7 おそろいの真珠の耳飾り
案内された食堂の壁には、遠近法を使って、カンパニアの豊かな田園風景が描かれていた。
青銅製のランプが、柔らかな光を投げかけている。燃やされているのは、オリーブ油だ。
食卓は大理石の大きなテーブルで、食卓を囲んで三方に大きな臥台が並べられている。
正式な
フラウィアは濃い緑色のストラに着替え、金の首飾りと黒玉の腕輪をつけていた。耳には、大粒の梨型の真珠を二つずつ垂らした
コレティアも装いを変えていた。淡い赤で、端に金の刺繍が施されたストラだ。白い肌によく映えている。
金の髪は、複雑に高く結い上げていた。侍女が頑張ったに違いない。
前菜は、酢漬けした葡萄の葉で山羊のチーズを巻いたものと、黒オリーブを添えた、イカの
ドレッシングはミントやフェンネル、コリアンダーをすり潰し、胡椒、蜂蜜、オリーブ油と混ぜたものだ。
主菜は、葡萄と桃のソースを掛けた
火傷しそうに熱い肉を口に入れる。噛むと旨味が広がった。旨い。手がソースでべとべとになるのも構わず、骨までしゃぶる。
葡萄酒は、カンパニアの山間部で造られた、高級酒と名高いマッシクム酒。
濃過ぎず薄過ぎず、絶妙の割合で薄められた葡萄酒は、海綿が水を吸うように体に沁み渡り、心地よい酔いを運んでくる。
フラウィアとコレティアは、ムルスムと呼ばれる、蜂蜜を加えた葡萄酒の水割りを飲んでいた。
シリアからの帰途を面白おかしく話す。フラウィアは時折、相槌を打ちながら聞いていたが、話がウェスウィウス山の噴火に及ぶと、驚いて目を見張らせた。
おかげで俺は、肉を慌てて飲み込んで、口を開く羽目になった。
俺とコレティアが乗った船は、それほど危険な目に遭うことなく、ネアポリス湾を通り過ぎたのだ、と。
あまり年老いた母親を驚かせるもんじゃない、という気持ちを込めてコレティアを睨むと、コレティアは肩をすくめて、銀の器に入ったムルスムを口に運んだ。
フラウィアは、それでおおよその事情を察したらしい。
「本当にあなたは、年頃になっても、まったく娘らしくならないのだから」
汚れた手を布で拭うと、娘を見て嘆く。
侍女によって髪は高く結い上げられているが、コレティアは化粧もしていないし、身に着けている装飾品も、いつもの腕輪くらいだ。
フラウィアは側にいた侍女に命じて、小さな包みを持って来させた。赤い色の絹だ。
侍女は恭しくコレティアに包みを渡すと、後ろへ下がった。コレティアの細い指が包みを開く。中から出てきたのは、大粒の梨型の真珠が二つずつついた金の耳飾りだった。今夜フラウィアが着けているものと同じだ。
「私とお揃いなのよ。着けてみてちょうだい」
後ろに控えていた侍女が、さっとコレティアに歩み寄る。
「髪を高く結っている方が、真珠が映えて素敵ね」
耳飾りを着けたコレティアを見て、フラウィアが明るい声を上げる。
「この耳飾りは、どうなさったの? お母様の好みとは、少し違うようだけれど」
コレティアが首を傾げる。真珠が揺れて、微かな音を立てた。
「いただきものなのよ。どうぞ、お嬢さんとお揃いでお着け下さいって」
あっさり告げたフラウィアの言葉に、俺は思わずコレティアの耳飾りを、まじまじと見つめた。
真珠の大きさからすると、明らかに高価なインド真珠だ。それを二揃いも。
一体、幾らの金がかかっているのやら。あの真珠一つで、俺なら数年は遊んで暮らせるだろう。
「こんな洒落た贈り物を、誰が下さったの?」
コレティアの口調は、送り主によっては、すぐにでも耳飾りを外しそうだ。
「グナエウス・カプレウス・ジウスですよ」
俺には聞いた覚えのない名だ。
コレティアの眉が一瞬、
「少し前に、お父様がガリアの土地を買った相手ね」
元老院議員になるには、百万セステルティウス以上の資産が要る。元老院議員は終身職だが、無給だからだ。
ローマ社会は、元老院階級、騎士階級、平民、解放奴隷、奴隷と分かれているが、階級間の流動性は高い。能力と資産さえあれば、上の階級に上がることも不可能ではない。
亡きウェスパシアヌス帝も、生まれは騎士階級だが、元老院階級に上がり、最終的には皇帝にまでなっている。
騎士階級になるには四十万セステルティウス以上の資産と皇帝の認可が要る。
奴隷が解放奴隷になるには、主人に遺言で解放してもらうか、自分で貯めた金で我が身を買い取らなくてはならない。ローマ市民権を得るには、三万セステルティウスの資産が必要だ。
平民の場合は、もっと簡単だ。ローマ在住なら、赤ん坊に命名した日に
元老院議員階級に必要な百万セステルティウスは、あくまで最低限の資産だ。大抵の元老議員は、もっと多くの資産を持っている。
資産がある人間は、それを土地に投資して、更に増やそうとする。危険を分散させる為に、あちこちの属州の土地を買うのだ。
買った土地は、奴隷が管理し、オリーブやら葡萄やら小麦やらを栽培して、更に主人の資産を増やしていく。
金持ちの人間は、ますます金持ちになり、貧乏人は貧乏なまま、というわけだ。
「ジウスは、土地を売ってローマへ出てきたの。これからは、ローマを拠点に手広く商売をしていくのだそうよ。どうぞ、今後ともよろしくおつきあいのほどを、と挨拶に来た手土産が、この耳飾りなの」
デザートの菓子を優雅に摘みながら、フラウィアが説明した。
三角に切り、上にシナモンを振ったケーキで、重なった層の間に、はみ出しそうなほど果物が詰められている。
ローマでは女性の社会的地位は低いが、家政を取り仕切るのは、昔から一家の女主人と決まっている。
フラウィアは現皇帝の伯母だ。フラウィアの性格からすると、自分の血をひけらかすことはないだろうが、フラウィアに取り入ろうとする者は少なくないだろう。
ジウスも野心家の一人らしい。フラウィアに知り合いの元老議員を紹介してもらえれば、取引は上手くいったも同然だ。インド真珠の耳飾りの代金くらい、すぐ取り戻せると計算しての贈り物に違いない。
「受け取らないでおこうかとも思ったのだけれど、あんまり見事な真珠だったから。私とお揃いの耳飾りなら、あなたも着けてくれるでしょう?」
フラウィアはコレティアに、にっこり微笑みかけた。やはり、娘の性格をよく把握している。次いで、フラウィアは俺にも笑顔を向けた。
「ルパス。コレティアがお世話になったわね。あなたへの謝礼だけれど、ケリアリスと約束した金額より、少し増やしておきましたから。明日の朝、出発する前に渡しましょう」
「お心遣い、ありがとうございます」
俺は丁寧に礼を言った。本当に、よくできた女性だ。
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