第2章 アグニの呪い 紀元79年8月

1 皇帝港にて


 ガラテア号の甲板に架けられた渡し板から、皇帝港ポルトゥス・アウグスティへ降り立った時、長い間、船に揺られていたせいで、地面も揺れているような錯覚に囚われた。

 何度か足踏みして、地面の固さを確かめる。大丈夫だ。動いていない。


  喜びが、じわじわと心に広がった。

  ウェスウィウス山の噴火に遭ってから三日。ようやく危険から逃れた実感が湧く。


 背後で、渡し板が軽い音を立てた。

 振り返ると、コレティアが羽根のように軽い身のこなしで板の上を歩いてくる姿が目に入る。


 俺が荷馬車を借りてくる間、船で待つように言ったのに、聞く気は欠片もないらしい。

 気持ちは、よくわかる。長い船旅の後なのだ。地面が恋しくなっても仕方がない。


 地面に降りたコレティアは、腕を上げて大きく伸びをした。金の腕輪が白い手首からひじへと滑り落ちる。腕輪にあしらわれた緑碧玉は、コレティアの瞳と同じ色だ。


 コレティアが身に着けている装飾品は、去年、十六歳の誕生日にケリアリスから贈られたという腕輪と、幾つかの指輪だけだ。元老院議員の娘だというのに驚くほど少ない。

 もっと貧しい家の娘だって、腕輪や首飾りや耳飾りをじゃらじゃらと大量に着けている。

 だが、貧しい娘達が着ける青銅製やガラス製の安物の装飾品と異なり、凝った意匠が施されたとろけるように輝く金といい、傷一つない大きな緑碧玉といい、明らかに高価だとわかる。


 今日のコレティアは、薄い青の綿のストラを纏っていた。綿や絹等、東洋から輸入される布地で服を作るのは、金持ちの特権だ。


 金の腕輪に負けないほど煌めく金髪は、服と同じ色のリボンで簡単に結い上げている。奴隷の侍女は同行していないので自分で結っていたが、器用なものだ。


 皇帝港は、クラディウス帝が発案して着工し、二十五年前のネロ帝の治世に完成した、ローマの海の玄関口だ。


 ローマの外港としては、ティベリステヴェレ川の河口にある港町オスティアが、何百年も前から利用されている。

 ティベリス川は下流で二つに分岐しており、オスティアは南の河口の左岸に位置している。


 主食である小麦のほとんど全てを属州からの輸入に頼っているローマでは、大型船が安全に停泊できる港の有無は死活に関わる。

 皇帝港の建設は、竣工までに十二年もの歳月を掛けた一大事業だった。港の両側からは、石灰岩の大岩を鉄鎖で締め付けて沈めて土台にしたという防波堤が、何百パッススも海へ突き出して、嵐から船を守る内湾を作っている。総長が一・七ミリアリウムもある内湾には、何百隻もの船が停泊できた。


 左右から伸びた防波堤の中間には、人工の島があり、四階建ての灯台が建っている。この島の土台が、カリグラがエジプトからオベリスクを運ぶ為だけに建造させたという巨大船を沈めて作られているのは、有名な話だ。

 人工島は、左右の防波堤とそれぞれ百四十パッスス(約二百メートル)の距離を取っており、北側の水路から船が入り、南側の水路から船が出ていく。


 皇帝港には、ローマ帝国中から、ありとあらゆる品を積んだ船がやってくる。


 大理石や材木、陶器や青銅の器、見事な美術品、ガラス製品、高価な香料や香辛料、スエビクムバルト海の琥珀やインドの真珠など、様々な宝石。

 オリーブ油や魚醤ガルム、葡萄酒が入ったアンフォラ、象やライオン、孔雀やインドのインコや虎等の珍しい動物、エジプト産の高品質なパピルス等、枚挙にいとまがない。奴隷商人に懸かれば、人間だって立派な商品だ。


 荷揚げされた商品は、ティベリス川の北の河口の右岸を切り、内湾と結ばれた堀割ホッサを通って、オスティアへと運ばれる。皇帝港には、船着き場や倉庫群、税関や神殿等、必要最小限の設備しかなく、交易の場は、あくまでオスティアに残されているからだ。

