第15話 青vs蒼

 地の利は、あった。乱立する森の木々の間で戦うには、重たい鎧を身につけた彼らの動きは鈍重すぎた。


「凍土を渡る風!」


 聖女近衛騎士隊エアフォースの一員にして聖女シホの密偵という懐刀ふところがたなであるイオリア・カロランは、湾曲が強い紺青こんじょう色の刃を持つ剣を介して、魔法を行使する。凍てつく風が伸ばした刃の先から吹き出し、刃の先にいるものの動きを奪うように足を、手を、氷付けにしていく。そうして動揺した相手の背後に周り、鎧に覆われていない首筋を手刀で撃ったり、抜手で鎧の隙間から、脇の下の急所を撃つなどして、次々に神聖騎士団の騎士たちの意識を奪っていった。


「シホ様が悲しまれますから。ここで眠っていて下さいね。」


 古城でラインハルトと『怨讐』が激突した場合、何が起こるかはわからないが、これ以上、古城に近づくことは危険である。そういう距離に踏み入ろうとした神聖騎士団の一個小隊総勢二十名の最後のひとりを戦闘不能にしたイオリアは、倒れた騎士の耳元で囁いて、立ち上がった。

 元々は落ち合って、オード戦士団も合わせて対処する予定だったルディの魔力の気配も、イオリアと同じく小さくなりつつあった。あちらの首尾も問題なかったのだろう。


「さて……」


 イオリアは紺青色の刃を鞘に納める。魔剣グラス。冷気を操る位階『兵士』の百魔剣だが、本来は二本一対の百魔剣である。熱波を操る魔剣フラムがないいまは、最低の位階である『兵士』ほどの実力もないかもしれない。

 それでも、であれば、こうしてシホの役に立つことができる。百魔剣を握るために、イオリアは比喩ではなく、血を吐くほどの努力をしたが、その意味はあった、と思う。

 姉と共に神殿騎士団の末席に叙されたのは、シホの意向だったと聞いた。騎士見習いとしてシホの側仕えをしていた自分たち姉弟きょうだいにとってそれは、元々の身分……父親のわからない娼婦の子どもという身分からすれば、信じられない厚遇だった。教会に世俗のような階級意識は存在しない、というのは、もちろん建前でしかない。自分たちはどこまでいっても娼婦の子どもでしかないし、賤しい身分を『神に仕える』という名目で粉飾した、と思われ続けて行くのだろうと思っていた。それでも構わないと考えてもいた。

 だが、シホは、


「わたしだって、親はわからないんですよ。そんなわたしが、こんな大きな教会で、司祭様として暮らしているなんて、なんだろう、身に合わない、というか……」


 そう言って笑ったのだ。

 この人の力になりたい。この人がやろうとすることだけは、手助けしたい。イオリアがそう思ったのは、その言葉と笑顔を目にした瞬間、即ち神殿騎士団に叙された瞬間だった。

 魔剣の使い手としては、まだ未熟であることは否めない。クラウス元騎士長や、あの『紅い死神』には遠く及ばない。それはわかっている。だが、だからと言って、全てを投げ出したりはしたくない。自分にできることで、イオリアはシホの支えになる。そして、いずれクラウスや死神に並び立つような剣士になる。それがイオリアの望みだった。

 いまは、自分にできることを、確実に。猪突する神聖騎士団を足止めし、百魔剣同士の戦いに巻き込まれて彼らが死傷することを防ぐのが、いまのイオリアのできることであり、いまのイオリアの役目だった。

 剣を納めたイオリアは、撤退を開始する。途中、ルディと合流し、クラウスとラインハルトの戦闘後の退路を確保する。そのつもりだった。

 だが撤退する一歩目を踏み出そうとした時だった。イオリアは突然膨らんだ、強力な魔力に気付き、その場から跳び退いた。一瞬の静寂があり、イオリアがいた場所が氷結する。更に氷は人間とほぼ同じ太さの柱となって、人間の倍はあろう高さまで打ち上がった。


「……よく似た魔力を感じたが、力に差がありすぎたな。」


 イオリアは素早く手近な巨木の影に身を隠す。立ち並ぶ木々が、一ヶ所僅かに開けた場所。そこに氷の柱は屹立きつりつし、その柱の後ろから、声の主は現れた。

 袖も裾も胸元の合わせも傷み、薄汚れた黒い衣服。それは天空神教の神父が身に着ける黒衣だ。左目に着けた眼帯と、着崩されたぼろぼろの神父服とが、奇妙な一体感を得ている。

