5 今宵もあなたと夕食を


 水主達を役人に引き渡し、貸し船屋のアロリウスを訪ねたが、目新しい話は、何も聞けなかった。水主達の話を裏付けただけだ。


 俺とコレティアがローマへ戻ったのは、午後も回った頃だった。第八時くらいだろう。


 ローマでは、日の出から日没までを十二等分する。第一時が日の出で、第十二時が日没だ。夜は十二等分ではなく、八等分される。

 だが、庶民の生活に時計など必要ない。太陽が昇れば起き出すし、日が沈めば眠る。そうすれば、ランプの油代だって掛からない。


 貸し馬屋へ馬を返し、コレティアを屋敷へ送っていくと、門の手前で買い物帰りの若い女奴隷に会った。小ぶりの猪を抱えている。今夜の晩餐用だろう。


 先日のガチョウの味が蘇る。思わず唾が湧いた。高価な香辛料をたっぷり利かせた肉料理など、庶民にはなかなか味わえない。


「猪を台所へ運んだら、ルパスと私の分のお茶を持ってきてちょうだい」


 奴隷に命じて、コレティアがさっさと玄関へ入って行く。

 いかつい門番が、お嬢様の為にさっと門を開き、コレティアに続いて入る俺を忌々しそうに睨みつけた。


 振り返らずに先を行くコレティアは、俺が従いていくと微塵みじんも疑ってもいない。コレティアが屋敷へ戻ったのなら、今日の仕事は終わりだが、ただで飲ませてくれる茶を断る必要はない。有難く頂戴することにしよう。


 分厚い壁によって騒々しい街路と隔絶されているおかげで、邸内は静かで涼しい。


 アトリウムの中央の噴水からは、澄んだ水が、ひっきりなしに流れ出ている。午後の陽光を煌めかせて流れ落ちる水は、いかにも涼しげだ。可能なら、貯水槽へ飛び込んで汗と潮の香りでべたつく体を洗い流したい。


 コレティアはアトリウムを抜け、更に奥の列柱回廊に囲まれた中庭へと進んでいった。


 途中、下働きの若い奴隷を見つけると、呼び寄せて何事か小声で指示を出す。

 内容は俺には聞こえなかったが、奴隷は、ちらりと俺を見た後、急ぎ足で通り過ぎて行った。


 アトリウムを囲む幾つもの部屋の中で、ペリスティリウムに近いところには台所が配されている。

 横を通ると、食欲を刺激する香辛料の香りが漂ってきた。早くも晩餐の準備に取りかかっているらしい。


 ペリスティリウムは、一目見ただけでも居心地がよさそうだとわかった。


 陽光が降り注ぐ中庭を、ぐるりと列柱回廊が囲んでいる。

 列柱は、上部に渦巻き模様が入った灰色の大理石で、整然と立ち並んで調和の美を醸し出していた。回廊の一角には、石の腰掛けが置かれており、そこに座って中庭の見事さを愛でることができる。


 中央には噴水があり、泉の女神エゲリアの見事な彫刻が手にした壺から流れ出る水が、涼を運んでくる。噴水の周りにはエゲリアを称えるように百合が咲き乱れ、品の良い香りを辺りに漂わせていた。


 中庭の隅には、白地に紫の見事な縞が入った大理石で飾られた四阿あずまやがあり、その周りには月桂樹とアンカサスが植えられ、落ち着いた雰囲気を醸し出していた。

 植物の緑と大理石の白の対比が美しい。庭のあちこちに白、ピンク、青、紫など色とりどりのバーベナが植えられていて色鮮やかだ。

 中庭を通るそよ風が、バーベナの香りを運んでくる。


 コレティアは四阿へと歩いていく。

 背筋を伸ばし、軽やかな足取りで優雅に歩く様は、中庭の女主人といった風情だが、強い意志の光を放つ碧い瞳は、コレティアをこの狭い空間にいつまでも留めておくことは不可能だと、雄弁に物語っている。


