7 俺は諦めて、隣に立った。


 翌朝は、ポピディウスの家を出ると、まず中央広場フォルム・ロマヌムのガイウスとルキウスの列柱回廊ポルティクスに店を構えている銀行商の元へ、金を預けに向かった。


 俺が仕入れてきた胡椒こしょうを、ポピディウスが買い取った代金だ。胡椒や丁子クローブ等、インド産の香辛料は、同じ重さの金ほどの価値がある。大金を懐に、コレティアの護衛とゴルテスの調査など、危なくて断固できない。


 銀行商の貸金庫に金を預け、警察隊の詰所へ寄る。昨日、皇帝港でアプロディーテ号の水主達を捕えた件を隊員に報告し、捜査の進展を聞いた後、コレティアの屋敷へ向かった。


 いかつい顔の門番が、なぜか、にまにま笑って俺を通してくれる。不審に思いながらアトリウムへ入ると、コレティアが、不機嫌な顔で腕を組み、足を肩幅に開いて立っていた。


「遅いわ!」


 俺の顔を見るなり、叱りつける。

 コレティアの後ろにいた若い奴隷が、自分が叱られたように身を縮ませた。昨日、コレティアに指示を受けていた奴隷だ。


「警察隊の詰所に寄る前に、中央広場へ行ってたんだ」

 悪びれずに言うと、コレティアが瞳を煌めかせた。


「何か、わかったの?」

「いいや、銀行商に私用があっただけだ」


 俺の返事に、コレティアの顔が、また不機嫌な表情へ戻る。


「貸付でも申し込みに行ったの?」

「俺は、借金はしない主義なんだ。金を預けてきた」


 正直に言うと、コレティアの口元が、悪戯いたずらっぽくほころんだ。


「あら、意外と堅実なのね」

「護衛対象が向こう見ずだからな。怪我して稼げなくなった時の為さ」


 嫌みを言ったが、コレティアは応えない。


「せいぜい稼がせてあげるわ。行くわよ」


 高慢に言うと、玄関へと歩き出す。若い奴隷が、いそいそと後に続いた。いつもは、お供など、決してつけないのだが。


「どこへ行くつもりだ?」

 尋ねると、コレティアは振り返りもせず、あっさり答える。


「ウルビアの店よ」

「見つけたのか?」


 予想外の答に目をく。だが、それで、つき従う奴隷に得心がいった。


「奴隷に探させたんだな」


 奴隷を追い越してコレティアに並ぶ。後ろを歩いていては、咄嗟とっさの危険に対処しにくい。


「そうよ。こんなに早く見つかるとは、予想していなかったけれど。勘が当たったわ」


 ようやく振り返ったコレティアが、俺に笑顔を向ける。


「ゴルテスを見つけたのが、エミリウス橋でしょう。ということは、少なくともゴルテスが沈められたのは、エミリウス橋より上流よね。殺害現場から遠くまで運べば、それだけ他人の目に触れる可能性があるから、殺害現場も、きっと上流だと思ったの。ウルビアの店を出た後、ゴルテスが殺されたという確証はないけれど、もしそうだとしたら」


「ウルビアの店は、エミリウス橋より上流ってことか」


 俺はコレティアが言わんとしたことを引き継いだ。コレティアが頷く。


「そう。それで、アグリッパ橋とアウレリア橋を中心に、奴隷達を何人かやって探させたのよ」


 アグリッパ橋とアウレリア橋はともに、十四区の北と九区の南を結んでいる橋である。アグリッパ橋の方が、上流にある。


 ローマは七つの丘を中心として建てられた街だが、ローマから北へ伸びるフラミニア街道と、西へ大きく蛇行するティベリス川に挟まれた九区には、マルティウス原と呼ばれる平地が広がっている。


 マルティウス原は約六百年前の王政時代に建てられたセルウィウス城壁の中には含まれておらず、馬や羊の放牧地や、ローマ軍団の訓練地として使われていた。マルティウス原という、軍神マルスにちなんだ名も、軍団訓練地として、軍神マルスへの祭壇が設けられたところから由来する。


