第20話 死神の進化
リディアが紅い刃を上に向け、その腹に額を当てた。風のない市街で、リディアの長い黒髪が、緩やかに浮き上がり、舞い踊るように揺れ始める。
ん、とシホは鼻を鳴らした。目には見えないが、何が明らかに変わった。その実感があり、シホはその正体を求めて感覚を研ぎ澄ますが、はっきりと、これというものが思い当たらない。強いて言えば、それは空気の流れのようなもので、リディアに向かって空気が流れ込んでいるように感じることができた。その空気のせいで、彼の髪が
シホの全身を、唐突に襲った脱力感は序の口だった。それはすぐに、立っているのも困難なものに変わった。いったい何が、と考える前に、シホのすぐ隣でイオリアが膝をついて座り込んだ。同じ脱力感に見舞われているのか、と思ったが、声をかける余裕もない。リディアに向かって流れる空気は、より強くなっていた。
「なんだあ、こりゃあ……」
俯きかけた顔を上げて、シホは声がした先を見た。そこには炎と化したウファの姿が……
「おれの、炎が、消える……!?」
ウファは自分の手を見ている様子だった。炎の塊から伸びた手は、既に炎に包まれる前の、ウファの病的に白い肌の色に戻っている。見る間に腕、肩と、炎が消え、元々の姿へ戻っていくウファを見ながら、シホは息を呑んだ。
「無粋な炎だ。そうだろう?」
リディアが言った。その声は少しの笑みを含んでいた。相手を嘲笑うためでも、優位に立った余裕を見せつけるためのものでもない、ウファを誘い出すような声音に聞こえた。
まさか、と思った。だが、そうとしか考えることができなかった。シホはリディアが構えを変える様子を、じっと見守った。再び下段に構えられ、切っ先が下を向いた紅い刃を見た。紅い刃は、仄かに光を放っているように見えた。
この現象は、『統制者』の力によるもの。恐らく、『統制者』が周囲の魔力を引き付け、飲み込んでいるのだ。膨大な魔力を放つ得物を持つウファ、そしてシホ、イオリア、ラインハルトはその対象になり、魔剣と一体となることで身体に染み込み、身体の力と同義になっている魔力を、強引に吸い出されているのだ。
シホは二年前に目撃した、ある戦いを思い出す。それは『統制者』と百魔剣最高峰の魔力を持つ『領主』のひと振りによる戦い。その戦いの中で『統制者』は『領主』から放たれた破壊の魔力を宿した光球を受け止め、それをそのまま相手に弾き返す、という信じがたい行為をやってのけた。原理は恐らく、あれと同じことだろう。
座り込んでしまったイオリアは、どうにか立ち上がろうとしているが叶わず、元々座り込んでいたラインハルトにあっては、
そんな想像も、驚き、息を呑むシホにとっては、些細なことでしかなかった。シホは目を見開いてリディアの様子を見た。黒髪が靡いている。斜め後ろから見る限りでは、それ以外の変化はない。左頬の輪郭は一切の表情を刻んでおらず、冷酷で冷静な、普段通りの『紅い死神』リディア・クレイがそこにいた。
この現象は『統制者』の力によるもの。それが確実であるとしたら。シホはそこにある可能性の意味の大きさを噛み締める。
この現象は『統制者』の力によるもの。そうだとすれば。
リディアは、『統制者』の力を、使いこなしている。
「なかなか粋なことするじゃねえか、『紅い死神』!!」
動揺に震えたらウファの声が一転、歓喜すら
リディアは、誘ったのだ。魔剣の力を使えないほど抑え込むことで、剣士同士の、剣による戦いに。ウファという戦闘狂は、まんまとそれに乗ったのだ。
「……リディアだ。」
言って、リディアはウファに向かって踏み込んで行く。
リディアとの距離が開くと、嘘のようにシホの身体は軽くなった。隣ではイオリアが片膝を突いて立ち上がるまでに回復していた。
シホは座り込んだラインハルトに近づいて肩を貸す。イオリアも反対側に並び立って、ラインハルトを戦場から遠ざける。
激しい金属の音が、シホの目をリディアとウファの戦いに向けた。既に数度、切り結びあったであろう二人はいま、家屋の壁を蹴って高く跳躍した瞬間だった。双方共に飛び上がった空中で一太刀を振るう。金属が触れ合う音と、火花が散る。そのままお互いに別々の屋根の上に降りたリディアとウファは、屋根伝いに走り、この場を離れていく。恐らく、リディアがそうなるように仕向けていた。
シホは石畳の上に寝かせたラインハルトに向き直る。イオリア共々、身体の状態を確認する。極度の衰弱はあるが、致命傷のようなものはない。シホはその場に膝をつくと、まず倒れたラインハルトの胸の上に右手を置いた。逆の手で魔剣ルミエルを天に向かって突き上げると、右手に自分の体温とは違う温もりが宿る。シホが教会組織に見いだされた理由、癒しの奇跡……魔力を用いた回復が成されていく。荒かったラインハルトの呼吸が落ち着き、顔色に回復の兆しが見出だされると、シホは右手をラインハルトから離し、イオリアに触れた。
「イオリア、ラインハルト様を頼めますか?」
「は、はい! シホ様は……」
ラインハルト同様、顔色が良くなったイオリアが、シホの優しい問い掛けに、跳ねるように応えた。
「わたしはリディア様を追います。あの男……
イオリアが頷くのを確認したシホは、すぐさま立ち上がった。
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