 そのような着衣のものが戦場にいることも目を引くが、それよりもイオリアが注視したのは、男の右半身だった。男の右半身は、そちら側だけが、明らかに凍り付いていた。黒い衣服はうっすらと白く霜が付き、顔は右半分だけが死体のように青白い。そして髪は、地毛の赤髪が凍り付き、右半分だけが青く、先端に行くほど色味を失って、白へと色を変えていた。

 男が右足を踏み出される度に、その足の周囲が凍り付く。自分の持つ魔剣グラスとは比べ物にならない、恐ろしいほどの魔力の冷気だとイオリアは察する。その魔力は、男が凍り付いた右手に握った、深い青色の刃から放たれていた。身の丈を越える長さの、分厚い両刃剣。

 イオリアは奥歯を噛み締める。百魔剣の中でも、特に強力な魔力を秘めた十本の魔剣は、位階『領主』に列席される。あの青い両刃剣はその『領主』の一振りである。魔剣フェンリル。ラインハルトの魔剣プレシアンを奪おうと、古城に押し寄せている三つの魔剣の中でも、最強の敵であることは間違いなかった。


「とはいえ、魔剣であることには変わらねえわけだ。グラス。フラムは確保したらしいからな。てめえもおれに回収されろ。」


 巨木に隠れつつ見た男の、正常な左半顔だけが喋り、笑う。かつて天空神教の牧師であったというフェンリルの使い手、シャーリン・ティネットは、人一人が振るうには過大な両刃剣を振り上げて、肩に担いだ。


「フラムが……姉さんが回収された……」


 シャーリンがその魔力を使って撃ち込んで来ない様子から、イオリアはこちらの正確な位置は悟られていないと踏んだ。だがそれでも、巨木から巨木へと身を隠し、場所を移しながら呟いてしまったのは、咄嗟であっても不用意なことだった、と口にした後に気づく。明らかな動揺が、胸を騒がせる。落ち着かなければ、と思うほどに、姉の、自分の半身である存在の顔が、イオリアの頭を占めた。


「そうらしいぜ。まあ、おれがやったんじゃあねえし、小物には興味もねえがな。ジョルジュの野郎の依頼でなけりゃあ、てめえも見逃してやってもいいが、あの野郎、細かいことにいちいちうるせえから、な!」


 シャーリンが言葉と共に、片手で蒼い巨剣を軽々と振り下ろした。魔剣フェンリルは地面に突き立ち、その瞬間、秘められた魔力の一端が炸裂した。

 イオリアは咄嗟に巨木の根本に伏せた。そうしなければ、フェンリルのその一撃で凍り付き、即死していただろう。フェンリルから放たれた膨大な氷結の魔力は、フェンリルの正面に当たる半円型の範囲全てのものを一瞬にして氷に変えた。樹齢数百年の巨木が丸々凍り付き、大地は凍土に変質した。小さな植物や石、落ち葉などは、原型を保つことができず、粉々に砕け散った。


「まあ……そういうことだ。」


 シャーリンが白い息と共に言葉を吐いたとき、甲高い音を立てて氷の巨木が全て粉砕した。イオリアが身を潜めていた木も例外ではなく、あらゆる障害物が凍てついた白い粉に変わった。高く、上空に蓋をしてもいた巨木が突然失われ、陽光が差し込む。凍てつく白い粉に陽の光が乱反射し、きらきらと美しい輝きを見せた。こんな場でなければ、目を奪われ、言葉を失う光景だったが、イオリアはすぐに立ち上がり、シャーリンと向き合った。近くに身を潜めるところはなく、強大な敵と、ただ向き合うしかなかった。


「行き掛けの駄賃ってやつだ。もらっていくぜぇ、その魔剣!」


 相手が言っていた通り、魔力では差がありすぎる。だが剣術でも、シャーリンはあの死神と肩を並べると聞く。どんな方法を用いても、万にひとつ、いまのイオリアに勝ち目はないかもしれなかった。

 それでも、退けない。イオリアは魔剣グラスを逆手に構える。


「ぼくも『聖女近衛騎士隊エアフォース』の一員だ。簡単に魔剣は渡さない!」

「へっ、そうかよ、ぼっちゃん!」


 グラスの魔力で生み出せる冷気では、手や足を一時的に氷付けにすることで、自由を奪う程度のことしかできない。元々、絶対的な冷気を纏うほどのシャーリンの魔力の前では、相殺されてしまうだろう。魔法で相手に対してできることはない。ならば……!


