第3話 大聖堂にて

 神聖王国カレリアは、大陸で二番目に広大な国土を有する。故に領土の南西端に位置するパーシバル公爵領レネクルスでの情勢が、王都に齎されるまでには、どんな駿馬を用いた伝令でも三日は掛かるとされている。


 例に漏れず、やはり一定の時間差を置いてこの日、国境警備の関所砦が消失、隣接する王国、オードが、レネクルス領へ侵攻、との一報が王都の二つの場所に伝えられた。


 一つは『白鳥城』の異名を持つ、大陸最大、最美の城、聖王城シュレスホルン。


 そしてもう一つは、大陸一統制された街並みを持つ王都の、その東側にある教会区に位置する『城』である。


 神聖王国カレリア王都には、二つの城がある。


 昨今、国の内外で囁かれるこの言葉の原因ともなっている、いま一つの『城』は、『白鳥城』に引けを取らない壮大さと荘厳さを持ってそこにあった。


「レネクルス領南西端で、国境の関所砦が陥落。同領の都市、ルートクルスまでが蛮族の侵攻を受けている、との事です」

「争いに次ぐ争い……嘆かわしい世の中ですね」


 確かに城を思わせる、化粧石で全面を装飾された、巨大な三つの神殿からなる大聖堂内の一室。天井高くまで書籍棚で埋もれた部屋で、長身短髪の男の報告を受けたシホ・リリシアは、ため息を吐きながら応じた。しかし、手元の書物からは視線を上げず、また内容もほとんど聞き流していた。


 カレリアとファラの二大国家間の戦争が始まってから二年、小国間の小競り合いや、国境近郊での衝突は、いまではそう珍しい話ではなくなっていた。いつの間にか、世界はそうした荒事を、ごく当たり前の日常として受け入れるようになっていた。


 緩く波を打つ豊かな金色の髪を掻き上げ、最近かけ始めて眼鏡を直したシホも、心には言葉ほどの憂いを宿してはいなかった。美しく、だが、同時に冷たくも見える瞳を一度だけ、眼鏡と執務机越しに報告を告げる男性に向けはしたが、すぐに手元の書物に視線を戻した。


「陥落した関所砦についてですが」


 シホのその態度に、男性は気を悪くした風はなかった。ただ淡々と、自らが行うべきを行う、いつも通りの様子を貫いていた。手には報告を文章化した物であろう書類を持っていたが、それに目を落とすことはない。それどころか、そもそも几帳面に切り揃えられた頭髪の下の双眸は、この部屋に入室して来た時からずっと、閉ざされている。瞑想でもしているかのように、ごく自然に、ずっと瞑られたままだった。


「一夜にして陥落した、との事です」

「余程の大軍ですね。聖王陛下はファラとの戦線を引き下げなければならなくなるでしょう」


 今度は視線を送ることもなく、シホは男性の言葉に、まだ十七歳という年齢に似つかわしくない、冷静な戦術評価を告げた。が、その時、押し殺したはずの感情が、一瞬、胸のどこかを内側から叩き、シホは頬が痙攣するような感覚を確かにした。この侵攻で、どれほどの一般人が亡くなったのか。それを一瞬、想像してしまった。


 東側国境にファラとの戦線を敷くカレリアが、南西端の国境を破られた、という事は、大戦中の背後を強襲された形となる。膠着しているとはいえ、予断を許さない戦況であるファラとの戦線を、南西の新興国家、オードの侵略に対応、防衛を目的とした戦線まで引き下げなければならないだろう。


 だが、その決定を行うのは、いかに『二つ目の城』と呼ばれていようとも、神聖王国カレリアの国教、大陸最大の信徒を持つ、天空神教の総本山であろうとも、この大聖堂ではなく、ましてシホ個人ではありえなかった。例え、天空神の神託によって選ばれた『奇跡の聖女』にして、教会組織最高位に位置する八人の最高司祭の一人という立場であったとしても。


 その様なことは、当然、目の前の男性は知っているはずで、さらに言えば、彼の行動には無駄が一片たりとも存在しない。始めの態度で引き下がらず、さらに情報を重ねた、ということは、わざわざカレリア南西端で起こった武力衝突を、シホに報告する必要がある、という事を示していた。


