6 運命の女神に感謝の捧げ物を?


 屋敷内のこぢんまりした浴場とはいえ、一人占めして入るのは、この上ない贅沢ぜいたくだった。

 奴隷の理髪師に無精髭を剃ってもらうと、ようやく真っ当なローマ市民に戻った気がする。


 浴場から出ると、もう一つ、人生初の体験が待っていた。臥台トリクリニウムに寝そべっての食事だ。


 身分あるローマ人は、臥台に片肘をつき、品良く横になって食べない夕食など、食事の名に値しないと考える。

 庶民の俺には、とうてい理解できない価値観だ。俺は、腹さえ満たされれば十分だ。


 元老院議員夫人や令嬢とテーブルを囲むという思いがけない栄誉に浴する為に、俺は荷物から、一枚きりのトーガを引っ張り出した。


 奴隷に案内された今夜の寝室には、これまで見た覚えのない立派な寝台が置かれていた。敷布も柔らかそうで、寝転んだら、さぞかしいい夢を見られるだろう。

 残念ながら、トーガの長い毛織の布と格闘していた俺には、まだ試す機会はなかった。


 長い布を持て余していると、コレティアが戸口に顔を出した。


「トーガを持っているか、心配になって」

 と、悪戯っぽく笑う。


「俺だって、立派なローマ市民だ。トーガくらい、持っている」

 これ一枚きりだが。


「着付けを手伝うわ」


 部屋へ入ってきたコレティアは、俺がどうやって隠そうか思案していたトーガの虫食い穴を、器用にひだの間に隠してくれた。


「母に会って、驚いた?」

 トーガの襞を整えながら、俺を見上げて悪戯っぽく笑う。


「前皇帝陛下の姉にして、現ティトゥス帝の伯母上にしては、気さくな方だな」


 亡くなったウェスパシアヌス帝は、貴族出身ではない。もう一つ下の騎士階級エクィテス出身だ。

 生まれた時には、後年、自分が皇帝になるなんて、思いもしなかっただろう。

 無論、帝政ローマを築いたカエサルとアウグストゥス帝の血など、一滴も引いていない。


 十年前、ローマ暦八二〇年(紀元六八年)にネロが元老院とローマ軍団に不信任を突きつけられて自死した後、帝国は内乱を迎えた。


 まず、スペイン北東部タラコネンシス属州の総督だった名門貴族ガルバが軍を率いて起ち、皇帝となった。

 続いて、イベリア半島西部ルシタニア属州の総督だったオトーが、ガルバを暗殺して皇帝になり、ほぼ同時に、ライン河中下流域西岸低ゲルマニア州のローマ軍司令官だったウィテリウスが、配下の兵士達から推挙され、皇帝に名乗りを上げた。


 オトーが率いる近衛軍団、ダヌビウスドナウ軍団と、ウィテリウスが率いたゲルマニア軍団は、イタリア半島北部のベドリアクムで会戦。

 敗れたオトーは自死し、ローマ入りしたウィテリウスが皇帝となる。


 敗者の屈辱を味わったダヌビウス軍団は、ウィテリウスに忠誠を誓うことを拒否し、シリア総督ムキアヌスを皇帝に推挙しようとするが、ムキアヌスは拒否。

 ムキアヌスが代わりに挙げた人物は、当時、ユダヤで起こっていた反乱を鎮圧すべく派遣されていた軍司令官ウェスパシアヌスだった。


 皇帝に名乗りを上げたウェスパシアヌスは、ローマの食糧庫であるエジプトを押さえ、盟友ムキアヌスはシリアから軍勢を率いて首都へと進軍する。

 ユダヤの反乱鎮圧には、ウェスパシアヌスの長男ティトゥスが当たった。


 だが、ムキアヌスの到着よりも早く、雪辱に逸るダヌビウス軍団が、ローマへの進軍を開始していた。


 指揮を執ったのは、軍団長の一人であるプリムス。本来なら、属州総督が軍司令官となるのだが、兵士の不穏な空気に、総督は逃げ出していた。


 プリムス率いるダヌビウス軍団は、屈辱の地ベドリアクムで再び会戦を開き、ウィテリウス軍を破る。

 だが、命運を懸けたこの戦いにウィテリウスは参加していなかった。軍の指揮は部下に任せ、首都に留まっていたのだ。


 余勢を駆るプリムスはローマ市内へ進軍する。捕えられたウィテリウスは殺害され、遺体は重罪人のように、ティベリス川へ投げ込まれた。


 ムキアヌスがローマへ到着したのは、市街戦の数日後だった。プリムスを斥け、すぐさま権力を掌握したムキアヌスは、帝国の秩序回復に努める。


 まず、内乱の隙をついてゲルマニアに「ガリア帝国」を樹立していたゲルマン人を鎮圧する為に、軍団を派遣した。派遣された二人の司令官の片方は、コレティアの父ケリアリスである。

