2 賢明にも、俺は無言を押し通した


 馬で皇帝港へ来た俺とコレティアは、真っ直ぐにガラテア号を目指した。


 俺にとって幸運にも、レンドロスはまだ皇帝港に滞在していた。ガラテア号の甲板へ上がった俺達に、レンドロスは忌々しそうな顔で停泊の理由を教えてくれた。


「契約している商人との間で、ちょっとごたついててな。ガリア産の革製品を運ぶ契約になってるんだが、肝心の荷物が、まだガリアから届いてないんだ」


 風に頼って進む帆船では、順風に恵まれるか否かで、航海日数にかなりの差が出る為、こういった事態は珍しくない。


 だが、レンドロスが焦る気持ちもわかる。航海は春と夏の間しかできないからだ。

 冬になると地中海は荒れる日が多くなる。余程の理由がなければ、船は出さない。波と風の状況にもよるが、だいたい四月頃から九月半ばまでが航海に適した時季とされている。


 仕事のない水主連中は、暇そうだった。

 半分以上は、降ってわいた休暇を満喫しに、オスティアへ羽を伸ばしに行っているのだろう。

 船には三人しか残っていなかった。甲板の端でサイコロ遊びをしている。器にサイコロを投げ入れるたび、歓声や呻き声が聞こえるのは、小銭を賭けているに違いない。


 潮風が、汗に濡れた体を撫でていく。

 もやい綱がぎいぎいときしむ音や、波が船体に当たる音が耳に届く。かもめや燕の鳴き声が、空から降ってくる。


 殺人の捜査で来たとは思えないほど、平和な雰囲気だ。


「また港まで来るなんて、どうしたんだ? 一昨日、ローマへ帰ったばかりじゃないか」

 レンドロスが不思議そうな顔で、俺とコレティアを交互に見た。


「ゴルテスがローマで殺されたの」


 俺が答えるより早く、コレティアが静かな声で告げる。レンドロスは、信じられないとばかりに、ぽかんと口を開けた。


「殺された? ゴルテスが?」


「刺し殺されて、ティベリス川へ沈められた。幸い、重りがすぐに外れたと見えて、浮かんで流れたんだ。で、それを俺達が見つけた」


「殺したって死なないような奴だったのに」


 レンドロスは、呆然と呟いた。

 さほど交流がなかったとはいえ、ギリシア人船長同士で、同郷だったのだ。驚くのも無理はない。


「レンドロス。前にゴルテスについて聞いた時、奴が密輸をしているらしいと言ってたな。警察隊は、密輸犯の仲間割れじゃないかと考えている。ゴルテスについて知っている事柄を全部、教えてくれないか」


 俺が見つめると、レンドロスはゆっくりと頷いた。


「それは構わないが、あまり知ってることはないぞ。奴と違って、俺はまっとうな船長だからな。密輸犯なんぞとは、関わらない」

 レンドロスは眉を寄せた。


「わかってる。密輸なんかしていたら、コレティアを乗せたりするもんか」

 苦笑して言った俺に、レンドロスは白い歯を見せて笑った。


「信用してもらって、なによりだ」


「ゴルテスの船の名前は知っているか?」

 レンドロスは考える表情になった。


「確か、アプロディーテ号だ」

「よくある名前だな」


 俺は苦々しく唸った。泡から生まれたというアプロディーテは、エジプトのイシス女神と同じく、航海の守護女神として船乗り達に信仰されている。アプロディーテ号やイシス号という船の名は、嫌というほどあった。


 密輸の形跡を調べる為に、皇帝港の税関事務所で、ゴルテスの船の積荷について調べるつもりだったが、かなり手間がかかりそうだ。もしかしたら、それを見越して、ありふれた名前をつけたのかもしれない。


「ゴルテスが密輸に関わっているという噂は、真実なの?」


 俺に代わってコレティアが尋ねる。レンドロスは言葉を選びながら口を開いた。


「証拠はないが、十中八九まで間違いない。ここ数年の奴の稼ぎは、ガラテア号と同じ、トリスキリオフォロス級一隻の船長にしては、多すぎる。アレクサンドリアの奴の家なんか、貴族かと間違うほどの豪邸なんだぞ」


「誰もゴルテスを追及しなかったの?」

 コレティアの口調は厳しい。碧い瞳に浮かぶ光は、もっと早く知っていれば、証拠を集めて容赦なく断罪したのに、と悔しそうだ。


「お嬢さん、俺に怒らないで下さいよ」

 また蹴られてはたらないと、レンドロスは、がっしりした首を恐ろしげに竦める。


「捕まらなかった以上、税関の目を巧くくらましてたんだろう。実際にどうやってたのかは、俺には、想像もつかないが」


「ゴルテスの船は、持ち船だったのか?」

 俺は口を挟んだ。


 船長にも二種類ある。

 レンドロスのように、自分の船を持って独自に商人と契約し、荷物を運ぶ者と、別に船主がいて、単に航海を行うだけの雇われ船長だ。


「アプロディーテ号は、奴の持ち船だったはずだ」


「でも、ローマに仲間がいたはずよね。密輸品を運んだだけでは駄目だもの。どこかで売りさばかなくては、利益にならないわ」


 コレティアが腕を組む。金の腕輪が肌を滑った。

「ゴルテスが組んでいた相手について、何か噂を聞いたことはない?」


「残念ながら」

 レンドロスは腕を広げて、かぶりを振った。


「ああ見えて、ゴルテスの奴は慎重な性格なんだ。いや、他人を信用しないというべきだな。奴にとって、他人とは踏みつけて搾取さくしゅするものなんだ。自分の身が危うくなるようなことは、一切、他言するような奴じゃない」


「その慎重な奴が殺されたってわけか。理由は、やっぱり金かな。分配で揉めたとか」


 俺は、誰に言うでもなく呟いた。金の前では、時に人の命が驚くほど安くなる。そんな例は、幾つも知っている。


「ありがとう、レンドロス。色々と教えてくれて」

 コレティアが微笑みながら礼を言う。


「これくらいお安い御用ですぜ」

 首を横に振ったレンドロスが、心配そうな目でコレティアを見た。


「けど、お嬢さん。ゴルテスを殺した奴を、まだ調べる気ですかい? 人殺しをするような危ない奴らですぜ。よした方が……」


 最後まで言い終わらない内に、レンドロスは口をつぐんだ。コレティアの射るような眼差しに睨みつけられたからだ。


 コレティアの後ろで俺は力なく、かぶりを振った。言って聞くような素直な性格なら、そもそも港まで来ていない。


 レンドロスが、気の毒そうな顔で俺を見た。

 賢明にも、俺は無言を押し通した。



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