい運命を背負った人は、そういないわ」
先程の驚きなど、
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます