3 武勇伝の記念品には地味すぎる


 窓一つない船倉は、戸を閉めれば昼でも暗い。コレティアが点けて壁の釘に掛けたランプが、頼りない光を放つだけだ。


 十人近くが座り込んだ船倉は汗と潮の匂いと熱気に満ちていた。微かに香辛料の香りもする。積荷の中の胡椒や、カルダモン、シナモン等だろう。個人的にひと稼ぎしようと、俺も少し仕入れて荷物の中に入れている。


 荷をたっぷりと積んでいるので、船倉の空いている場所は、さほど広くない。激しい揺れによろめくたびに、誰かにぶつかる。揺れるランプに照らされた黒い影が躍る様は、イシス神殿の狂乱的な舞踊のようだ。


 水主達は不安そうな顔で天井を見上げていた。嵐の経験なら嫌というほどあるだろうが、石の豪雨に遭ったのは初めてに違いない。


 積荷のアンフォラや樽は、嵐でも荷崩れしないように、隙間にわらを詰め込み、山羊の毛を撚り合わせた縄で、しっかりと縛られている。特に高価な品物が入っているものは、むしろでくるまれていた。


 ぴったりと寄り添い、堅牢な様子は、敷石で隙間なく舗装されたローマ街道を連想させる。


 対して、船倉の隅に置いてある俺やコレティアの荷物は、毎日の使用の為に、適当にしか縛っていない。青銅製のカップが落ちて、揺れに合わせて跳ねるように転がった。

 重い音を立てて床を転がり、船倉の壁や水主の足に当たったかと思うと、返す波で、また別の物へぶつかっていく。くるぶしを強打された水主が、ギリシア語で忌々しそうに叫んだ。


 ひときわ大きな揺れが押し寄せる。俺はびょうを打ったブーツで床を踏みしめ、よろめきそうになるのをこらえた。


 石は依然、ガラテア号に降り続いている。絶えることなく響く鋭い音は、幾つもの太鼓を狂ったように叩いているみたいだ。


 耳を澄ませば、船がきしむ嫌な音も切れ間なく聞こえる。恨みがましい軋み音は、冥界の亡霊が呼び招く声のようだ。


「怪我はないか?」


 ランプの側にいるコレティアに近づいて尋ねる。コレティアは、手の中の物から視線を上げて頷いた。


「あなたのおかげでね。お礼を言うわ」

「礼なんか、いいさ。客を守るのは当然だ」


「多少の怪我は父の想定内よ」

 コレティアが悪戯っぽく笑う。


 コレティアの父親はシリア総督、ケリアリスだ。俺はケリアリスから、シリア属州の州都アンティオキアから首都ローマまでのコレティアの護衛を引き受けていた。


「俺は、信用を落とすようなことはしない」


 しかし、娘の怪我が想定内とは、豪胆というべきか、娘の性格をよくわかっているというべきか。

 まさか、俺を信用していない訳ではないだろう。娘と二人旅をさせるのだから。


「あなたの怪我は?」


 コレティアの碧い目が俺を見つめる。俺は軽く肩をすくめた。袖なしのテュニカからむき出しだった腕の皮膚があちこち切れて、ちりちりと痛んでいる。が、大した怪我じゃない。


「これくらい、めときゃ治る」


 俺はコレティアの手の中に目をやった。

「そいつは、さっき降った石だろ? そんなに面白いものなのか?」


「ええ。火山から降って来た石なんて、珍しいもの」

「甲板に行けば、嫌ってほど拾えるぜ」


「あなたも一つ持って帰る? 武勇伝の記念品にするには地味だけど」


 コレティアは笑って言うと、今まで観察していた石を俺に放ってよこした。片手で受けて、視線を落とす。


 軽い石だった。大きさは子供が手を握ったほどだ。白っぽくて、あちこちに気泡がある。両端は鋭く尖っていた。

 これで重かったら、無事では済まなかっただろう。


 体中を石に打たれた時の衝撃を思い出して、俺は小さく安堵の息をついた。罪人でもないのに、石打ちの刑で死ぬのは、ごめんだ。


 梯子段の近くで低い呻き声がした。意識を取り戻したレンドロスが、後頭部をさすりながら起き上がる。コレティアを認め、憤然と文句を言おうとして、やめる。 ケリアリスから渡された破格の船賃を思い出したらしい。


