第23話 血

「エオリアっ!!」


 シホは叫びを上げてクラウスに駆け寄った。クラウスに抱き上げられたエオリア・カロランに力はなく、蒼白の顔には生命の影がなかった。


「横にして、クラウス! エオリアっ! 聞こえる!? エオリアっ!!」


 シホに言われるがまま、一切の言葉を差し挟まず、クラウスは膝を付き、エオリアの身体をそっと石畳の上に寝かせた。浅緑色の髪がさらりと流れ、エオリアの顔を覆ったが、エオリアがそれを払うことはなかった。手も、首も、身体のどこも、能動的に動くことはなかった。


「シャドだ。あの男が現れた。」


 シホが顔を上げると、クラウスはリディアに顔を向けていた。シホから数歩遅れて歩みよったリディアの視線が、クラウスの言葉を促したのだろう。

 シホは自分の下腹部が、すっ、と浮き上がるような、それをどう表現していいのかもわからない感情が沸き上がるのを感じた。恐怖とも、怒りとも違う。言えることは、シャドは自分たちの前にいたはず、という事実だけで、それがこのエオリアの状況に、何の救いにもなりはしない、ということだった。

 シホはエオリアに向き直ると、身体をあらためる。すぐに脇腹に刺し傷があることが分かり、エオリアを、クラウスを染める血は、そこから流れ出たことが


「エオリア……」


 シホの視界が滲み始める。だめだ、と律するが、溢れ出る感情の雫は抑えることができない。いま、その傷口から流れ出る血は多くない。だから、流れ出たことが想像されるだけに止まる。血を失いすぎている。シホは瞬時に判断した。先刻、ラインハルトに施したように、『癒しの奇跡』とも呼ばれる、魔法の力による身体の回復を試みる。エオリアの胸の上に右手を置き、左手は腰の鞘から抜いた魔剣ルミエルを天に向かって突き上げる。右手に感じるエオリアの身体が、冷たい。沸き上がろうとする感情を、シホは振り払う。わたしが救う。わたししか救えない。シホの右手に自分の体温とは違う温もりが宿る。シホが教会組織に見いだされた理由のひとつ、癒しの奇跡……魔力を用いた身体の回復が成されていく。だが、先刻のラインハルトのように、目に見える改善は現れない。蒼白を通り越して陶器のような白に近づいているエオリアの肌が、血色を取り戻す様子はなかった。


「だめ、エオリア、戻って! それだけは許さないっ! もう誰も、百魔剣に傷つけさせないって、百魔剣のせいで傷つく人を出さないって、話したじゃないっ!!」


 教会内部において、シホの年齢は圧倒的に若い。いっそ幼いとすら言える。同格の権力者層になれば、その平均年齢とシホの年齢の差は、さらに広がる。老獪ろうかいで、慇懃無礼いんぎんぶれいを美学とする、そうした権力者層と相対して行かなければならなかった昨今のシホにとって、聖女近衛騎士隊エアフォースの面々は、心身ともに支えであった。聖女近衛騎士隊は、シホ自らが対百魔剣戦闘を目的として創設したが、いつからかシホにとっては、家族のように思えていた。特にエオリアは、同性ということもあり、また、エオリアの性格上、シホを『奇跡の聖女』として特別扱いするようなことはせず、いつも自然体で、だからこそ、シホも彼女には女性同士として心を開いた。自分が魔剣と戦うようになった理由も話したし、聖女近衛騎士隊を創設した、そのきっかけとなった、孤独な死神の話もした。

 あの時、エオリアは笑った。いいじゃない、と。わたしはそういうの、好きだな、と。


『結局、顔も知らない大勢を守って、命張って、なんて、わたしたちにはできないのよ。それならいっそ、守りたいと思える、一緒にいたいと思える誰かがいるから、自分に使える権力でも魔力でも、何でも使って世界を救う、って方が、本当っぽいじゃない。わたしは、そういうの、好きだな。ねえ、シホ。』


 エオリアはそう言って笑った。いたずらを楽しんでいる子どものように、無邪気な笑みだった。


「エオリアっ!」


 シホは絶叫した。もうエオリアの姿は滲んで見える。涙は抑えることができず、後から後から、シホの視界にある全ての輪郭を曖昧にする。右手の先が冷たい。触れているエオリアの身体が、冷たい。


「エオリアっ!!」

「……血を、失いすぎている。」


 囁く声は、シホのすぐ横で聞こえた。ふわり、と長い黒髪が、シホの肩に触れた。


「血、だけだ。おれにできるのは。」


 シホに並んでしゃがみ、そう言ったリディアは、静かに紅い剣を抜いた。


「上手く行くかはわからんが……いまできる、最善を尽くす。」


 シホはリディアの独り言のような言葉を、その横顔を、ただ聞き、見つめることしかできなかった。何が始まる予感があり、事実、シホは先刻、ウファと対峙した時と同じ様に、リディアに向かって流れ込む魔力が起こす風を感じた。

 リディアが紅い剣の切っ先を、エオリアの傷口に添わせる。その瞬間、紅い刃の輪郭がぐにゃり、と歪んだ。鋼であったはずの剣の刃が、突然、どろりとした液体に姿を変えていた。刃が溶けたように流れ落ちる紅い液体は、不思議なことに、いくら流れても失くなることがなく、また、その元となっている剣は、剣としての形を完全に失うこともなかった。流れる深紅の液体は、エオリアの傷口に触れ、傷口を埋め、エオリアの身体全体を包み込んでいく。


「後は……お前次第だ……シホ。」


 リディアの声は掠れるような、途切れ途切れのものだった。突然、体力を消耗したのだろうことが見てとれた。

 血を失いすぎている。血、だけだ。最善を尽くす。リディアが口にした言葉を、シホは頭の中で繰り返した。そして、後は、お前次第だ、と言われたことの意味を探す。

 シホが考えたのは、僅かな間だった。


「戻って、エオリアっ!!」


 シホの右手が、紅い液体に浸かっている。その手に、シホはもう一度、魔法の力を込めた。左手の魔剣ルミエルを介して大きくなった魔力を、シホは一心に祈ることで、右手からエオリアへと流し入れた。

 エオリアの身体を繭のようにすっかり包み込んだ紅い液体が、シホの力によって内側から光輝いた。


 シホの右手が、鼓動を感じた。

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