4 三年ぶりのローマの空気を味わって
コレティアは手綱を握りたがったが、丁重にお断りした。絶対に、
ローマでは、日中の荷車や荷馬車の乗り入れは、法律で禁止されている。禁止したのは、ユリウス・カエサルだ。例外は、公共事業用の荷車と荷馬車のみ。
その為、日が暮れると、ローマに通じているあちこちの街道から、荷車や荷馬車が市内を目指してやって来る。石畳に響き渡る車輪の音は、属州からローマへやってきたばかりの
幸い、道中は何事もなく、俺とコレティアはまだ日が高い内にローマへ着いた。
俺が雇った使いは、ちゃんと役目を果たしていた。ローマ市内へ入る門のところには、コレティアの屋敷からよこされた、担ぎ手つきの
日中の市内では、交通手段は人間の足しかない。しかし、金持ちや身分の高い人々は、自分の足で歩かずとも、
日中の荷馬車乗り入れを禁じたカエサルは、
だが、その後継者のアウグストゥス帝は、臥輿を好んだと言われている。少なくとも、元老院議員の夫人や令嬢は、家から出る時は臥輿を利用するのが一般的だ。
ところが、コレティアは、せっかく迎えに来た臥輿には見向きもしなった。
さっさと奴隷達に荷物を預けると、身一つで歩き出す。俺が自分の荷物を持って後を追うと、空の臥輿と荷物持ちの奴隷達が従いてきた。担ぎ手達の表情は、こうなる展開は予想済みだと言わんばかりの諦め顔だ。
「せっかく呼んだのに、無駄になったな」
「あなたが乗ればいいじゃない」
振り返りもせず言うコレティアの口調は、本気だ。
「よしてくれ。客を歩かせて自分は臥輿に乗る護衛が、どこにいる」
「ローマに着いたのよ。仕事は果たしたも同然でしょう」
「俺は、最後まで気を抜かないことにしてるんだ。報酬をふいにしたくない」
俺は眉を寄せて、すこぶる生真面目な顔を作ってみせると、危険なものがコレティアに近づいていないか、辺りを見回した。
俺にとっては、三年ぶりのローマだった。
真夏の日差しに熱せられた石畳は、火に掛けた鍋のようだ。裸足で歩けば、火ぶくれができるだろう。
この暑さでも、通りは人でごった返していた。「
背が低く、がっしりした体格のローマ人。金髪碧眼で体格がよいのは、ガリア人かゲルマン人だ。
書字板とパピルスの巻物を抱えて歩いているのは、金持ちの子弟の教育用に買われたギリシア人奴隷だろう。下手な自由民よりも上等なテュニカを着ている。
袖のないテュニカを着た、黒い肌のヌミディア人の担ぎ奴隷。イシス女神の神官らしい
オリエント風のゆったりした衣装を纏っているのは、シリアから来た商人だろうか。
買い物籠や、水汲み用の壺を持った奴隷達が、
焼きたての香ばしい香りを立てる白パンを抱えている奴隷もいた。主人の
膝下までのぴったりした
近隣の農家から葡萄酒を運んで来たのか、アンフォラを背に括りつけた
通りの中央を、しずしずと臥輿が進んでいた。中が見えないように布を下ろした臥輿には、凝った彫刻が施されている。担ぐ奴隷の数は六人で、揃いの赤いテュニカを着ていた。男か女かはわからないが、乗っている人物は山ほど宝石を身に着けているに違いない。
大抵のローマ人は日の出とともに働き始め、公務は午前中で終わらせる。昼からは私用の時間だ。そのせいか、通りの雰囲気はくつろいだ感じがする。
通りの両側には、ずらりと露店が並んでいた。
シリア産のデーツの実や、乾燥プラム等、属州から輸入した果物を売る露店があるかと思えば、素焼きの陶器を売る露店もある。青銅器の露店には、鉛引きした鍋やスプーン、色々な形の壺等が並んでいる。
近隣の農園で採れた果物の露店の店番は若い娘で、売り物に負けないくらい瑞々しい。蜂蜜漬けにした桃や
木の枝を持ったやんちゃ坊主を先頭に、何人かの子供達が甲高い声を上げながら路地から飛び出して来て、別の路地へと走っていく。
側の
ローマほど、両極端なものが共存し、活気を呈している都市はない。