 だが、ひとこと文句を言わずにはいられなかったようだ。


「ひどいですぜ、お嬢さん。後ろから蹴り倒すなんて」

「女を馬鹿にした船長が悪いのよ」


 コレティアは悪びれた様子もない。水主達の間から失笑が漏れる。俺は船長の名誉の為に、口を引き結んで笑いを堪えた。


 コレティアは、涼やかな声で報告する。


「帆を畳んでで錨を下ろしたわ。この高浪の中、岸まで流されて激突したら一巻の終わりだもの。今は、ウェスウィウス山から降ってくる石から避難中よ」


「お嬢さんに、見事に船長の代わりをされちまったってわけか」


 レンドロスは頭を掻いて苦笑した。怒りはどこかへ行ったらしい。まだ少しふらつくのか、頭の後ろを押さえて首を振る。


「しっかし、ウェスウィウス山が火山だったとはな。オレも長い間、この辺りの海を航海しているが、こんなことは初めてだ」


「俺も知らなかったさ」

 俺は肩をすくめた。


「一五〇年前のスパルタクスの反乱で、奴等がウェスウィウス山に立てもった時には、既にウェスウィウス山は緑に覆われていたんだろ? 誰が火山だなんて思うもんか」


 俺はネアポリス湾に入った時に見たウェスウィウス山の様子を思い出していた。


 真夏の陽光を受けて、滴るように輝いていた緑の木々。裾野の畑の作物はオリーブや葡萄ぶどうだろう。噴火のせいで、オリーブも葡萄もおそらく全滅だ。


 俺は小さく舌打ちした。しっかりした味わいのカンパニア産の葡萄酒は、俺の好きな葡萄酒の一つなのに。


「でも、ウェスウィウス山が火山だと知っている人もいたのよ」


 コレティアが自分の荷物の中の旅行用の文書箱を示しながら、口を開いた。


「ストラボやディオドロス・シクルスが書いているもの」


 コレティアの荷物を運ぶのを手伝った俺は、その中に幾つも旅行用の文書箱があったと知っている。

 が、中身がそんな本だとは、予想外だった。熱心に読んでいたから、さぞかし面白い喜劇か詩だろうと思っていたのだが。


「今日、噴火することまでは誰もわからなかったでしょうけどね」


「ウルカヌスが怒ったのかもな。貢物が少ないって」


 俺は笑ってうそぶいた。


 昨日、八月二十三日は、火の神ウルカヌスの祭日ウルカナリアだ。町々では、ウルカヌスに捧げる為に、生贄いけにえの魚が燃え盛る祭火へ投げ込まれたことだろう。


「アプロディーテが浮気したのかもな」


 ギリシア人のレンドロスが、にやっと笑った。ウルカヌスは、ギリシア神話のヘパイストスと同一視されている。ヘパイストスの妻、アプロディーテが軍神アレスと浮気した神話は有名だ。水主達の間に、笑いが起こる。


 俺は片手を挙げて、それを制した。視線を天井に向ける。


「音が変わったな」

「勢いは少し弱まったみたいね」


 コレティアが俺の脇へ来て、同じように天井を見上げる。甲板に鋭く当たっていた石の音が、くぐもった音に変わっていた。石の上に石が降り積もっているのだ。


「このまま沈没しないだろうな?」

 水主の一人が、悲愴な声を上げた。


「沈没なんてしない」


 不安が他の水主達に広がる前に、俺はきっぱりと否定した。船を棺にこのまま海の底へ沈むなんて、考えただけでぞっとする。


 とはいえ、甲板は石で埋まっていると思って間違いないだろう。


 俺は手の中の石に目を落とした。軽い石とはいえ、大量に降り積もれば、どれほどの重さになるか、皆目わからない。


 甲板を支えているはりが保つかも心配だ。船は相変わらず波に翻弄されて揺れている。木が軋む低い音は、波と石の重み、両方に対する不満か。


「俺が甲板へ出て、石を海へ落としてくる」

「私も行くわ」


 さっさと梯子段へ歩き出したコレティアを、腕を掴んで止める。


「あんたは駄目だ。ソックルだと危ない」


 コレティアが履いているのは、かかとのないサンダルだ。

 旅行用に仕上げられた、しっかりした造りとはいえ、石で埋め尽くされた甲板を歩くのは、あまりに不用心だ。この靴でよく甲板を走れたものだと感心する。


「大丈夫よ。ブーツもあるわ」


 そういう問題じゃない。だが、止めても無駄に決まっている。下手に刺激して、船長みたいに後ろから蹴られるのは真っ平だ。


 俺は黙ったまま、自分の荷物からパエヌラを引っ張り出した。冬や寒冷地での旅に着るフード付きの防寒着だ。厚手に織った羊毛製で、長い毛足が逆立っている。


 まさか、真夏にこれを着る羽目になるとは思わなかった。


「わしの船だ。わしも行こう」


 ありあわせの布をまとって防護服にしたレンドロスが、気負った表情で立ち上がる。


 俺は船倉の片隅に転がっていた桶を手にすると、梯子段を登り、片手で落とし戸の厚い板を上げようとした。しかし、石の重みで板はびくともしない。


 梯子に両足を踏ん張ると両手で落とし戸を押し上げた。


 積っていた石が滝のように落ちてきて、肩に当たる。幾つかが足元で割れて、白い土埃を立てた。


 手近にいた水主に、コレティアを甲板へ上げないように頼んで、俺とレンドロスは梯子段を上った。


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