8 ウルビアの店にて


 コレティアが店内へ入った途端、男達の話し声が、ふっつりと止んだ。テーブルやカウンターの男達が、呆気にとられた顔でコレティアを見つめる。

 と、鋭い声が飛んだ。


「うちは、あんたみたいなお嬢様が来る店じゃないよ」


 声の主はカウンターの中にいる女だった。おそらくこの店の女主人、ウルビアだろう。


 年は四十を過ぎていそうだった。顔には苦労によるしわが刻まれて、実際の年齢をあやふやにしている。艶のない髪を乱雑に束ねていた。でっぷりと太っていて貫禄があり、細身の男なら、力づくで叩き出せそうだ。


 口を曲げてコレティアを見据えたウルビアは、それでも手は止めない。よく切れそうな包丁で、ざくざくとにらを切り刻んでいる。独特の匂いが漂ってきた。


 気の弱い男ならすごすごと逃げ出しそうなウルビアのにらみに、コレティアはにこやかな笑顔を返した。


「必要なことを聞いたら、さっさと帰るわ」


 ウルビアの前のカウンターの椅子に腰かける。俺はコレティアの後ろに立ち、番犬のように威圧的に辺りを見回した。


 直角に曲がったカウンターの中には厨房ちゅうぼうがあり、ウルビアと、下働きの奴隷の少年がいる。

 カウンターには辺ごとに三つの大きな穴が穿うがたれ、そこへ料理の入った大鍋を入れることができる。合計六つある穴の内、今は半分に大鍋がはめられていた。


 そっと覗いてみたが、どれも茶色っぽくて、どろどろした汁で満たされていた。あまり食欲を刺激する様子ではない。


 カウンターの後ろには大きな棚があり、大蒜にんにくの束やら魚醤ガルムや葡萄酒が入った壺やら、ひび割れた器等が乱雑に詰め込まれている。


 店内には、テーブルが三つ。うち一つで、男達が葡萄酒らしきものをすすっていた。

 昼前からこんなに客がいる状況からすると、結構、繁盛しているのだろう。客の人数は合計で五人。まあ、なんとかなる数だ。


 すぐ動けるように肩幅に開いた足の下で、音が鳴った。客が食べ散らかした貝殻でも踏み割ったらしい。床は、こぼした汁や、腐った野菜屑や、吐いた葡萄酒などで、やたらぬるぬるしている。

 もし乱闘になっても、この床に叩きつけられるのは遠慮したいところだ。


「お嬢様が、こんな店に何の用なんだい?」


 ウルビアが胡散臭うさんくさそうに尋ねた。身なりのいいお嬢様がこの店に用があるとは、とても信じられない様子だ。


「大体、うちの店を誰から聞いたんだい?」

 ウルビアの質問に、コレティアはあっさり答えた。


「ゴルテスからよ」

「おやまあ」


 ウルビアは、大切にしていた一張羅いっちょうらのテュニカに、虫食い穴を見つけたような顔をした。


「お嬢ちゃん、もう手遅れかもしれないけど、あの男には係わらない方が身の為だよ。あんたみたいな綺麗な子、手込めにされて売り飛ばされちゃうよ」


 コレティアに言い聞かせる口調を聞くに、ウルビアはそう悪い人物でもなさそうだ。

 もしかしたら、密輸犯の仲間ではないかと疑っていたのだが。

 ウルビアの懸念を、コレティアは笑って粉砕した。


「大丈夫よ。ゴルテスは今頃、冥府の神ハデスに挨拶しているから」


「あいつを食ったら、さしものケルベロスも腹を下しそうだけどね」


 切り刻んだ韮を大鍋に放り込みながら、ウルビアは疑わしそうにコレティアを見つめた。


「その話、本当かい?」


「本当だ。俺達は、その犯人を探している」

 コレティアに代わって、俺が頷く。ウルビアは俺達を交互に見ながら、更に問う。


「なんでまた、あんた達が?」

「あいにく、死体を見つけたんでな」


「死んでからも厄介な奴だね、あいつは」


 俺が顔をしかめたのがおかしかったのか、ウルビアは口を開けて笑った。溝鼠どぶねずみばりに丈夫そうな歯が見える。


「ゴルテスは三日前、ここへ来たか?」

 俺は、ウルビアの警戒がやや解けたらしいと感じて、質問を口にした。


「ああ、来たよ」

 韮を放りこんだ大鍋を掻き混ぜながら、ウルビアがそっけなく頷く。


「何時頃だ?」

「確か、夕方だったかねえ。店が混み出す前だったよ。すぐに帰ったけどね」


 面倒に巻き込まれてはごめんだと言いたげに、ウルビアは後半を大声で言い添えた。


「ゴルテスは、よくこの店に来ていたの? ここには泊まれるのかしら?」


 俺が連れの有無を確認する前に、コレティアが口を挟んだ。

 視線はウルビアが掻き回す大鍋に注がれている。何が入っているか、見極めるつもりらしい。ぐずぐずと煮崩れているのは豆だろう。


 クラディウス帝が肉料理を禁止したり、ネロは野菜料理のみを許可したり、ウェスパシアヌス帝が豆料理のみを許可したりと、歴代の皇帝は居酒屋のメニューにあれこれ制限を加えてきた。


 もちろん、居酒屋は役人の手入れでもない限り、ろくに法律を守らない。


 今ウルビアが掻き混ぜている大鍋にも、豆の他に肉らしきものが入っている。何の肉かまでは不明だが。まさか溝鼠ではあるまい。


「ああ、年に二回、ローマに来た時には、うちの二階に泊まってたよ。うちは、客が望めば、二階の一室を貸すからね」


 ウルビアは店の奥に顎をしゃくった。二階へ昇る粗末な階段がついている。


「うちは、娼婦の連れ込みはお断りさ。一室だけだから、他の客とめる心配もないし」


 ウルビアは大鍋を掻き混ぜていた柄杓ひしゃくを上げると、煮込み料理の匂いをくんくんと嗅いだ。が、口をつけようとはしない。


 ゴルテスがこの店を利用していた理由は、地の利の他に安全な点が気に入ったのだろう。


「ゴルテスが知り合いを連れて来たことは、なかったのか?」

 ウルビアは上目遣いに俺を見た。


「せっかく居酒屋へ来たんだ。お嬢ちゃんはともかく、あんたは何か飲まないかい?」


 ただで喋り過ぎたと思っているらしい。心得て、俺は財布から銅貨を出した。


「じゃあ、葡萄酒を貰おうか」


 セステルティウス銅貨を石造りのカウンターへ置く。

 すかさずウルビアの韮臭い手が銅貨を回収し、奴隷の少年が、縁の欠けた器に葡萄酒を入れてよこした。


「いつも一人だったよ。連れがいたことは一切ないね」


「そうか。他に何か気づいたことはないか? どこへ行ったか話していた、とか」


 俺は葡萄酒に口をつけるつもりはない。器をカウンターに置いたまま、質問を続ける。


「さあてねえ」


 ウルビアは思わせぶりに視線を彷徨さまよわせた。

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