第6話 炎の怪物
エルロン侯が背にした、大人の身の丈ほどある大きな窓が、全て真っ赤に染まった。瞬間、ラインハルトはエルロン侯が不敵な笑みを浮かべるのを見たが、次に起こった爆発が、その笑みの意味も、エルロン侯自身の安否も、不明にした。
真っ赤に染まった窓が、外側から勢いよく弾けて割れた。同時に猛り狂う業火が、窓から入り込む。ラインハルトは反射的に自身が先ほどまで腰かけていた椅子に飛び乗り、踏み越える形で後退する。エルロン侯だけでなく、シャドも、あの不気味な二人の従者も、全てが炎の中に飲み込まれた。ただ、ひとつだけ、その炎と同じく、ラインハルトに向かって、一直線に迫ってくる気配があった。
「ラインハルト殿、退け!」
『僧兵』が声を上げ、両開きの扉の片方を閉じた。ラインハルトはまだ開かれたままの扉へ、滑るように飛び込むと、その扉を『死神』が閉ざした。
「立て、走れ!」
『死神』が叫ぶ。言わずもがな、立ち上がったラインハルトは、先を走る『僧兵』の後に続いて走り出す。その横を並走する形で『死神』が走る。彼の手には、既に血のように紅い刃を持つ剣が握られている。
その輝きをラインハルトが確認するかしないかの間で、再び爆発が起こった。今度は背後の扉が弾け飛ぶ。反射的に竦めた身を、走りながら振り返ると、炎の海と化した室内から、
「……ウファ。」
「ここでは分が悪い。いまは走れ、ラインハルト殿。」
ラインハルトは前を向いて走り出す。確かに『死神』の言う通り、あの炎を前にして、ここは分が悪すぎる場所だった。密閉された石造りの広い廊下。まるでそれ自体が命あるものの触手のように伸び、迫ってくる炎の動きは速い。あっという間に取り囲まれてしまえば、逃げ道などなく焼き殺される。
「力が強すぎる。」
「ああ。……シャドの仕業かもしれん。」
前を走る『僧兵』が振り返らずに言った言葉に、『死神』が答える。確かに、とラインハルトも頷く。ダキニで戦った時よりも、遥かに強い力を感じていた。
だが、そこに彼の、いや、人間の気配はなかった。
「ウファは、あれは、ウファなのか?」
ラインハルトが思わず訊くと、『死神』は少しだけこちらに視線を寄越した。
「……喰われているのかもしれん。そうでなければ、あれほどの魔力は引き出せない」
「だとすれば、もう、あそこにウファはいない。あれは
『死神』の言葉を『僧兵』が引き取る。ラインハルトは自分を罵った剣士の顔を思い出す。強すぎる復讐の念を糧に、炎の魔剣は増長し、その力をウファに還元する形で与えた。全ては自分の、自分たちの居場所を奪った貴族を、ラインハルトを討ち滅ぼすために。
「……くそっ!」
ウファに、向き合わなければならないと考えていた。ウファに向き合うことで、ラインハルトは彼を救えるのではないか、と考えていた。いや、浅はかだった自分の行いに対する償いを、一生をかけてしていく、そういう決意を彼に伝えるつもりでいた。それが自分が自分に与えられた立場という『道具』を正しく使う初めの一歩目になるし、彼にとっても、それが救いになるのではないかと思っていた。だが、これでは話す言葉すらない。
「リディアさん、クラウスさん!」
ラインハルトは顔を上げる。走る廊下の先に、少し癖のある金色の髪が揺れていた。
「そのまま走ってください。ルディが退路を確保しています!」
見る間に近づく金髪の少女は、今日は兜ではなく眼鏡をかけ、鎧ではなく最高司祭の正装である金に縁取られた白い法衣を身に付けていた。その法衣も、彼女の特徴である、見るもの全てを引き付ける美しい金色の髪も、全てが風を受けているかのように波を打っている。
ラインハルトは彼女の名を口にしかけたが、一度閉じられ、再び開いた目蓋の奥の瞳を見たとき、その言葉は言葉にならずに消えた。
眼鏡越しの瞳は、彼女の常の色ではなく、深い紫色に輝いていた。
『僧兵』も『死神』も、彼女の言葉にも、常にない気配にも、何の反応も示さなかったが、それは目配せだけでやり取りが交わされたのだ、気づいた。彼女たちからは、強い絆のようなものを感じる。
「
すれ違い様、シホが叫んだのは聞き覚えのない言語だった。後ろを見ると、シホが伸ばした手の先には短い刃が握られていて、その延長上に
輝きにぶつかった炎が、まるで壁にぶつかったように砕ける。あれは、シホが魔剣を使ったのか?
「……クラウス、先に行け。ラインハルト殿を逃がせ。」
「リディアさんも行ってください。……脱出できなくなる……」
『死神』に応えたシホの声はどこか力んでいて、途切れ途切れに聞こえた。それが輝く壁を作り出し、ウファの炎を防いでいるから、という想像はすぐにできた。
「脱出?」
「神聖騎士団が配備されています。……わたしだけなら、何とでもできます。」
「……エルロン侯の指示か。」
炎に飲まれたエルロン侯が、こうなることを予期して指示を出していたのか。ラインハルトを、ラインハルトの持つ魔剣プレシアンを、どうあってもその手に納めるつもりだったのか。炎に飲まれたいまとなっては確認のしようがなかったが、いずれにしても、エルロン侯の意思と指示は生き続けている。
「行ってください。わたしもすぐに追い付きます!」
「……わかりました、シホ様。」
言った『僧兵』と『死神』が頷き合い、『死神』がラインハルトを追い抜いた。ラインハルトも走る速度を上げる。
「……さて、がんばらないと。」
シホが呟いた年齢相応の声を、ラインハルトは背中で聞いた。
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