第16話 未来を見せろ

 くるぶしほどの水位の小川の中に立ち、ラインハルトは目を閉ざして待ち続けていた。それほど時間はかからない。ウファの魔力が接近する速度から、ラインハルトはそう予想した。

 そして、予想通り、間を置かずにウファは現れた。

 熱に触れた水が瞬時に蒸発する、じゅ、という音が長く続く。音は次第に近づいて、ウファの魔力も間近に迫った。

 ラインハルトはゆっくりと目を開く。いまは朽ちた古城の、かつては中心を貫く大廊下であっただろう場所を流れる小さな川は、そのまま古城の正面玄関まで流れている。ウファはラインハルトと同じく小川の中を歩いてきた。その容姿は最後に見たときと同じ、炎の人形ひとがたをした怪物だった。ウファが歩む度に足元の小川の水が蒸発し、立ち上った大量の白い水蒸気が真っ赤な炎の怪人を包み込んでいる。


「来たな。」


 ラインハルトは腰の剣を抜く。パーシバル家に伝わる『聖剣』と、かつては呼ばれた剣。父から託された剣。そして、百魔剣であった剣。百魔剣位階『領主』の一振り、魔剣プレシアンを、ラインハルトは中段に構えた。


「ラインハルトぉぉぉ!!」


 炎の怪人が立ち止まり、咆哮する。声が全身を震わせ、その身から炎が飛び散り、水面に落ちる。その度、水は一瞬で蒸発し、新しい水蒸気を生んだ。


「ウファ・ヴァンベルグ」


 その言葉が、ウファに届くとは思えなかった。それでも、ラインハルトはウファの名を呼んだ。


「思い出した。そして、理解した。お前がわたしの何を罪と呼んだのか。お前が大切にしたものがなんだったのかを。」


 炎の怪人は動かなかった。まるで言葉を聞いているかのようだが、本当のところはわからない。


「自分の力を正しく使うこと。持ち得た力という『道具』を正しく使うこと。わたしはそれを理解していなかった。一方的に正しさを、わたしが正義と考える正義を執行した。それがお前を生んだ。」


 動かない怪人から、炎が滴り落ちる。小川の水は、決して水量は多くはないが、絶えることなく流れ続け、怪人の周りで蒸発を続ける。無駄なこと、無為なこと、と言い切ればそれまでかもしれない。ただ、そうして流れ続ける意味はあるのだ。ラインハルトはそんなことを思った。


「許してくれ、とは言えない。それほどのものを、わたしはお前から奪ったのだろうから。だからお前には、わたしのこれからを見続けて欲しいと思う。わたしのそばで。」


 最後まで、何にも遮られずに流れつける水はない。うねり、淀み、時に大量の熱に霧散させられ、それでも流れ続けることで、目指したどこかへたどり着く。人は、過ちからしか学ぶことはできない。それはうねりであるし、淀みであるし、障害であるだろう。だが、学ぶことはできるのだ。そうして学ぶことでしか、どこかへたどり着くことはできない。

 ラインハルトはこの戦いを通し、多くの人間を見た。自尊心に満ちたエルロン侯であり、陰謀を張り巡らせたシャドという人物であり。侵略者であったはずのオード戦士ラングルは、氏族長としての役割を全うするために命をかけた。『聖女近衛騎士隊エアフォース』は仕える聖女のためにその身を投げ打つ。元神殿騎士団長クラウス・タジティは。『紅い死神』リディア・クレイは。そして自分に学びを授けた聖女、シホ・リリシアは。

 出会った全ての人物が、出会った全ての戦いが、いまのラインハルトを作った。学び、進むこと。私怨を持たず、進むこと。起こる全てを自分の身に置き換えて受け止め、考え、進むこと。学び続けること。それだけが、自分を、周囲を、変えていくことができる。


「だから、ウファ。わたしは、お前を封じる。お前と怨讐の剣の繋がりを断ち、お前を救う!」


 喉が鳴るような音がウファから聞こえたのはその時だ。実際には猛り続ける炎が、空気を含んで燃え上がっただけだったのかもしれない。それでもラインハルトにはその音が、怨讐の炎の向こう側にいるウファが、ラインハルトの言葉を聞き遂げ、了解した音に聞こえた。だからこそ、ラインハルトは構えた剣に力を込めた。

 その瞬間、ラインハルトの頭の中を、無数の映像が流れた。どれも炎の怪人がラインハルトに襲い掛かる映像だ。ひとつひとつが僅かに異なっていて、ものによってはラインハルトが炎の拳を顔面に受けて首の骨を折ったり、燃え盛る炎を浴びて全身を焼かれたりする。その映像を見るたびに、ラインハルトの全身は、現実の痛みを訴える。魔剣プレシアンが見せる、僅かに先の未来。ラインハルトは身に襲い掛かるあらゆる痛みを受け入れて、無数に存在する未来から、ひとつのものを選び取る。

