5 じゃじゃ馬娘の帰還
「コレティア! おかえりなさい!」
コレティアの姿を見るなり、フラウィアは立ち上がった。歩み寄ると、遠くシリアから帰ってきた娘を抱き締める。
フラウィアは既婚女性らしい落ち着いた灰色のストラと、同色の
「ただいま、お母様」
コレティアも、母親を抱き締め返した。女性にしてはすらりと背の高いコレティアに対し、フラウィアは娘より頭半分ほど低い。
俺が密かに驚いたのは、フラウィアの髪がほとんど白く染まっていたからだ。
フラウィアは、二ヶ月前に七十歳で崩御したウェスパシアヌス帝の実の姉だ。当然、七十歳は超えている。
現皇帝ティトゥスにとっては、叔母にあたる。
フラウィアは十七歳のコレティアの実の母親としては、明らかに年を取り過ぎている。が、俺は内心の疑問を押し隠して、母娘の再会を見守っていた。
長旅の後にも拘わらず、娘が生気にあふれていることを知ったフラウィアは、
「二か月前にアンティオキアへ旅立ったと思ったら、もう帰ってくるなんて! いったい何をしてお父様を呆れさせたの?」
ケリアリスがティトゥス帝にシリア総督に任命され、コレティアを連れて州都アンティオキアへ旅立ったのは、二か月前だ。
ローマには幾つもの属州があり、ローマから派遣された総督が統治しているが、皇帝領エジプトを除いて、属州は元老院属州と皇帝属州の二種類に分けられる。
元老院属州とは、ローマの属州になって久しく、また安全保障上も、軍団駐屯の必要がないと判断された属州だ。
ギリシアや、カルタゴがあったアフリカの地中海沿岸等、もともと文明化されていた地域が多い。
元老院属州には、元老院で選ばれた総督が派遣される。任期は一年限り。
対して、皇帝属州は、ひとたび住人の反乱や蛮族の侵入が起きれば、たちまち前線に早変わりする属州だ。
勿論、ローマ軍が駐屯している。蛮族の居住地と接する、
皇帝属州の総督は、皇帝自らが任命する。
何かあれば軍を率いて対処しなければならない為、また、そうした事態を起こさない為にも、優秀な人物が選ばれる。任期が何年にも及ぶ事態も、珍しくない。
母親の言葉に、コレティアは子供っぽく唇を尖らせた。
「お母様ったら、ひどいわ。何かしたのは私じゃなくて、パルティアよ」
パルティアは長年、ローマの敵国と見なされている。とは言え、ずっと戦争をしているわけではない。
ローマ暦七〇〇年(紀元前五三年)と七一七年(紀元前三六年)に、二度にわたってパルティアに敗北したローマは、百年前、アウグストゥス帝の時代にパルティアとの間に平和条約を結んだ。
だが、勝って支配するか、負けて屈従するかという考えのオリエント人相手では、平和条約も心許ない。
ローマは対パルティアの包囲網を形成し、いつ敵に変わるかもしれないパルティアに備えた。北はローマの同盟国であるアルメニア王国、西はシリア属州、南はユダヤ属州と皇帝領エジプトが担当する。
この包囲網の問題点は、北のアルメニア王国だった。
アルメニアは言語も生活習慣も、パルティアを盟主とするペルシア文化圏に所属する。その為、アルメニアを自分の領土だと考えるパルティアは、しばしばアルメニアに軍を進め、パルティアの息が掛かった人物を国王に据えようとする。
親ローマの人物をアルメニア国王に即位させているローマが、これを許すはずがない。ローマとパルティアとの小競り合いは、いつもアルメニアが舞台となるのだった。
蛮族相手と異なり、パルティアは先進国である。パルティア在住のギリシア人商人を通じて入ってくる東方の交易品は、ローマにとって魅力的であり、国境を閉ざして活発な交易を阻害するわけにもいかない。
それがパルティア・アルメニア問題の難しい点だった。
だが、ネロの治世以来、パルティアとは良好な関係が続いていた。ネロが王冠を授けて、ローマが承認したという形式を採ることを条件に、パルティア国王ヴォロガセス一世の王弟ティリダテスがアルメニア国王に即位したからだ。
「パルティアで、不穏な動きがあるらしいの。それで、お父様にローマへ帰されたのよ。戦場になると危ないからって」
