4 あなたが言ったことは


 甲板は一面の白い石に覆われていた。


 甲板だけじゃない。船の周りの海にも、白い石が見渡す限り、びっしりと浮かんでいた。


 波は石の絨毯じゅうたんの下でうねり、生き物のように波打たせている。石が船体に当たる固い音がする。

 喫水線が近いので、ひょいと甲板から降りれば、海の上を歩けそうだ。


 遥か遠い北の海では氷が海に浮かんでいると噂に聞くが、こんな感じなのだろうか。


 風は相変わらず強い。船倉の淀んだ空気の中にいた俺には心地よい。打ち寄せる波は絨毯を解こうと、端から石をさらっていく。


 太陽はぼんやりとした輪郭しか見えず、砂嵐の中のような、くすんだ光が差していた。


 空はやけに暗い。午後を飛ばして宵が来たようだ。石を降らせている灰色の雲が、頭上に広がっていた。雲は湾全体を覆うように広がり、ストレントゥム半島の上にまでかかっている。


 ウェスウィウス山の噴火は治まることを知らぬようだった。天へ昇る柱は、更に高くそびえ、太さを増していた。色は、茶色から黒へと変化している。

 柱の頂上の笠は、風を受けて南東へ広がっていた。笠の周りには、渦巻く黒雲が立ち込めている。


 不意に、黒雲を裂いて赤い稲妻が走った。

 間を置かず、固い板を裂くような雷鳴が鼓膜を震わせる。赤く眩しい雷光は、空の血管が剥き出しになったような不気味さだ。


 俺は一歩を踏み出した。風にあおられたフードが、ぱたぱたと耳元で鳴る。ブーツが石の中に、ずぶずぶと沈んでいく。石はくるぶしをゆうに隠すほど積もっていた。


 びょうを打った靴底の下で、幾つかの石が重さに負けて割れる。乾いてひび割れた骨を踏み砕くような嫌な感触だ。

 足を取られないように気をつけて歩きながら、俺は、船がどれほど流されたのかと、頭を巡らせた。


 幸い、それほど流されていないらしい。カプレアエ島の二つのこぶも、ストレントゥム半島の中心を通るラクタリ山脈も、はっきりと見える。


 対して、湾内の海岸は、ぼんやりとしか見えなかった。目を凝らすと、海岸の町々や別荘にも、海の上と同じく石が降っている状況が見て取れた。


 八月の今は、どの別荘も主人や客人達を迎えているはずだ。石の雨は、美しい庭園やテラコッタ製の屋根瓦を無残に打ち壊し、持ち主を震え上がらせていることだろう。

 おぼろに見える町々や別荘は、恐怖に身を縮め、鳴動を続ける大地しがみついているようだった。


 勇気のある幾人かは、石の降り注ぐ別荘の中で圧死の恐怖に怯えるよりも、逆風の中を海へ漕ぎ出す方を選んだらしい。


 湾の中には、避難する何艘かのガレー船が見えた。

 金持ちの自家用船だろう。大きさ次第では何百人ものぎ手の奴隷が必要なガレー船を持てるのは、軍と金持ちくらいだ。

 帆船と違い、ガレー船は順風なら帆、逆風なら奴隷が漕ぐかいと、臨機応変に使い分けられる。


 昔は海賊のガレー船が地中海を荒らし回ったそうだが、百五十年前にポンペイウスがわずか三ヶ月で海賊を根絶やしにして以来、海賊の脅威を感じる事態は、ほぼなくなっている。


 俺は船縁まで進むと、桶に石をすくい上げ、船の外へ放り出した。

 何度かその動作を繰り返しただけで、全身が汗みずくになった。真夏にパエヌラを着ているのだ。当然の結果だ。テュニカを絞れば、水たまりができるだろう。


 気が滅入る作業だった。

 小降りになったとはいえ、依然として石は降り続いている。

 乾いた音を立てて体に当たった石が、甲板の上に落ちて、すくった端から石の絨毯を修復していく。

 俺と船長の手だけでは、とうてい追いつきそうにない。スプーンで池の水を掻き出そうとするようなものだ。


「船長。こいつは、もっと人手が要る」


 俺は額の汗を拭い、船倉の水主達を呼んでこようときびすを返した。

 直後、俺は一艘のガレー船に気がついた。


 金持ちが船遊び用に作ったのだろう。美しい船だった。

 長さ二十パッスス程の細身の船体は赤く塗られ、金色で凝った意匠が施されている。一段櫓いちだんろの櫂まで、黄色に塗られていた。かりの首のように高く巻き上げられた船尾の優美さには設計者のこだわりが感じられる。