 瞬間、現実では漸く、ウファが動いた。ラインハルトは選び取った未来をなぞるようにして動く。小川から跳躍し、高々と飛び上がったウファが、白い水蒸気の帯を引きながら、ラインハルトを踏みつけにするように落ちてくる。ラインハルトはそれを、その場を一歩退くことで避ける。ウファが刹那前までラインハルトが立っていた場所を踏み潰す。盛大な水蒸気が立ち上ぼり、一瞬ウファの姿が視界から消える。

 それでもラインハルトは慌てることはなかった。。蒸発した水を補うように流れ込み続ける川面を薙ぎ払い、ウファはラインハルトの足元を狙った蹴りを放って来る。白い煙となりながら、それでも蒸発から免れた水が乱れ飛ぶ。ラインハルトはその飛沫を浴びながら身を傾けると、側宙してその蹴りを飛び越える。ラインハルトの動きに巻き上げられた水が追随して帯を引く。その雫ひとつひとつが見えるほど、ラインハルトの意識は集中していた。

 着地と同時に自分の周囲で再び飛び散る水を割いて、ラインハルトは横に倒した魔剣を降った。刃はウファの腕を捉えたが、それは防御のために立てられた右の前腕で、まるで岩を打ったかのような硬い感触が返る。見れば魔剣を受けたその場所だけ炎の色が変わり、火山岩のように黒く硬化していた。

 ラインハルトはすぐさまウファから離れる。魔剣を受け止めた手とは反対の、左腕が振り抜かれ、その拳が魔剣プレシアンを打った。強烈な力で弾かれ、重心が崩れたところで、ラインハルトの脳裏を、再び無数の映像が駆け抜けていく。同時に全身を襲う多種多様な痛み。ラインハルトは吠えた。叫びを上げながら、それでも流された魔剣を引き戻し、ひとつの未来を選び取る。

 その未来の通り、ウファは右脚を真っ直ぐに振り上げた。小川の水が帯を引き、それを蒸発させながら、炎に包まれた右脚がラインハルトの頭上よりも高く上がる。そこからラインハルトの頭を狙って、踵を落として来る。対してラインハルトは、魔剣を頭上で横に構え、刃ではなく腹を落ちてくる踵に向けて受け止める。接触の瞬間、握りを緩めることで、ウファの蹴りを受け流す。面積の多い剣の腹で受けることで、脚はその上を滑って流れ落ちる。とはいえ、高熱を発する炎そのものの脚は、魔剣を加熱し、魔剣越しにラインハルトの青みがかった黒髪を焼き、肩を、胸を、受け流した左上半身の大半を焦がした。

 痛みはあったはずだ。だが、プレシアンが見せる未来がもたらす幻視痛と相まって、どれがその痛みだったのか、ラインハルトにはもうわからなかった。だが、だからこそ、次の一手を痛みに構わず打ち出すことができた。

 蹴りを受け流したことで、開いたウファの胴へ、頭上で旋回させた魔剣を、真逆の右側から打ち込んだ。咄嗟に受ける動きはなく、ウファはその斬撃をまともに受けると、後方に飛んだ。

 生身なら致命傷だが、おそらく大した損傷はない。ラインハルトは魔剣の刃が僅かに震え、高い音を出していることと、手に返った硬い衝撃から、そのことを察する。事実、一度は水の中に倒れたウファは、すぐさま立ち上がった。一瞬、火勢が弱まったように見えたが、立ち上がると同時に再び燃え盛る。

 ラインハルトは、ウファが叫び声を上げなくなっていることに気づいた。狂ったようにラインハルトの名を呼び続けていたが、いまはその様子はない。それが何を示すのか、生身相手なら想像もできるが、いまのウファがどのような状態にあるのかもわからないでは、想像のしようもなかった。

 ただ、とラインハルトは思う。もし、この戦いを、叫び声を上げる余裕はない、集中しなければ勝てない、とウファが考えているのであれば、それは怪物の思考ではない。剣士の思考だ。

 それは、ラインハルトの希望でしかないのかもしれない。しかし、違う、とも言い切れない。もし、ラインハルトがいま考えている通りの変化が、炎の怪人の中で起こっているのだとすれば。ラインハルトは思う。自分の考えは、は、勝負するに値する。

 ラインハルトは魔剣プレシアンを一度振った。それで微弱な振動を止めると、次の映像が流れ始める。だが、そこに、ラインハルトが最も求める未来はなかった。


「まだだ……」


 全身を激痛が襲う。それは最早問題ではない。満身創痍のラインハルトはたったひとつ、必ず見えるはずの未来を求めていた。


「未来を見せろ、プレシアン。わたしはそれを掴んでみせる!」

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