2 海面が、爆ぜる。


 船は突然の強風に、南東へ流されていた。この時季、カンパニア地方に吹くカウルスと呼ばれる北西風だ。だが、いつもより、ずっと勢いが強い。


 コレティアと俺が帆を畳む為のさくに手を掛けたのと、船長のレンドロスが船倉から飛び出してきたのは、同時だった。


 レンドロスは、頬から顎にかけて立派なひげを蓄えたギリシア人だ。赤銅色の肌は長年を海の上で過ごした男のものだ。髪と髭に白い物が混じっていたが、たくましい肉体は生半可な若者では太刀打ちできない。


 ガラテア号の中央には、一本の帆柱がそびえ立っている。さっきまでだらりと垂れていた四角帆は、風を孕んで臨月の妊婦の腹のように膨らんでいた。


「帆を畳め! 海岸へ流されるぞ!」


 水主に大声で指示を出したレンドロスが、コレティアを見て、信じられないものを見たように目をしばたいた。


「お嬢さん⁉ 危ないですぜ!」

「船が流される方がね」


 コレティアは船長に視線を走らせて、しれっと答えた。

 ヘラクレスでもない限り、一人で帆を上げるのは不可能だ。俺達に駆け寄りながら、慌ててレンドロスが水主達を叱咤しったする。


「臆病者どもめ! 女なんかに遅れを取るなんて、それでも海の男か! 祈るのは後だ! 遅れたって、神々は怒ったりしないぞ!」


 直後、レンドロスは失言の代償を払わされた。後頭部にコレティアの蹴りが決まり、甲板に崩れ落ちる。

 一瞬、ストラの裾から垣間見えた脚線美は、噴火すらかすむほど刺激的だった。


 ウェスウィウス山から立ち昇る噴煙は、更に高さを増していた。渦巻きながら成長を続ける茶色の噴煙は、少しずつ形を変えていた。風のせいだろう。上部の笠が南東の方角へ張り出している。大きく広がった笠の先端は、細かい粒子となって溶け出していた。


「帆を畳んで! 錨を下ろしなさい!」


 非文化的な手段で指揮権を手に入れたコレティアが、大声で命令を下す。


 水主かこ達は、雷に撃たれたように動き出した。二人が錨へ走り、残りが俺とコレティアの元へ駆けてくる。

 俺はその中の一人に、哀れな船長を任せた。船から落ちられたりしたら寝覚めが悪い。


 船の風上側からは、ひっきりなしに波飛沫が打ち込んでくる。先程まで凪いでいたのが信じられないほどの急変だ。


 索は、ぐっしょりと濡れていた。握りしめ、水主達と力を合わせて引っ張る。

風を孕んだ帆は、信じられないほど重かった。気を抜くと、足元がずるりと滑る。


 波頭が、獲物に牙を立てる狼のようにガラテア号を襲う。テュニカは、すっかり濡れそぼっていた。ブーツの中までびしょびしょだ。


 額に張りついた髪から汗と海水が流れ落ち、目に入る。

 痛い。だが、拭っている暇はない。


 俺達と索を引くコレティアも、ぐっしょりと濡れていた。ストラが張りついて、体の線が露わになっている。


 ようやく帆を畳んだ時、コレティアが弾かれたように顔を上げた。形良い鼻がつんと上を向く。


 不意に空が暗くなる。


 ガラテア号のすぐ先で、海が爆発した。


 降り注ぐ大量の石が、海を泡立たせる。恐ろしく煮え立ったスープのように、海面がぜる音がする。

 船が石の豪雨の中へ突っ込む。


 とっさにコレティアの腕を引いて、体の下へかばう。

 腕の中から、淡いが、芳しい香りが立ち昇った。コレティアがつけている香水だ。

 華やかな薔薇の香りを基調に、しっとりと気品のある百合や、甘くスパイシーな茴香ういきょう等、幾つもの香料を調合した奥行きのある香り。


 頭に肩に腕に足に、石の雨が降り注ぐ。甲板に落ちた石が固い音を立てて跳ね返る。百人の踊り子が甲板で一斉に踊りだしたようだ。


 尖った石の先端が皮膚を裂く。が、当たった時の衝撃は、それほどでもない。


 コレティアはたっぷりとひだを取っていたストラの留め金を手早く外し、余った布を頭に被ると、俺の胸元から飛び出した。


「船倉へ入りなさい!」


 コレティアが、先程レンドロスが出てきた開きっ放しの落とし戸を指差す。水主達が腕で頭を庇って、我先に逃げていく。


 途中で、甲板に転がっていた石を拾い上げたコレティアが、真っ先に船倉へ身を躍らせる。

 水主達が続き、殿軍しんがりを務めた俺は、梯子はしご段を降りながら落とし戸を閉めた。


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