 逆風なので、畳んだ帆を留め金で吊り下げた横木は、帆柱の下の台座に置かれたままだ。その帆も、濃い赤で染められていた。


 ガレー船の甲板の下から漕ぎ手達の拍子をとる太鼓の音がくぐもって聞こえてくるほどの距離しか離れていない。


 船の持ち主だろう、甲板に立つ立派な服装の三人の男も見える。誰が持ち主かはわからないが、三人とも裕福なのは瞬時にわかった。


 年齢は三人とも四十歳から五十歳の間。青いテュニカのやや背の低い男と、房飾りのある白いテュニカの男は、二人共がっしりした体つきで、いかにも軍の司令官らしく見える。


 もう一人の、背の高い引き締まった体の男は、赤いテュニカを着ていた。つややかな光沢の生地は、おそらく絹だ。赤いテュニカの男は、ガラテア号の方へ背を向けている為、顔は見えない。


 赤いテュニカの男は、噴火を続けるウェスウィウス山を大仰な身振りで示し、何やら熱弁を振るっているようだ。


 やがて赤いテュニカの男が、残りの二人を促して、船室へ入っていった。動けず困り切っているガラテア号など、道端の石ころと同じく、目にも入っていないのだろう。


 息のそろった櫂が海面に入るたび、白い水飛沫が跳ね、美しい波紋を描く。

 尖った船首の両側に白い泡が渦巻いて、荒れた海をものともせずに切り裂いていく。

 勢いよく櫂を漕いで通り過ぎて行く様は、船の見事さと力強さを見せつけられているようだ。


 落とし戸の方角で石を踏みつける音が響き、俺はガレー船から視線を外して、振り返った。


 ブーツに履き替え、パエヌラをまとったコレティアが、ありあわせの布で体を覆った水主達を後に従えて、甲板に上がっていた。


 コレティアにしてはゆっくり船倉にいると思ったら、水主達を叱咤激励していたらしい。


 桶を手に、石を踏んで俺の横まで来たコレティアは、遠のいていくガレー船を見やって、形良い眉をひそめた。


「海へ逃げられない人達は、陸伝いに逃げているのかしら」


 俺の返事を期待している訳ではないのだろう。小さな呟きだった。


 海の上にいる俺達は、これでもまだ運がいい部類だろう。海岸の町々では、一体どんな恐怖と混乱が満ちていることか。


 だが、神ならぬ人の身でできるのは、自分と周りの何人かを守ることだけだ。


 俺はもう一度、ウェスウィウス山を仰ぎ見た。耳へ届く轟音は、火山のものなのか、大地が揺れ動いているせいなのか、判断がつかない。おそらく両方なのだろう。


 山の上空では、相変わらず血のように赤い稲妻が閃いていた。その都度、板に斧を叩きつけるような、ばりばりという破砕音が響く。


 風は体にぶつかってくるが、涼を感じる余裕は全然なかった。


 不意に、火口からどす黒い霧が溢れ出した。山肌を滑り落ちて、沿岸の町へと襲い懸かっていく。


 この世の終わりのようだという感想が、頭をよぎった。だが、口には出さなかった。


 少なくとも、俺もコレティアも、生きてローマへ帰る気でいる。それに、護衛なら、客の前ではいつも落ち着き払っているべきだ。


 感傷的な考えの代わりに、俺は別のことを口にした。


「俺は、船倉にいるように言ったはずだが」


「あなたが言ったのは、ソックルだと危ない、ってことだけよ」

 コレティアはブーツを履いた足で、これ見よがしに石の絨毯を踏みつける。


「それに」


 コレティアは手にした桶に石をすくい上げると、俺を見て、すこぶる明るく笑った。


「私、楽しい作業から仲間外れにされるのって、大っ嫌いなの」


 コレティアが勢いよく放り投げた石が、綺麗な放物線を描いて飛んでいった。


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