コレティアは、遊びの約束を
弟をアルメニア国王として認めてもらったことに恩義を感じ、親ローマだったヴォロガセス一世が亡くなったのは、去年だ。
後を継いだのは息子のヴォロガセス二世だが、叔父のパコルス二世もパルティアの王位を主張しており、国内は安定していない。
パルティアがアルメニアに侵攻するのは、パルティア国内の諸侯へ権威を示したい時か、ローマ皇帝の力が弱まったと判断した時かのどちらかだから、ローマが新皇帝ティトゥスに変わり、パルティア国内が安定してない今、侵攻の条件は整っている。
もしパルティアがアルメニアへ侵攻した場合、対するのはシリア駐屯の三個軍団の指揮を託されている総督ケリアリスだ。
フラウィアは軍人の妻らしく気丈に微笑むと、コレティアをなだめた。
「それは、お父様が正しいわ。男性が戦争へ赴く時、後顧の憂いがないように努めるのが女性の役目ですよ」
「どうして女性は軍に入れないのかしら。入れたら、私もお父様と一緒に戦うのに」
コレティアがとんでもないことを言って、ローマの軍制を嘆く。
俺は司令官の印である緋色のマントをつけたコレティアが、金髪をなびかせながら大軍を指揮している姿を想像した。
まさに戦いの女神ミネルウァだ。
万が一、希望が叶えられる事態になれば、コレティアなら本当に指揮しかねない。
娘の嘆きはいつものことなのか、フラウィアは眉一つ動かさなかった。
「変えようのないことを嘆いても、仕方がないでしょう。それより、あなたにできることの話をしましょう。あなたが放りっぱなしにしてシリアへ行ってしまった縁談の話とか」
「お母様。私、喉が渇いたわ。何か飲みましょうよ。ルパスもお母様に渡す物があるらしいし」
コレティアは、ぱっと母親から身を離すと、空いている椅子に腰掛けた。
フラウィアは苦笑しながら、奥の椅子へ戻る。部屋の隅に控えていた侍女が、飲み物を用意する為に慌てて出ていった。
「どうぞ、あなたもお掛けなさい」
フラウィアが俺にも椅子を勧めてくれる。俺はできるだけ丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございます、奥様。どうか見苦しい姿をお許し下さい」
髪には念入りに
「よろしければ、先にケリアリス総督から預かった巻物を、お渡ししたいのですが」
「いただきましょう」
俺はフラウィアに、ケリアリスから託されたパピルスの巻物を手渡した。中には、コレティアをローマへ帰した事情や、俺に支払われる報酬等が書かれているはずだ。
フラウィアが巻物に目を通している間に果物と飲み物が出てきた。よく熟れた
巻物を読み終えたフラウィアが顔を上げた。
「あなたがアンティオキアからローマまで、コレティアの護衛をして下さったのね」
フラウィアは眉を寄せ、気遣わしげな表情で俺を見た。
「コレティアに怪我をさせられなかった?」
さすがコレティアの母親だ。娘の性格を、よくわかっている。
「大丈夫よ。ルパスはちゃんと避けたから」
無花果を口に運びながら、顔も上げずにコレティアが、しれっと言う。
「そうでなかったら、護衛なんか断固させないもの」
俺がコレティアの護衛を任された理由は、勘の良さによる。アンティオキアで、ケリアリスが護衛の募集をしているのを偶然、見掛けて応募した時、俺だけがコレティアの不意打ちの蹴りを避けたからだ。
他の応募者は全員、レンドロスのように気絶した。
「ああ、ユノー様!」
フラウィアは女性と結婚の守護神である女神ユノーの名を呼んで嘆いた。
「まったく。クィントゥスが幼い頃から任地へ連れて行って育てるから、年頃になっても娘らしくない子になってしまって……」
嘆きつつも、フラウィアの口元には、どこか楽しそうな笑みが浮かんでいる。
クィントゥスは、ケリアリスの個人名だ。任地へ赴く元老院議員の中には、妻子を伴う者も少なくない。
俺は、コレティアの性格は育て方というよりも、生まれつきのものだと思っている。