 噴水の側の百合は、コレティアの美しさに恐れ入ったかのように、白く可憐な首を項垂れさせていた。


 四阿の長椅子には、いつ主人が来てもよいように、色鮮やかなクッションが置かれていた。俺はコレティアの向かいの椅子に座る。


「ゴルテスが見つけた新しいもうけ話というのは、何だったのかしら?」


 座るなり、コレティアが開口一番に言う。表情は宝探しをする子供みたいに楽しげだ。


「さあな。その儲け話とやらが、ゴルテスが殺された原因だと思うが。だが、ゴルテスの性格を考えるに、誰にも話していないだろう。奴の死と共に、闇の中って訳だ」


 俺は、両手を挙げた。

 皇帝港で調査をしてからは、ゴルテスが殺された原因は、密輸犯の仲間割れではなく、ゴルテスが見つけた儲け話の口封じの為だろうという考えに傾いている。


 だが、それを探る為の手掛かりがない。


「少なくとも一人は、儲け話の内容を知っているわよ」


 横目で俺を見つめ、コレティアが謎かけでもするように告げた。俺は密かに目をむく。


「誰だ、それは?」

 コレティアは、にこやかに笑って告げる。


「ゴルテスを殺した犯人よ」


「で、どうやってそいつを探すんだ?」

 俺は苛立つ気持ちを抑えて言った。素直に聞き返した自分が腹立たしい。


「さあ? 今は思い浮かばないわ」

 コレティアは碧い瞳をおどけるようにくるりと回す。


 ちょうどその時、奴隷がガラスの器に入ったルリチシャのお茶とアーモンドを運んできた。

 苛立ちを押さえつけるべく、アーモンドを一掴み、口の中へ放りこむ。怒りをぶつけるように噛み砕いていると、少し気持ちが落ち着いてきた。お茶で、口の中を洗い流す。


「残る手掛かりは、ウルビアの店だけか」


 ゴルテスが以前に立ち寄ったという店だ。おそらく居酒屋だろうが、ローマに居酒屋は山程ある。コレティアと二人だけの調べで見つけられるとは思えなかった。


 後は、警察隊と税関の役人の取り調べで、新しい情報が出ることに期待するしかない。


「ウルビアの店は、おそらくティベリス川沿いでしょうね。ゴルテスは貸し船でローマへ来ていたのだから、ティベリス川からそんなに離れなかったでしょう」


 コレティアは澄ました顔でガラス器を傾けている。


「だろうな。でも、ティベリス川沿いといっても、広いぞ。九区、十一区、十三区、十四区と、行政区だけでも四つに渡る」


 俺はアーモンドを一粒手に取ると、指で弾いて上へ飛ばした。落ちてくるところを口で受けて食べる。


「ウルビアという女性は、美人なのかしら?」


 コレティアは何かを期待するような顔で言うと、俺の真似をしてアーモンドを弾いた。

 落ちてきたアーモンドを器用に口の中へ入れる。フラウィアが見たら、はしたない食べ方をして、と嘆くだろう。


「恋物語みたいなやりとりを期待しても、無駄だぞ」

 俺は眉を寄せて、コレティアに忠告した。


「酒場の女なんて、男から金をむしり取る方法しか考えてないんだからな」


「あら、むしり取られたことがあるの?」

 コレティアが、からかいまじりに尋ねる。


生憎あいにく、俺は貧乏なんでね。女の方が寄ってこない」


 俺は顔をしかめて答えた。コレティアがおかしそうに声を立てて笑う。

 耳飾りの真珠までが、楽しそうに揺れてぶつかり、かちかちと微かな音を立てる。


「ところで、今夜もうちで夕食をいかが?」


 笑顔のまま、コレティアが俺を見上げた。

 碧い瞳が魅力的に輝く。微かに風が吹いて、百合やバーベナの香りと、コレティアがつけている薔薇の香水の香りを運んできた。


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