「侮るなよ!」


 イオリアは先に動いた。グラスの魔力を

 シャーリンが目を見張る気配があった。そうだろう。シャーリンから見れば、おそらくイオリアがはずだ。グラスの能力は冷気を宿すが、その能力をより正確に表現するならば、『冷気の風を生む』という能力だ。その力を自分に宿す形で使えば、移動速度を格段に上げることができる。比喩ではなく、『風になる』のだ。

 イオリアは一歩の跳躍で風になり、シャーリンの懐に飛び込んだ。巨大な剣の間合いの、その内側に飛び込むことで、相手の手を封じる。その読み通り、シャーリンはイオリアの姿を認めると、巨剣の腹を晒して防御の構えを取った。

 まず一撃、イオリアは青く、分厚い刃に、蒼く、湾曲した刃を合わせる。その態勢からさらに右に位置を変え、相手の左肩に一撃。これはシャーリンに上手く合わせられ、再び青い刃に止められる。だが、その反応速度は、イオリアの想定通りだった。その一撃が接触した瞬間に、イオリアはもう一段階、速度を上げた。素早く膝を折り、その場にしゃがみこむと、右足を軸にして左足でシャーリンの足を払った。

 シャーリンの両足が地を離れる。大きく体勢を崩したシャーリンが、背中から倒れる。イオリアは透かさず飛び上がるようにして立つと、倒れるシャーリンの上から追撃の刃を見舞った。魔剣フェンリルは明後日の方向を向き、避けようもない一撃。これで終わらせる。イオリアは千載一遇の機会を逃さず、逆手に握った魔剣グラスを振り下ろした。


「速い。だが、軽いなあ。」


 半ば宙を舞った姿勢のまま、シャーリンがそう言って笑った。それは余裕のあるものの笑みで、むしろ勝負を決しようとしているはずのイオリアが、背筋に冷たいものを感じた。

 その、次の瞬間だった。イオリアの全身を激痛が襲った。頭、顔、腕、足、体。あらゆる部位に、まるで無数の小さな刃に突き刺されたような痛みが走り、刺された部位からイオリアは血を吹いた。一瞬で意識が遠退く。なんだ、と思った時には、振り下ろそうとしていたグラスは手から離れて落ち、イオリアもその場に仰向けで倒れた。

 状況が全く飲み込めないまま、イオリアは薄れかけた視界の中で、きらきらと美しい輝きを見た。凍った木々が砕け散り、尚も凍ったまま、周囲を漂っている。光はその微細な氷に乱反射して美しく……


「悪かったな、ぼっちゃん。」


 光を遮るように、影が立った。


「ここはもう、おれの戦場なンだよ。死角はねえ。」


 そうか、とイオリアは理解する。この辺りを包み込む氷を、シャーリンは操ったのだ。空気と一体になったひとつひとつが、イオリアに突き刺さった。

 木々を氷付けにされ、粉砕されて隠れる場所を失くした時点で、地の利はなくなった、と思っていた。だが、それだけではなかったのだ。ここは、この場所は、既にシャーリンの支配する戦場だったのだ。


「じゃあ、グラスはいただいていくぜ。」


 そう言って、影が巨大な剣を降り上げた。ああ、シホ様。お役に立てず終いでした。イオリアの視界がにじむ。乱反射する光がさらに輝きを増し、美しい。光はシホの象徴だ。美しければ美しいほど、イオリアはシホを思い出し、何もできなかった自分の無力さを悔いた。涙が止めどなくあふれ、流れていく。流れるほど、意識も遠退いて、輝きが強く……

 変化は唐突だった。そして劇的でもあった。イオリアが失いかけた意識を取り戻すほどの変化だった。

 シホの象徴である陽光が、唐突ににごったのだ。

 イオリアは倒れたまま目を見開いた。フェンリルを振り上げたシャーリンの手が止まっている。

 陽光が差し込むようになって、明るくなったはずの森の中が、暗い。暗いというよりも、

 シャーリンが舌打ちひとつ、イオリアから離れる。次の瞬間だった。紅黒く染まった辺り一帯が、突然爆発した。倒れたままのイオリアの直上まで膨らんだ爆風は、鉄の臭気を帯びていた。それで、イオリアは気づいた。紅黒く染まっていたのは、シャーリンが作り出した微細な氷全てだ。そして、それを染め上げたのは、血。爆発、と言ってもそれは炎を伴うものではなく、氷が血に変質され、一瞬にして霧散したのだ。


「カッコいい登場じゃあねえか、死神ぃ!」


 シャーリンの叫び声が聞こえた。その声は明らかに歓喜していた。

 彼だ。彼が来たのだ。

 イオリアはよろめきながらも身を起こす。せめて、彼の邪魔にはなりたくない。それが行き掛かりでも助けられた、いまの自分にできることだから。

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