とはいえ、俺ごとき平民が元老院議員夫人に意見できるわけがない。大人しく黙っておいた。
代わりに、ミントティーを飲む。蜂蜜入りだった。甘味と清涼感が体にしみわたる。
コレティアの為にあらかじめ作って冷ましていたのだろう。暑さに渇いた喉には、ありがたかった。
「私もお父様の巻物を見てもいいかしら?」
無花果を食べ終えたコレティアが、手を伸ばす。フラウィアは一瞬、迷う素振りを見せたが、結局コレティアに巻物を渡した。
コレティアが巻物を読んでいる間に、フラウィアは家令の解放奴隷を呼びつけた。小声で指示を出す。
家令が俺に視線を走らせて下がったところを見ると、おそらく俺への報酬を用意するように言いつけたのだろう。
報酬さえ貰えば、仕事は完了だ。俺は浮き浮きしながら、無花果に手を伸ばした。
もう、好き勝手に動くコレティアを追い掛けなくてもいい。
コレティアは巻物を熱心に読んでいた。ちらりと見えた箇所には、せっかくローマへ戻るのだから、この機会に縁談を進めるように。コレティアの説得は母であるお前に任せる云々と書かれていた。
コレティアは十七歳だ。元老院議員の娘としては、もっと早くに結婚していてもおかしくない。
黙っていれば、女神かと思うほどの美貌だし、なにより、結婚すれば皇帝と縁続きになれる。野心家にとっては魅力的だろう。それに、ケリアリス家は裕福なようだ。持参金も、たっぷりついてくるだろう。
だが、どんなに想像力を駆使しても、コレティアが大人しく一家の女主人に納まっている姿は想像できなかった。
緋色のマントをたなびかせて、軍を率いているコレティアなら、すぐ思い浮かぶのに。
「ありがとう、お母様」
巻物をフラウィアに返したコレティアが、俺に顔を向けた。さりげなく聞いてくる。
「ルパス。あなた今夜はどこに泊まるつもりなの? ローマ生まれだけれど、家はもうないのでしょう?」
正確に言うなら、「帰れる家はもうない」だ。しかし、そこまではコレティアに教えていなかった。
母親は幼い頃に亡くしたし、親父も十一年前に死んでいる。今、生家にいるのは血の繋がらない継母と弟だけだ。親父が死んですぐ家を出て以来、会ってもいない。
「友人の家に泊まるか、駄目なら、その辺の居酒屋の二階にでも泊まるかだな」
一応、当てはある。幼馴染で、ポピディウスという男だ。家が香辛料を扱う商売をしているので、荷物の中の
俺の返事に、コレティアは嬉しそうに提案した。
「それなら、今夜はこの家に泊まらない?」
俺が答えるより早く、母親を振り向く。
「お母様。ついさっき皇帝港で、ルパスは私の代わりに堀割に飛び込んで、溺れている子供を助けたの。でも、私を家へ送り届けるのが先だからと、浴場にも行っていないのよ」
俺は居心地が悪くなって身じろぎした。荷馬車で風に吹かれているうちに消えた潮の香りが、戻ってきたような気がする。
「ルパスには、アンティオキアからずっとお世話になっているし、報酬を渡して、すぐお別れするのは寂しいわ。せめて今日くらい、一緒に夕食を食べて、別れを惜しみたいの」
俺はぎょっと目を見開いてコレティアを見つめそうになるのを、かろうじて
だが、こんな殊勝な台詞を言うコレティアは、今まで見た覚えがない。いったい何を考えているのだろう。
「ねえ、お母様。いいでしょう?」
甘えた声で言うコレティアに、フラウィアは寛大に頷いた。
「そうね。あなたがお世話になった人だもの。あなたがそう言うなら、私は構いませんよ」
フラウィアは俺を見つめて、穏やかに微笑んだ。
「では、夕食の前に、まず体を洗い流さないとね。すぐに浴場の支度をさせましょう」
「恐れ入ります」
俺は深々と頭を下げた。
裕福な元老院議員の邸宅なのだ。個人用の浴場も備えつけられているのだろう。それを使うなんて、生まれて初めての経験だ。
俺はきっぱりと心に決めた。こんな機会は、もう二度と訪れないだろう。それなら、味わえる
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