広大な帝国を統治する皇帝と、明日をも知れない浮浪者達。
宝石で飾り立てた富裕者達と、薄汚れた茶色のテュニカの奴隷達。
活気ある喧騒に満ちた昼間と、身元の知れない娼婦や犯罪者達が跋扈する夜間。
だが、昼間でもローマは気を抜けない。
どこに
インスラの側を通る時には、階上の住人が捨てるゴミや、もっと
コレティアは慣れた様子で先頭に立って進んでいく。自信にあふれた足取りは、踊るように軽やかだ。道行く男達が自分を振り返ろうとも、相手に目もくれない。
俺はコレティアのすぐ斜め後ろを歩いて、辺りに気を配りながら進んだ。
コレティアの屋敷は、アッピア街道に近い一等地にあった。皇帝が暮らすパラティヌスの丘からも、さほど離れていない。アウグトゥス帝によって、ローマは十四の行政区に分けられているが、その十二区にあたる。
ぴかぴかに磨かれた飾り鋲を打ち、青銅の蝶番がついた両開きの門の前では、四十歳くらいの
「おかえりなさいませ、お嬢様!」
コレティアの姿を見ると、いかつい顔に満面の笑みが浮かぶ。
「やっぱり歩いて来られましたね。奥様が御覧になられたら、またお叱りを受けますよ」
「お母様には、黙っていて
コレティアと門番は、目を合わせて笑い合った。
「こちらの方は?」
門番が俺に目を向ける。コレティアの返答によっては、即刻、追い返してやろうという気で満々だ。
「彼は、ルパス。お父様が一人でローマへ帰すのは不安だからって、護衛につけたの」
門番は、頭のてっぺんから爪先まで、俺を
「ここを通して、奥様に会わせてさえくれれば、俺の仕事は、おしまいだ」
俺は、ぶっきらぼうに言うと、言外に、お前の評価はどうだっていいんだという雰囲気を匂わせてやった。
門番はふん、と鼻を鳴らすと、コレティアには笑顔、俺には冷たい
「奥様は
「わかったわ。ルパス、従いてきなさい」
コレティアは振り返りもせずに言うと、屋敷の中へ入っていく。コレティアの後に続くと、門番が背後で分厚い扉を閉めた。それだけで街の喧騒が嘘のように遠のく。
色鮮やかなモザイクの床を進んでいくと、コレティアの肩の向こうに、光に満ちた
大理石の列柱が屋根を支え、内側に傾斜した屋根の中央が空いている。屋根が空いているのは採光の為で、内側に傾斜しているのは、雨水をアトリウムの中央に設けられた水槽に溜める為だ。
高い金を払って、アッピア水道から屋敷に水を引いているのだろう。アトリウムには、大理石の噴水もあった。イルカをかたどった注ぎ口からは絶えることなく水が出、涼しげに煌めきながら、音を立てて流れている。
アトリウムを囲むように幾つもの部屋が配されているのが、伝統的なローマの屋敷だ。
アトリウムを挟んで玄関の反対側にある部屋が、タブラリウム。一家の主人が客を応対する為に使われる。
玄関からタブラリウムまでが、屋敷の公的な空間で、そこから奥は私的な空間になる。
屋敷の奥には、ペリスティリウムと呼ばれる、これも屋根のない中庭があり、屋敷の前半分と同じように、ペリスティリウムの周りに幾つもの部屋が配されている。
ただし、ペリスティリウムには雨水を溜める水槽はなく、代わりに、色々な木々や花が植えられる。
タブラリウムに向かって列柱回廊を進んでいくと、柱と柱の間に配された彫刻が見えた。竪琴を弾く大理石のアポロン、豊かな体のウェヌス、青銅のスフィンクス。どれも高価で、かつ趣味が良かった。
タブラリウムの壁は上が明るい青で塗られていて、下が羽目板張りだった。羽目板には図案化された花と葉の凝った彫刻が施されている。天井は白の漆喰だった。
部屋の中央には、ライオンをかたどった脚の青銅のテーブルが置かれ、その向こうの背もたれの高い椅子に、コレティアの母・フラウィアが座っていた。
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