碧い瞳のミネルウァ ~古代ローマ謎解き活劇譚~

綾束 乙@4/25書籍2冊同時発売!

第1章 天に昇る炎 紀元79年8月

1 天を掴む巨人の手


 耳をつんざかんばかりの轟音ごうおんが、俺の体を撃ち抜いた。


 空が丸ごと落ちてきたかと思った。一瞬、水の中へ放り込まれたように世界が無音になる。反射的に筋肉が収縮し、体を固くして、次の衝撃に備える。


 熱風が俺を消し飛ばそうと、襲いかかる。

 衝撃が脳天まで駆け抜ける。汗で濡れていたトゥニカが更に肌に押しつけられる。向かってくる風は、かまどから吹き出したように熱い。


 思わず閉じそうになる目を、奥歯を噛み締めて見開いた。拳を握り締め、強張った体に活を入れる。怯えている暇はない。俺には守るべき少女がいる。


 白いストラを着たコレティアへ手を伸ばす。

 だが、コレティアの反応は、俺の予想の斜め上を行っていた。


「邪魔よ! どきなさい! 見えないわ!」


 厳しい声とともに、ぴしゃりと手をはねのけられる。音と風の嵐の中でも、コレティアは揺るぐことなく立っていた。形良い顎を昂然こうぜんと上げて、前を見る。

 天才彫刻家フェイディアスが手がけたような美しい横顔は、一度でも見れば、それきり視線を外せなくなる。


 なんとか引き剥がしてコレティアの視線を追った俺は、息を呑んだ。



 巨人の手。



 とっさにそんな言葉が頭に浮かぶ。

 つい先程まで、夏の日射しの中にどっしりと構えていたウェスウィウス山から、巨大な腕が生えていた。


 一体どれほどの高さなのだろうか。ウェスウィウス山から十ミリアリウム(約十五キロメートル)は離れているここからでも、こんなに大きく見えるのだ。

 高さは少なくとも十四ミリアリウムはあるだろう。白と黒の斑点に覆われた茶色の腕は、根元では細く、上部では大きく広がっていた。まるで、地中からもがき出ようとする巨人が、天を掴もうとしているように。


 中心の柱の周りは、黒いしまが入った白い霧の薄絹に覆われている。黒い縞が動いているところを見ると、旋回しているらしい。


 周りの薄絹が水蒸気でできているのだとしたら、中心の柱は何でできているのだろう。炎か、煮えたぎる土砂か。もしかしたら、岩も含まれているのかもしれない。


「目を開けたまま、夢を見られるとは知らなかった」

「夢想をお望みなら、脳天を一撃して昏倒させてあげるわよ」


 コレティアがさりげない口調でいい、薄く笑う。コレティアなら本当にやるだろう。


「現実逃避はやめなさい。敵前逃亡は死刑よ」


「客の前で醜態しゅうたいさらさない」

 俺は、にやりと唇を吊り上げた。


 とはいえ、相手は火山だ。敵が人間なら、大抵は何とかする自信があるが、自然が相手では剣はさほど役に立たないだろう。


 俺は腰にいたグラディウスの柄を軽く叩いた。ヒスパニア産の上質な鋼を鍛えた長年の相棒だ。剣が役に立たないからといって、大人しく死ぬつもりはないが。


「楽園にいたと思ったが、冥府に迷い込んだみたいだな」


 軽口を叩きながら、現在地を把握しようと、俺は頭を巡らせた。俺達が乗るガラテア号はネアポリスナポリ湾のただ中にいた。


 振り返れば六ミリアリウム(約九キロメートル)ほど後ろに、寝台の中の美女のようにティレニア海へ横たわるストレントゥムソレント半島が見える。

 その先に佇むのは、ネアポリス湾の宝石と称えられるカプレアエカプリ島。断崖絶壁の白い岩肌と、緑の木々の対比が目にも鮮やかだ。二つのこぶがある島の形は、小アジアで見た駱駝らくだの背のようだ。

 東端の崖の木立ちの中に見え隠れしているのは、ティベリウス帝が晩年に隠遁いんとんした別荘ウィラ・ヨウィスだろうか。


 湾内へ目を向ければ、五ミリアリウムほど先に美しく湾曲した海岸線が続いていた。真珠を連ねた首飾りのように海辺に点在しているのは、避暑用の別荘だ。

 白い壁と赤い屋根がモザイクのように寄り集まっているのはヘルクラネウム。湾岸から少し高い奥まったところに見える町並みは、ポンペイだろう。


 ついさっきまで、ネアポリス湾は真夏の午後の中に微睡まどろんでいた。ウェスウィウス山が、その巨体を震わせて咆哮ほうこうを上げるまでは。


 叩き起こされた町々は、生まれたての子猫のように震えていた。


 荒々しい高浪が、吠えかかる犬のように海岸を目指して走っていく。眩しい陽光を反射して蒼玉のように煌めいていた海は、今や不気味にうねる青黒い怪物と化していた。


 船は振り子のように揺れていた。風下側のこちらまで波飛沫が打ちかかる。激しい揺れに、内臓が体内で掻き回されている気がする。


 胃がぐぐっと迫り上がって不満を訴えた。ブーツの足を踏ん張って、揺れに耐える。


「冥府にさらわれたプロセルピナのつもり? プルートが男色家になったなんて、知らなかったわ」


 俺の言葉に、コレティアが鼻で笑った。


 コレティアの碧い瞳は、真っ直ぐにウェスウィウス山を見つめていた。

 唇は笑みの形を描いている。表情は、この異変を楽しんでいるかのようだ。


 高浪に揺れるガラテア号の甲板に両足を開き気味に立つ姿は、まるで、これから戦いに赴くミネルウァのようだ。アイギスの幻覚まで見えた気がした。たとえプルートだって、今のコレティアを冥界へ攫っていくのは不可能だろう。


「噴火は、まだまだ治まりそうにないわね。見て、噴煙が更に高さを増してるわ」


 雷のような轟音は、止むことなく鳴り響いている。まるで、空全体から放たれた不可視の雷が、すぐ隣に落ちているようだ。音の槍に鼓膜が突き破られるんじゃないかと思う。


 ウェスウィウス山から立ち昇る噴煙の高さは、二十ミリアリウムに達しそうだ。頂上が広がった形はキノコや笠松に似ている。


 腹の底を掴んで揺さぶる轟音の中でも、不思議とコレティアの声は聞こえた。


「帆を畳まないと。手伝って、ルパス」


「元老院議員のお嬢様が力仕事をする必要はないだろ。俺と水主かこ連中でする」


「生きるが死ぬかの時に、身分なんて関係ないでしょう。プルートは貴族パトリキだからって、遠慮しないわ」


 おかしそうに笑ってコレティアが身を翻す。長い金髪が軍旗のようにはためいた。


 ガラテア号はトリスキリオフォロス級だ。船倉にアンフォラを三千個も積載できる。長さは二十七パッスス(約四十メートル)、幅は七パッスス(約十メートル)ほど。


 水に強いハンノキで造られており、船尾にはかいが二つある。が、櫂を担当している熟練の水主も、甲板の他の水主も、呆然と突っ立っていた。

 メデューサに睨まれて赤銅色の像になったみたいだ。ローマで売りさばく為に荷物を十分に積んでいるので、喫水線が近い。


 海にとっては、こんな船など、子供のガラガラにも及ばない。高浪に翻弄され、ガラテア号は乱暴に揺すぶられていた。


 しかし、コレティアは甲板の上を羽根でも生えているかのように駆けていく。俺は滑らないように気をつけながら、コレティアを追いかけた。


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