3 女がインドについて知ってることは


 岸へ戻り、血の気が引いた顔で彫像のように立っていた若い母親に子供を返すと、母親は子供を抱きしめて頽れた。涙を流して子供に頬擦りしながら、何度も礼を繰り返す。


「ありがとうございます! 何とお礼を言えばいいんでしょう。この子ったら、初めて乗る船にはしゃいでしまって……。落ちた時には、私の心臓も止まるかと思いました。本当に、ほんとうに、ありがとうございました」


 頭を下げる母親の目に、また新しい涙が浮かぶ。


 子供の無事に安心した見物人達は、自分の仕事に戻っていった。去らなかったのは、先ほど俺を引き上げてくれた若い水主だけだ。

 よく見ると、ガラテア号の水主だった。名は、カリトスといった。


「ありがとう、カリトス。助かった。小舟が来なかったら、俺も子供も溺れ死んでいた」


 カリトスは白い歯を見せて、明るく笑った。

「礼なら、お嬢さんに言った方がいい。俺はお嬢さんの言うことに従っただけだから」


 濡れそぼった俺を見回して言葉を次ぐ。


「荷馬車を借りに行くとこだったんだろ? ついでに俺が借りてきてやろうか?」

「それは助かる」


 俺は重ねて礼を言うと、トゥニカの帯にしっかり結びつけた財布から、銀貨を取り出した。荷馬車を借りても十分に余る額だ。

 命を助けてもらった礼にしては安過ぎるが、俺は裕福な方じゃない。


 立ち去ろうとする俺とコレティアに、若い母親が慌てて声を掛けた。


「あ、あの、どうかお礼を……」


 礼を貰う気はなかった。別に、謝礼の為に命を懸けたわけじゃない。そもそも、コレティアが飛び込もうとしなかったら、俺は飛び込まなかった。謝礼を受けるのは気が咎める。


 俺は若い母親の厚意を傷つけないように、言葉を選びながら口を開いた。


「礼はいいんだ。その代わり、これからは子供から目を離さないようにしてやってくれ」


 「男の子は無茶をするものだから」と言い掛けて、はたとコレティアのことに思い当たった。急いで言い換える。


「子供は無茶をするものだから」


 母親が何度も大きく頷く。母親の首にしがみついて泣いていた子供が、涙に濡れた瞳で俺を振り返った。


「ありがとう……」

 かすれた小さな声で呟く。俺は子供の濡れた頭を優しく撫でた。


「もう船の上で暴れるんじゃないぞ。海神ネプトゥヌスさらわれたら、二度と母さんのところに帰れないんだからな」


 「うん」と真剣な顔で子供が頷く。


「じゃあな」

 と軽く手を振って、俺は母子に背を向けた。ずぶ濡れのまま、港をうろつくわけにもいかない。幸い、ガラテア号からは、まださほど離れていない。


「英雄の御帰還だな」

 戻ってきた俺とコレティアを、レンドロスがからかう。


「冗談はよしてくれ」

 思いがけない水泳のせいで、体がだるい。無愛想に答えた俺に、レンドロスは抜け目ない笑みを浮かべて尋ねた。


「親からたんまり謝礼をせしめたのか?」

「そこまでは気が回らなかったな」


 そらとぼけて、荷物の中から上等そうに見えるトゥニカを引っ張り出す。海水で体がべたべたする。

 公衆浴場テルマエへ行ってさっぱりしたい。だが、仕事が優先だ。コレティアを無事にローマの屋敷に送り届けなければならない。


 今は正午を少し過ぎたくらいだが、皇帝港からローマまでは荷馬車で二時間は掛かる。


 ローマだけに限らないが、夜のローマは特に危険だ。日が暮れてから街へ出没するのは娼婦だけじゃない。酔っ払いや浮浪者、野良犬なんかに出くわすのなら、まだいい。

恐ろしいのは、強盗や誘拐犯に襲われる事態だ。なんとしても日が高い内にローマに着きたかった。


 コレティアと一緒にいると、次はどんな危険に巻き込まれるか皆目わからない。


 船倉で着替えていると、開け放しの落とし戸から、甲板にいるコレティアがレンドロスに質問している声が聞こえてきた。


「船長、ギリシア人の船長同士は交流があるのかしら?」


 コレティアがレンドロスに説明している人相から察するに、先程「アグニ」と言っていた男のことらしい。


 ギリシア人とフェニキア人が船乗りに占める割合は、かなり高い。どちらも、ローマがまだ小さな都市国家だった頃から、地中海を縦横無尽に航海し、繁栄を築いていた民族だ。


 レンドロスはコレティアの説明に思い当たる人物がいたらしい。だが、答える声は苦々しかった。


「そいつは多分、ゴルテスだろう。けど、なんでまた奴のことを? あいつは、お嬢さんが関わるような奴じゃありませんぜ」


「どんな人なの?」

 レンドロスの言葉を無視してコレティアが問う。レンドロスは大仰に顔をしかめた。


「奴とは、たまたま住まいが同じアレクサンドリアだから知っているんだが、そうじゃなかったら、近づきたくもない野郎だ。水主や奴隷の扱いは酷いし、自分の利益になると思えば、人を騙すことを躊躇ちゅうちょしねえし、船長仲間の評判は最悪だ。密輸に手を染めているという噂もあるが、奴ならやりかねん」


