3 アプロディーテは一人をお望み
ガラテア号を降りたコレティアは、迷うことなく歩き出した。
「待て。どこへ行く気だ?」
想像はつく。それでも俺は、あえて問いかけた。コレティアは、自明の理を説くように、平然と答える。
「アプロディーテ号を探すの」
やはり。
おそらくアプロディーテ号も皇帝港に停泊している。
水主達はゴルテスが殺された事実や、密輸の捜査が始まった状況を、まだ知らないはずだ。船長の帰りを待たずに出航するわけがない。
もし、逃げ出しているのだとしたら、ゴルテス殺害の犯人は、アプロディーテ号の水主連中で決まりだ。
俺としては、それを願いたいところだ。
犯人が水主連中なら、後は警察隊に任せれば済む。まさかコレティアも、どこに逃げたかわからない奴らを追って、海へ出たりしないだろう。
二日前、俺達がゴルテスの声を聞いたのは、ガラテア号が停泊する船渠と堀割の間だった。
もし、ゴルテスが自分の船の近くにいたとしたら、アプロディーテ号は、この付近に繋がれているはずだ。
「アプロディーテ号を探して、どうするつもりだ?」
コレティアは、思いがけないことを尋ねられたかのように目を瞬いた。
「乗り込むのよ」
露店に果物でも買いに行くような気軽さで答える。
「密輸犯がたむろしている船なんだぞ。馬鹿を言うな」
俺は眉を吊り上げて叱りつけた。
が、コレティアは動じない。
「あなたも、一人で来ていたら、乗り込んでいたでしょう?」
その通りだ。だが、それをコレティアに教えてやる必要はない。
「俺には、あんたを守る義務がある。危険な場所には連れて行けない」
「守ってもらおうなんて思ってないわ」
コレティアは不機嫌に告げて、形のいい鼻を、つんと上げた。
「そっちは、それでいいかもしれない。だが、俺は、そうはいかないんだ。フラウィアとの契約があるからな」
苦々しく言うと、コレティアは挑むように唇を吊り上げた。笑みの形を刻む。
「じゃあ、勝手にしたら? 私も好きにするもの」
「じゃじゃ馬め」
口の中で呟いて、俺はコレティアを追いかけた。
港は今日も賑やかだった。
荷担ぎ連中がアンフォラを転がしたり、木箱を積み込む音や、水主の掛け声、荷車ががたごとと引かれていく車輪の
誰かが落として踏み潰した無花果が、道の真ん中で乾いていた。荷担ぎ達の汗の匂いと潮の匂いが混じって鼻に届く。
忘れ物らしい天秤棒を見つけた俺は、無断で拝借した。市内を出たので、グラディウスは腰に
が、相手が刃物を出さない内は、俺も剣を抜く気はない。
帆船もあれば、自家用の一段ガレー船もある。帆船は、ガラテア号と同じトリスキリオフォロス級が多い。この大きさが最も普及しているからだ。
エジプトから小麦を運んでくるような大型帆船は、ミュリオフォロス級と呼ばれ、アンフォラを一万個も積むことができる。
「この船かしらね」
コレティアが足を止めたのは、二日前、ゴルテスの声を聞いた場所だった。
コレティアが示した船は、ミュリオフォロス級の大型帆船に両側を挟まれて、目立たない場所に停泊していた。
大きさは、トリスキリオフォロス級だ。
こちらに向いている船首に、アプロディーテの像が彫られていた。二流の彫刻家の手によるのか、出来はあまり良くない。
喫水線は高い。積み荷を全部下ろして、船倉が空なのだろう。
甲板を見上げたが、
しかし、声は聞こえた。大声で笑ったり悪態をついたりしている。品のない言葉も聞こえた。
船長のゴルテスがいないので、気が緩んでいるのだろう。昼間から酒を飲んでいるらしい。俺には好都合だ。
渡し板は、架かったままになっていた。コレティアは
薄汚れたテュニカを着た水主連中は、甲板に座り込んでサイコロ遊びをしていた。
