2 まるで犬でも撫でるように
足から飛び込んだせいで、体が深く沈む。
耳元でごぽごぽという音がし、体中を取り巻いた泡が、頭上の水面へと昇っていく。
立ち泳ぎをし、一度、水面から顔を出して息を継ぐ。首を回して、位置を確認する。
子どもの手が、最後の
大きく息を吸い込むと、水中に潜る。
水の流れは速い。河口へ押し流そうとする力に逆らって、水を掻く。
水は多少は濁っているが、見通せないほどではない。
子供の小さな影がゆっくりと水底へ沈んでいくのが見えた。男の子だ。気を失っているのか、手足はだらりと伸びている。
足で水を蹴る。テュニカが体にまとわりついて動きづらい。それでも、腕を伸ばして必死に水を掻いた。
目の前に見えるのに、子供までの距離は、なかなか縮まらない。もどかしい。 ブーツも脱げよとばかりに、大きく水を蹴る。
伸ばした指先が子供の服に触れた。握りしめて手繰り寄せる。抱えた子供は、ぐったりしていた。だいぶ水を飲んだのだろうか。
水面を目指して泳ぐ。
息が苦しくなってきた。水面は遠い。きらきらと鏡を砕いたような光が、誘うように揺れている。黒い影は渡し船の船底だ。
空いている方の手で、水を掻く。砂漠で見える幻影のように、泳いでも泳いでも、水面が近づかない。
腕の中に抱えた子供が、青銅の彫像のように感じる。重い。浮かべない。
流されたのか、さっきまで見えていた船底が見えない。
息は、もう限界だ。
苦しい。耳の奥で
頭が締めつけられたように痛い。手足が
鼻から空気が漏れる。水を飲んだ。
肺に残っていた空気が逃げていく。
それでも手を動かした。
頭の中で白い光が
次の瞬間、不意に顔に空気が触れた。
鼻と口が
今まで食べた何よりも、潮の香りの空気がうまい。
「ルパス! こっちへ!」
すぐ近くで、コレティアの声がした。首を回すと、水主に漕がせた小舟で、俺に向かってくるコレティアの姿が見えた。
俺は子供を抱えたまま、力を振り絞って小舟へ泳いだ。片手を船縁に掛けると、櫂を漕ぐ手を止めた水主が、手を伸ばして子供を引き上げてくれる。
子供を助けた安堵で、一瞬、体から力が抜けた。俺を沈めようと、波が襲ってくる。
船縁に掛けた手が離れそうになる。
「駄目よ、ルパス。まだ気を抜かないで」
手を添えて船縁を握らされる。もう片方の手も。
俺が船縁をしっかり掴んだのを確認すると、コレティアは子供へ向き直った。両手を組んで、子供の肩甲骨の間を強く叩く。
釣られた魚のように、子供の体が
自由民の子供が首から下げているお守りが、船の底に当たって、ことりと鳴った。
水主に手を借りて船に上がりながら、俺はコレティアが子供を介抱する光景を、安堵の思いと共に眺めていた。
「大丈夫。子供は無事よ」
よく通る声でコレティアが言うと、渡し船と堀割の人々から喝采が轟いた。
船から身を乗り出し、息を詰めて子供を見守っていた母親らしい若い女が、安堵のあまり泣き崩れる。
だが、俺には、喝采を受けるだけの元気はなかった。立っていられなくて、子供と一緒に、ごろりと船底へ寝転ぶ。
目を閉じて、深々と息を吸い込んだ。コレティアの香水の芳しい香りがする。
夏の陽光は、閉じた瞼を突き抜けるほど眩しい。照りつける光が、濡れた髪や服を乾かしていく。
「気持ちが悪いの?」
顔の上に影がかかった。
薄目を開けると、コレティアが眉を寄せ、心配そうな顔で俺を覗き込んでいた。陽光に煌めく金の髪が顔を縁取って、後光のようだ。
「どいてくれ。髪が乾かない」
「減らず口を叩けるなら、心配は要らないわね」
コレティアは笑うと、犬でも撫でるみたいに、俺の癖毛に指を突っ込んで掻き回した。
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