 クラディウス帝は、ローマの外港の地位を皇帝港に移したかったのではなく、オスティアと皇帝港が一緒に機能することを期待したのだろう。


 一部の商品は、オスティアへ運ばれることなく、このまま属州へと輸出される。属州に派遣された軍隊や役人等、ローマ風の生活様式を求める人々や、彼らによって啓蒙された属州民に対して、だ。


 ガラテア号が停泊したのは、南の防波堤に近い船渠せんきょだった。ティベリス川を通じてオスティアと結ばれた堀割に近いが、俺達はオスティアへは寄らず、荷馬車を借りて、まっすぐローマへ帰るつもりだった。


 皇帝港からは港街道ウィア・ポルトゥエンシスが、オスティアからはオスティア街道ウィア・オスティエンシスが、それぞれローマに通じている。ティベリス川を船で遡る手もあるが、船はもうこりごりだ。


 俺達は、港の北からローマへ伸びる街道沿いの貸し馬車屋へと、並んで歩いていた。


 道行く人々の何人かがコレティアの美貌を振り返る。タチの悪そうな水主の中には、あからさまに視線を送ってくる奴もいた。


 コレティアは、虫を誘う芳しい芳香を放つ花のようだ。種類は、野薔薇。うっかり触ろうとすると、鋭いとげで手酷く傷つけられる。


 俺はコレティアに絡んでくる奴が出てこないように、さりげなく辺りに目を配っていた。


 港は活気に満ちていた。テュニカの片肌を脱いだ荷担ぎ達や水主連中が、樽やアンフォラを運び、様々な人種の奴隷達が木箱を荷車に積み込んでいる。


 これから旅行へ行くと思しき若い男が、期待と憧れに満ちた目で帆船を見上げている。

 その横で、船長らしい日に焼けた男が、あれやこれやと水主達に指示を出している。別の船では、ヌビア人らしい黒い肌の貿易商が、象に渡し板を渡らせようと、悪戦苦闘していた。

 明らかに軍艦とわかる三段櫂のガレー船の側では、暇そうな兵士がうろついている。


 よく晴れた空にはかもめや燕が飛び、鳴き声を降らせてくる。高く舞い上がったかと思うと急降下し、軽やかに飛ぶさまは、地上の人間達をからかっているかのようだ。


 時折、腐った魚の匂いや、香辛料を詰めた樽から食欲を刺激する香りや、荷担ぎや奴隷達の汗の匂いが、鼻孔に飛び込んでくる。が、すぐに潮の香りを含んだ風に吹き飛ばされた。


 船渠には大小様々の帆船やガレー船が停泊していた。頑丈な櫂を備えた引き船が、帆船の間をゆっくりと動いている。停泊中の船に食べ物や雑貨を売る小舟が、船の間を縫うように漕ぎながら、売り声を響かせていた。


 大型船が入港してくると、途端に荷物運びや税関の役人達が騒がしくなる。ラテン語の怒鳴り声やギリシア語の呼び声の合間を縫って、もやい綱や渡し板が軋む音、防波堤や船体を洗う波の音が、耳へ入ってくる。


 ある程度の教育を受けたローマ人なら、誰でもラテン語とギリシア語を話すことができる。これは、まだローマがイタリア半島内陸の小さな都市国家だった頃の名残だ。


 建国当初のローマは、当時、世界最高の文明を誇ったギリシアから、政治、哲学、悲劇や喜劇など、様々な文化を学んだ。ローマがギリシアを追い越して地中海の覇権を握っても、ローマ人はギリシア語を駆逐して、ラテン語を強要しなかった。だから、帝国の東方では、今でもギリシア語の方が通じやすい。


 周りの声に耳を澄ませていると、忘れたくても忘れられない地名が幾つも聞こえてきた。ウェスウィウス山、ネアポリス湾、ポンペイ、ヘルクラネウム、ミセヌム、プテオリ等々。


 ウェスウィウス山の噴火の報は、既にローマへ伝わっているらしい。ネアポリス湾のプテオリも、イタリア西岸の港として重要な位置を占めている。

 加えて、ネアポリス湾の沿岸一帯には、元老院議員や富裕者達の別荘が立ち並んでいる。話し声の内容は、危険を避けられた幸運を喜ぶ声や、船の出資者達の安否を気遣うものが多かった。