 ローマの関税は、だいたい二〇分の一の割合だ。だが、絹、宝石、香料、香辛料等の贅沢品には四分の一もの関税が掛かる。俺も荷物の中の胡椒を申告してこなければならない。


「密輸、ね。インドの真珠やルビーや香辛料を運んでいるのかしら?」

 コレティアの声は、いかにも楽しそうに弾んでいる。


「さあね。だが、奴なら何をしていても驚かないな。だがお嬢さん、奴には関わらない方が身の為ですぜ」


「あら、御忠告ありがとう」


 コレティアの口調は、忠告を聞く気が欠片もないのが明らかだ。

 だが、俺もコレティアをゴルテスに関わらせるつもりはない。少なくとも、コレティアを無事にローマの母親の許へ送り届けるまでは。


 コレティアには、これ以上は金輪際、港を自由に歩かせまいと、俺は心に決めた。ゴルテス探しなんかされては、敵わない。


 しかし、一つだけ気になる件があった。


「コレティア。何故、ゴルテスが密輸しているのがインドの商品だと思うんだ?」


 梯子段を登りながら、コレティアへ尋ねる。


 確かに、インドからの商品には旨みがある。インドの真珠やルビーや、木綿、香辛料は贅沢品だからだ。四分の一の関税を払わず密輸すれば、莫大な利益になる。


 だが、贅沢品はインドの商品だけじゃない。中国の絹、スエビクムバルト海の琥珀こはく、ガリアの珊瑚さんご、エジプトにも没薬ミルラや乳香等の香料がある。


 俺の疑問にコレティアは、あっさり答えた。


「なぜって、ゴルテスが口にしていた「アグニ」はインドの火の神だもの」


「アグニ? なんだ、それは?」

 レンドロスが首を傾げる。


「よく知ってるな」


 俺はコレティアの博識に思わず舌を巻いた。コレティアは悪戯いたずらっぽく微笑んだ。


「女がインドについて持つ知識は、エクサルミナトスやクロタリアだけじゃないのよ」


 エクサルミナトスとは、明礬石みょうばんせきもどきという意味だ。天然の明礬石には、ガラス状の光沢があり、白や黄色や赤色を帯びているものがある。同じような輝きを持つ真珠はエクサルミナトスと呼ばれ、最も珍重される。


 やや長めで雫形をしているものは梨型エレンコスと呼ばれ、耳飾りによく使われる。二つか三つ一緒につけて、動くたびに真珠が触れ合って煌めき、音を立てる様子を楽しむのだ。

 クロタリアとは、この耳飾りを指す。ギリシア語でカスタネットという意味だ。


 真珠はインドだけに産するわけではない。黒海周辺やギリシャ西岸アカルナニア北アフリカマウレタニアでも採れる。

 だが、それらの真珠は小さかったり、不規則な形をしていたりする。その為、大きくて丸いインドの真珠が最も賞美されている。


 アグニを知らない俺達の為に、コレティアが説明してくれる。


「アグニは、インドの火の神で、神話では重要な位置を占めているわ。祭火に捧げた犠牲を天にいる他の神々の元へ運んでくれる神で、人間と神々の仲介者とされているの」


「ヘルメスみたいなもんか?」


 レンドロスが口を挟む。ヘルメスはギリシアの神で、ゼウスの伝令役を務めている。


「ヘルメスよりも、人々の信仰を集めているようだけれど。ゾロアスター教のアータルという火の神と同一視されている、という説もあるわ」


「ゾロアスター教なら、聞いたことがある。ミトラス教と並んで、パルティアで信じられている宗教だろ?」


「ローマではミトラス教と呼んでいるけれど、ミトラスというのはギリシア語で、パルティアではミスラ教と呼ぶのよ」


 コレティアが俺の言葉を訂正する。


 ミトラス教は、ここ数十年の間にローマの各地へ広まった宗教だ。

 ネロに命じられ、パルティア王国との外交問題に活躍した名将コルブロ傘下の兵が、カッパドキア駐留や、アルメニア王国への侵攻の中で、ローマへミトラス教をもたらしたと言われている。そのせいか、信者はローマ軍の兵士が多い。


 ゾロアスター教については、俺は名前しか聞いた覚えがなかった。そもそも俺は、信心深い部類じゃない。

 神に犠牲の山羊を捧げるくらいなら、山羊を売って、精のつく食べ物を買う方がいい。

 神は気まぐれにしか助力をしてくれないが、食べ物は確実に血肉になる。


 コレティアが考え深げに手を顎に当てた。金の腕輪が陽光を反射して、きらりと光る。


「でも、ゴルテスはどうして、ウェスウィウス山の噴火がアグニの呪いだなんて言ったのかしら? 噂で流れているのは、ウルカヌスやプロセルピナの怒りなのに」


臍曲へそまがりなんだろ」


 俺の答えに、コレティアはおかしそうに声を上げて笑った。


「誇大妄想の気もあるかもしれないわね。アグニの炎がローマを燃やし尽くすだろうとも言っていたもの」


「そいつは、大事だ」


 俺は、わざとらしく驚く振りをした。この程度で、コレティアのゴルテスへ興味が薄れるなら、いくらでもする。


 カリトスが荷馬車を借りて戻ってきた。俺は水主達に荷物の積み込みを頼み、コレティアにその監督を依頼した。


「あなたは、どこへ行くの?」

「ちょっと税関に用事がある」


 それに、娘が帰った来たと知らせる為に、人を雇ってコレティアの屋敷へ使いを出さなくてはならない。


「俺が戻ってくるまで、船から出歩くなよ」


「皇帝港には何度も来てるもの。迷子になんてならないわ」

 ということは、出歩く気が満々だ。


「俺はもう、代わりに堀割に飛び込むのはごめんだ。元老議員夫人にお目通りする為の上等のトゥニカの替えは、もうないんだ」


 コレティアは諦めたように吐息した。


「仕方がないわね。それなら、大人しくしておいてあげる。約束するわ」


 俺は安心した。コレティアは、人の忠告は聞かないが、約束は破らない。


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