 同時に、内乱で被害を受けた町や人々への補償を開始し、ローマ市内の混乱の中で消失したユピテル神殿の再建に取り懸かった。


 結果、ゲルマニアの反乱は、発生から一年も経たずに鎮圧され、ユダヤの反乱も、ティトゥスがヒエロソリュマイェルサレムを攻め落とした。


 エジプトからローマへと渡ったウェスパシアヌスは、ローマ帝国の秩序を取り戻した上で、親政を開始したのである。


 以降の十年間、ローマ帝国は、属州で反乱が起こる事態も、蛮族が大挙して国境を越える事態もなく、平和を享受している。


 ウェスパシアヌス帝の後を継いだのは、ユダヤ反乱鎮圧の立役者である三十九歳のティトゥス帝だ。ローマ帝国の平和と繁栄は、末永く続くように思われた。


ひげを剃って、トーガを着れば、あなたもなかなかの男振りね」


 二、三歩後ろへ下がって、俺の姿を眺めたコレティアが、自分の着付けの出来栄えに満足したように笑う。


「あんたも、綺麗に髪を結って高価なストラを着れば、立派な元老議員令嬢に見えるさ。もちろん、黙っていればの条件つきだが」


 負けずに俺も言い返す。コレティアも浴場へ行ってきたのだろう。金の髪がしっとりと濡れていた。薔薇の香油のいい香りがする。


 抜けるように白い肌といい、金を熔かしたような髪の色や碧い瞳といい、コレティアは生粋のローマ人には見えない。ガリア人がゲルマン人といった方が信じられるだろう。


 だが、フラウィアもケリアリスも、本国イタリアの生まれだ。俺の視線に気づいたコレティアは、軽く肩をすくめた。


「私がお母様の子供だと、信じられないのでしょう?」


 何と答えれば、フラウィアに失礼にならないのか。

 俺が悩んでいる内に、コレティアは、あっさり暴露した。


「その通りよ。私は、お母様の実の子供ではないの」

「じゃあ、養子ってわけか?」


 身分の高い家では、子供に恵まれなかった場合養子を迎えることが多い。ローマ人らしくないとはいえ、コレティアの美貌は、愛らしい子供が欲しい夫婦には魅力的だろう。


 だが、家を継がせる場合には、ふつう女の子ではなく男の子を養子にするはずだ。

 ローマでは女性の法的地位は低い。男性親族の代理人を立てないと、法廷で証言もできない。


「残念。外れよ」


 コレティアは難しい問題を生徒に解かせる教師のように、厳かにかぶりを振った。


「私は、お父様が外に産ませた子供なの」


 俺の脳裏に、アンティオキアで会ったケリアリスの顔が浮かんだ。

 いかにも歴戦の武人らしく、鍛えられた体を揺すり、コレティアが護衛候補を蹴り倒すのを豪快に笑って見ていた。


 浮気が妻にばれた時も、豪快に笑いながら告げたのだろうか。ケリアリスなら、ありえそうな気がする。


「義理の親子にしては、仲がよさそうじゃないか」


「羨ましいの?」

「馬鹿を言うな。母親を恋しがって泣く子供じゃないんだぞ」


「お母様は、男性はいつまでも子供みたいなものよって、いつもおっしゃっているわ」

「よくできた女性だな。その調子で、ケリアリスの浮気を許したのか?」


「お父様は、最初、私を引き取る気ではなかったようだけれど。でも、生みの母親が死んだの。それで、この家に引き取られたのよ」


 自分の事情にもかかわらず、コレティアの口調は淡々としていた。


「おかげで、元老院議員令嬢になれたってわけか。フォルトゥナに感謝の供物を捧げないとな」

 フォルトゥナは運命を司る女神の名だ。


「あら、あなたがフォルトゥナ信者だったとは、ついぞ知らなかったわ」

 コレティアが可笑しそうに目を輝かせる。


「いや、フォルトゥナに供物を捧げたことは一度もない。残念ながら、フォルトゥナに感謝したくなる幸運に恵まれた機会が全然ないからな」


 半分は嘘だ。幸運に恵まれたことがないのは事実だが、たとえ恵まれたって、俺は女神になんて、感謝しない。


「あなたらしいわ」

 コレティアが、からかうような眼差しを送ってくる。


「幸運と縁がない、ってところがか?」

「いいえ。神に供物を捧げないところが」


「あんただって、そうだろう」

 俺とコレティアは、共犯者のように笑みを交わした。


「誰から生まれたって、どんな育ち方をしたって、私は私。それ以外の何者でもないもの。神だって変えられないわ」


 コレティアの碧い瞳は、挑むような光をたたえていた。


 きっと、コレティアの低い生まれをさげすんだ輩は、蹴り飛ばして黙らせてきたに違いない。


「だが、どうして俺に身の上話を?」


 元老院議員令嬢は、トーガを着てめかし込んだ平民を、労わるように見つめた。


「あなたが驚いた顔で私とお母様を見比べていたから。せっかくの御馳走なのに、悩んで消化不良を起こしたら可哀想でしょう」


「お気遣い、痛み入るよ」


 俺は両腕を広げると、謝意を示した。

 トーガなんて、真夏に着るもんじゃない。暑苦しいし、無用に重い。

 もう脱ぎたくなってきた。


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