 中には、ポンペイの町は火山から降り注いだ土砂や灰で埋まってどうしようもないらしいと、見てきたように話す者や、二ヶ月前に即位したばかりの新皇帝ティトゥスは、被災者への対策の陣頭指揮を執る為に既に現地へ向かっていると、情報通らしいところを見せる者、自分の船が無事だった理由は、出航前に航海の守護神イシス女神に高価な犠牲を捧げてきたからだと、声高に自慢する者もいる。


 また、ウェスウィウス山が噴火したのは、火の神ウルカヌスへの捧げ物が少なかった為に、神の怒りを招いたのだと、もっともらしく言う者がいたかと思うと、いやいや、怒ったのは地底の神プルートの妻プロセルピナで、彼女の好物である蜂蜜メリタを祭壇に捧げるのを怠ったからだと、訳知り顔で言う者もいた。


「はん、てんで見当違いだな。ウェスウィウス山の噴火は、アグニの呪いさ。アグニの炎はネアポリス湾を焼くだけじゃ済まない。帝国中が、アグニの炎で燃やし尽くされるだろう!」


 不意に、濁声だみごえのギリシア語が耳に飛び込んできた。振り返ると、船長と思しき壮年の男が、知り合いらしい男に、神官の託宣のように告げていた。


 男はギリシア人だろうか。レンドロスと同じように、頬から顎にかけて立派なひげを生やしている。

 だが、品性はもっと低そうだ。日焼けした顔は酒でも入っているように赤い。

 派手な色のテュニカは金が掛かっていそうだが、手入れが悪くてくたびれているし、ところどころ食べ物の染みがついている。


 顔つきは太々しく、白い部分が黄色く濁った目は、値踏みするように辺りを睥睨へいげいしている。

 腰から下げた鞭は、気に入らない水主やのろまな奴隷を鞭打つ為だろう。鞭打たれた者の悲鳴など、この男なら、波音のように聞き流しそうだ。


 興味を引かれたのは、男が口にした「アグニ」という言葉が、初めて聞いた名だったからだ。遠い属州か異国の神の名なのだろうか。


 ギリシア、シリア、エジプト等、どこの神でも取り込んできたローマには、何万柱もの神々がいる。俺が知らない神がいても、不思議ではない。


 が、男の言葉は、妙に気にかかった。コレティアも、同じだったらしい。碧い瞳が面白いものを見つけた猫のように、きらりと光る。


 男と話をしようと近づこうとする。だが、相手は、どう考えても元老院議員のお嬢様が気安く声をかけていい人種じゃない。


 慌てて男とコレティアの間に割り込もうとしたところへ、悲鳴が響き渡った。次いで、


「渡し船から子供が落ちたぞ!」

 という叫びと、堀割に向かって駆けていく人の足音。


 コレティアの動きは素早かった。

 ぱっと身を翻すと、堀割へと駆けていく。勿論、俺は後を追う。


 堀割までは数パッススもなかった。端には何人もが鈴なりになって、水面を覗き込んでいる。


 オスティアと皇帝港を結ぶ堀割には、幾つもの渡し船が浮いていた。どの船も乗客で溢れている。その内の一艘の船の上で、若い女が狂ったように身を乗り出して、水面に手を伸ばしている。後ろの男が押さえていなかったら、水に飛び込んでいただろう。


 女の手の先の水面が、ばしゃばしゃと波立っていた。子供の小さな手が見える。が、見る間に波に消えていく。


 それ以上、観察している暇はなかった。


 人ごみをすり抜けたコレティアが一番前へ出る。体を沈め、飛び込むつもりだ。


「よせ!」

 ティベリス川の流れは速い。毎年、何人もの溺死者を出している。ローマじゃ、子供だって絶対にティベリス川で泳いだりしない。ストラで飛び込むなんて、自殺行為だ。


 手加減している暇はなかった。コレティアの肩を掴んで、後ろへ引き倒す。


 その勢いを借りて、俺は堀割へ飛び込んだ。


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