 だが、ローマが発展するにつれて、土地が足りなくなり、次第にマルティウス原にも、フラミニウス競技場等の公共の建物や、市民の住宅が建設されるようになってきた。


 コレティアは、あらかじめ奴隷からおよその場所を聞いているらしい。奴隷を従えて、ティベリス川沿いに上流方向へ歩いていく。


「怒って待っていたから、お腹が空いたわ」

 コレティアが、道の両側に並ぶ露店に視線をやりながら言う。


「何か腹に入れたらどうだ? あそこのスモモなんか、よく熟れてて、旨そうだぞ」


 俺は、近くの露店を目で示した。店番は干からびたような爺さんだが、売り物の果物は、どれも磨いたようにつやつやしている。


 普段なら、立ち食いなど勧めないが、これからウルビアの店へ行くことを考えると、コレティアには満腹になっていてもらいたい。


 ゴルテスが腹痛を起こしたくらいだから、きっと、カウンターとテーブルが一つずつしかないような、小さくて、不衛生で、何が原料か皆目わからないゲテモノ料理が出てくる店に違いない。

 普段、いい食事を食べ慣れているコレティアがそんな店で昼食を取ったら、確実に腹を下すだろう。護衛として、そんな暴挙は見逃せない。


「確かに、おいしそうね」

「待たせたびだ。俺が買ってやるよ」


 コレティアの返事を待たずに露店に近づくと、スモモを六つ買い、コレティアと後ろの奴隷に二つずつ渡す。


「ルパスが買ってくれるなんて、珍しいわね。何を企んでるの?」


 からかうように笑いながらも、コレティアは嬉しそうにスモモにかじりついた。耳元で揺れる真珠のように白い歯が、ちらりと見える。


 今日のコレティアは、濃い青の綿のストラだった。腕にはいつもの碧玉の腕輪がはめられている。髪は侍女によって美しく結い上げられていた。

 どこからどう見ても、上流階級の令嬢だ。


 たとえ見すぼらしい格好をしていても、コレティアの美貌は嫌でも目立ってしまうのだが。

 ウルビアの店の客層によっては、ブーツに隠した短剣の出番があるかもしれない。俺は気を引き締め直した。



 中央広場の喧騒けんそうを右手に聞きながら北上し、左手にファブリキウス橋を見ながら、更に上流へ進む。

 アウレリア橋の近くまで来たところで、コレティアが奴隷を振り返った。


「こちらです」

 心得た奴隷が、前に立って歩く。ほどなく、奴隷が一軒の居酒屋を示した。


「あの店が、ウルビアの店です」


 俺は注意深く店の様子をうかがった。ウルビアの店は川沿いの道に面していた。おあつらえ向きに、店の前に川へと下りる階段がある。小舟でローマへ来るゴルテスには、便利な場所だ。


 道にはみ出しそうな場所にカウンターがあり、背もたれもない雑な造りの椅子が何脚か置かれている。転がっている椅子もあった。


 カウンターは直角に曲がっていて、先は薄暗い店の中なので見えない。カウンターの前にはテーブルもあった。

 昼にはまだ早いが、何人かの客が暇そうに椅子に座って喋っている。


「ここでいいわ。よく見つけてくれたわね」


 コレティアが奴隷に褒美を渡す。

 奴隷は銀貨に嬉しそうに目を輝かせたが、このまま、胡乱うろんな店の前にお嬢様を置いて帰っていいのか、迷ったらしい。困った顔で俺を見上げた。


「あなたは、先に帰りなさい」


 コレティアが、きっぱりと指示する。俺も鷹揚おうように頷いた。

 何かあった時の為に、連れていくことも考えたが、この若い奴隷は細身で、荒事には役立ちそうにない。 足手纏あしでまといを増やすくらいなら、いない方が数段マシだ。


 奴隷は深く頭を下げると、俺達に背を向けた。お嬢様を放って帰っていいものかと悩んだようだが、ぐずぐずしていても、コレティアに叱られるだけだと判断したらしい。

 一度、俺を見た後は、振り返らずに去っていった。


 帰った奴隷には目もくれず、コレティアはウルビアの店へ入って行こうとする。


「俺に任せて、外で大人しく待っていろ」と言いたいが、無駄だろう。

 俺は諦めて、弾むような足取りで歩くコレティアの隣に立った。


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