人数は四人。日に焼けた体はがっしりしていて、腕っぷしが強そうだ。
突然、甲板に現れた美貌の少女に、水主連中は目を瞬いた。
「なんだ、おめえらは」
立ち上がる四人を見回しながら、コレティアがにこやかに尋ねる。
「この船は、アプロディーテ号かしら?」
「あんたが乗ってるんなら、そうなんだろ」
年かさの水主が潮風に荒れた声で笑い、残りの三人が追従した。
「綺麗な姉ちゃん、何の用だい」
「寂しくて、オレ達に慰めてほしいのか」
「そりゃあいい! たっぷり可愛がってやるぜぇ」
げらげらと男達が下卑た笑い声を上げる。コレティアは詰まらなそうに鼻を鳴らすと、再び口を開いた。
「ゴルテスの居場所を知っている?」
四人は顔を見合わせた。
「お前、船長の女か?」
年かさの水主が、羨ましそうな顔で尋ねる。
「後ろの男は、なんだ?」
俺は、いつでもコレティアを庇えるように、すぐ後ろに控えていた。
コレティアは男の質問に答えなかった。俺からはコレティアの表情は見えない。 だが、きっと楽しげに微笑んでいるのだろう。歌うように、コレティアが問うた。
「密輸の品を、どこに運んだの?」
一瞬にして、男達が気色ばむ。
「てめえ、何を知ってやがる?」
年かさの水主が、顎を引き、探るような目でコレティアを睨む。
返事次第では、すぐに飛びかかってきそうだ。
残りの三人も身構える。酔っているせいで、動作が緩慢だ。一人が、足元の壺を蹴倒した。残り少しだった葡萄酒がこぼれて、小さな水溜りを作る。
コレティアは物怖じせずに言い放った。
「ゴルテスは死んだわ。ローマで。あなた達の悪事も終わりよ」
コレティアの言葉を理解した途端、男達が弾けるように動いた。
二人が足元に転がしてあった短剣を握り、抜き放つ。刃が日の光に煌めいた。
投げ捨てた木の鞘が、乾いた音を立てる。
残りの二人が、素手のまま、低い唸りを上げて突進してくる。コレティアを組み伏せるつもりだ。
「下がってろ!」
俺はコレティアの前に飛び出す。脇に携えていた天秤棒を、腰だめにして突き出す。
突進してきた男の内の片方に狙いを定め、
倒れた男には目もくれず、次の男に向き直る。
視界の端で、白いストラが動いた。俺の忠告を無視して、コレティアが更に前へ出る。
「はっ!」
アプロディーテもかくやという脚が弧を描いた。
正確に顎先を蹴り抜かれた男が、目を回して膝から崩れる。
男の体が甲板を叩く鈍い音を聞きながら、俺は二人目の相手に天秤棒を繰り出した。
棒の中ほどを両手で持って、振り下ろす。右の肩口を打つと見せかけて、逆に回転させ、左脛の横を打つ。
天秤棒を握る両手に、手応えが伝わる。
足の骨が折れたはずだ。男は短剣を取り落とし、悶絶する。
俺は素早く左右に視線を走らせた。
相手は四人だ。まだ一人、残っている。
四人目は年かさの水主だった。
劣勢と見るや、背を向ける。甲板から飛び降りて、泳いで逃げるつもりだ。
背中を向けた水主の足元に、俺は槍投げの要領で天秤棒を投げた。
足を取られた水主が体勢を崩す。
俺が天秤棒を投げると同時に走り出していたコレティアが、跳んだ。正確に
「気絶させると、起こすのが面倒だろ」
俺は、甲板に放置されていた荒縄で、呻く水主達を縛りながら、苦情を申し立てた。
「話を聞くなら、一人で十分でしょう」
物騒なことを言いながら、コレティアは飛び乗っていた水主の背中から下りる。
ガラスのビーズが付いた、洒落たサンダルを履いた足は、威力を実際に目の当たりにしても、とても凶器には見えない。
「アプロディーテは、一人だけをお望みだそうだ。で、どっちが起きていたい?」
俺は縛った二人を見下ろした。
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