第5話 人が、生きているのだ

「我々には辿り着くべき未来があるのだよ、レネクルス公子殿。」


 叙事詩じょじしの一文を読み上げるように、エルロン侯は語る。ラインハルトはそんな彼の姿を見ながら、周囲にも気を配った。脱出する一瞬の隙を探すが、やはりあの眼帯の男の圧力が強い。何か、何かが変わるきっかけが必要で、そしてそれは、この部屋のなかにはなかった。


「そしてそれは、この大陸の全ての民に、あまねく繁栄を約束するものだ。」

「全ての民に……?」


 エルロン侯の言葉に反応するつもりはなかった。どう言ってもこの男とその仲間たちは、魔剣プレシアンの力が欲しいだけだと知れた。シャドというあの男が何者かはわからないが、エルロン侯の言葉をそのまま咀嚼そしゃくすれば、魔剣を手に入れるためならば、国すら滅ぼすような人物だ。その協力者と言い切ったエルロン侯も、同類の人間と考えていい。神聖王国カレリア本国の介入と、オードへの侵攻は、この男の一存であったのかもしれない。そんな人物が語る未来に、ラインハルトが思い描く未来はない。ラインハルトが『聖女』シホ・リリシアに諭され、自ら考えるようになった未来、今後、貴族という『道具』を正しく用いて、築いて行こうと考えていた未来は、そんな人物たちに語ることのできるようなものではないのだ。

 それだけに、ラインハルトは応じてしまった。反射の領域と言っていい。ラインハルトは、全ての民、という言葉に反応したのだった。

 その瞬間、ラインハルトの頭のなかを、このオード・カレリア国境紛争の中で経験した様々な事象が、対面した人物たちが、そのものたちの言葉が、怒濤どとうの如く駆け巡った。『怨讐の剣』を手にした狂気の剣士ウファ。彼がラインハルトを呪う言葉を吐き、『聖女』シホ・リリシアがラインハルトを諭した。『僧兵』がシホの言葉を強くし、『死神』が覚悟を迫った。『銀の騎士』アルスミットはラインハルトを守るために傷を負い、それでもこの身を案じてくれた。『蛮勇』であるラングルは、最期まで自分の家族を想っていた。

 全ての人々がいて、その言葉があって、ラインハルトはこの地まで導かれた。貴族として生まれた自分が、考えるべき未来を紡ぐようになるいまへと導かれた。そこには貴族も平民も、宗教勢力も傭兵も、国も国境もない。ただ、ラインハルトという幼い存在を前に進めた『出会い』であった。


「……その全ての民に……」


 ラインハルトはエルロン侯を見る目に、力が宿ることを自覚した。エルロン侯の余裕の表情が、片方の眉根を上げて訝る顔に変わる。


「あなたの言う全ての民に、市井のものは含まれているのか? 蛮族と罵られるオードの民は、雇われて戦う傭兵は、隷属から解き放たれても、行き場を見つけられなかった元奴隷は! 貴様の言う全ての民に、含まれているのか!?」


 ラインハルトは椅子を蹴って立ち上がった。長机に向かっていた異国の衣装の優男と眼帯の男も立ち上がる。にわかに膨れ上がる殺意を、ラインハルトは無視した。


「貴様の考える未来に、本当に全ての民が含まれているのなら、この戦いはなんだ!? 多くの未来を奪って得られる、全ての民に繁栄を約束する未来など、あるはずがない!」

「……大事の前の小事だ。望むものが大きければ、それだけ犠牲を払う。」

「その小事に!」


 ラインハルトは机を叩き付ける。


「……人が、生きているのだ。人を導く役割というものを持って生まれた我々には、その役割を正しく用いる義務がある!」

「雄弁だな、ラインハルト殿。」


 声は、この場にいない人物のものだった。聞き覚えのあるものであり、ラインハルトをここまで導いたひとりのものであった。誰もが声がした方、ラインハルトの背後に視線を向ける。ラインハルトも振り返り、両開きの扉を見たとき、その扉が勢いよく開かれた。


「だが、言葉が通じる相手ではないぞ。」


 黒く長い髪が流れる。その背後には、目を閉ざしたままの長身の男が立つ。


「アああ!! 『統制者』!! キてくれマしたカ!!」

「お前が呼んだのか、シャド。全く厄介な……」

「……エルロン侯ジョルジュ・ヴェルヌイユ殿。敵対しているオードの軍司を招いたこの状況、ご説明願えますか」


『紅い死神』リディア・クレイに歓喜するシャドに、エルロン侯が頭を抱える仕草を見せ、そのエルロン侯を、身分の貴賤きせんを越えてリディアの背後に立つ『僧兵』が詰問する。エルロン侯の配下と思われる二人が、各々武器に手を伸ばす気配があり、リディアも腰の剣の鞘を握り、鯉口を切った。その瞬間だった。


「ラインハルトおおおおお!」


 熱は、エルロン侯の背後からラインハルトに迫った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る