 シホは手元の書物を閉じ、視線を男性に向け、聞く意思を示した。


「砦の兵士に生き残りが幾人かいるようですが、砦陥落の状況を話す彼らの証言に、奇妙な文言が幾つか報告されています。怪我や恐慌状態による精神不安定で、まともに話せる状態にないものがほとんどで、現地ではそれらの言葉はほぼ、相手にされていませんが、奇妙な共通点がある、とイオリアが伝えてきました」

「共通点?」


 シホの整った眉が、金色の前髪の下で、わずかに上がった。執務机の上に両肘を突き、組んだ手指の上に顎を乗せた姿勢で、シホは男に報告の続きを促した。


「はい。彼らは、砦が『斬られた』と繰り返しているそうです」


 続く報告を、変わらぬ淡々とした口調で伝え終えると、手にした書類の束を、シホの机の上に差し出した。


 男が告げた言葉は、現実には信じられない世迷い言で、侵略を受け、混沌極まる状況であろう現地では、一蹴されて終わるだけの言葉である事が、シホにも容易に想像出来た。城に匹敵する巨大な関所砦を斬り付けたところで、外壁に傷が付く程度の事である。それを、敢えて『斬られた』などと表現する事は、尋常では有り得ない。


 だが、そうした『非現実』を相手にしているのが自分たちなのだ。


 シホは報告の書類には手を付けず、肘を突いた姿勢のまま、男性に問うた。


「……あなたの意見を聞かせて下さい、クラウス」


 クラウス、と呼ばれた男は、相変わらず双眸は閉ざしたまま、心持ち姿勢を正したようだった。


 もう見慣れたが、クラウスの着衣はカレリアの一般的な衣服とは異なり、また、一般的な天空神教の僧衣とも異なる。カレリアの遥か東方、軍事大国ファラのさらに東、アヴァロニア大陸東方の海に浮かぶ諸島群に住む人々が身に着ける、濃紺の民族衣装。その上に、天空神教の僧衣を羽織るといういで立ちで、腰には、やはり東方諸島群の異民族が使う『カタナ』と呼ばれる片刃の長剣を差している。いまから二年前に、大きな『非現実』との戦いがあり、その際にクラウスは両目の光を失った。それから程なくして、旅に出た彼は、一月ほど前にこの大聖堂へ戻ったばかりだった。二年近くの時間が、彼に大きな自信と、それを裏支えする力を与えた様子は、再開したシホにもわかった。


「砦は関所も兼ねております故、巨大で堅牢な作りであった、と聞き及んでいます。それをたった一夜で陥落させる程の兵力や戦術が、オードの蛮族にあるとは思えません。仮に陥落させる事が出来たとしても、一夜というのは考え難い。そこに来て、『斬られた』という表現。他の報告には、『突然、炎の柱が上がった』などというものもありました。……可能性は、あるかと」


 


 それがいったい、何に対する可能性なのかを、クラウスは口にしなかった。だが、言われたシホには、もちろんわかっていた。そしてその可能性の有無こそ、シホが聞きたかったクラウスの意見だった。


「クラウス、直ちに遠征の準備を。ルディとカーシャにも準備をさせなさい」

「では、『聖女近衛騎士隊エアフォース』を?」

「ええ。わたしも参ります」


 クラウスはすぐに踵を返し、シホの執務室を出て行った。


 二年前までは半ば書庫として使われていたこの部屋だが、シホが自室として使うようになった事で、最高司祭執務室に格上げされた。それに伴って、相応に整理整頓がされた室内だが、書籍の多さは相変わらずだった。変わったのは、この部屋の書籍のほとんどを、シホが読み、記憶した事と、最高司祭用の執務机が置かれた事、それと、整理整頓を行った際に、いま執務机が置かれているちょうど背中側に、書棚に埋もれていた大窓があり、それを解放できるようにした事くらいだった。


 クラウスが去った後、シホは椅子を引いて立ち上がると、その窓辺に身を寄せた。窓からは世界最美と賞される聖王都の街並みが一望できる。


 だが、シホの瞳は、眼鏡越しに見える街並みを映しながらも、それを見てはいなかった。瞳は、シホの中に存在する、過去の記憶を映していた。


 それは、自分が『非現実』との戦いを初めて経験した時の記憶。世界の脅威の本質を、初めてこの身で体験した時の記憶。その記憶の中に現れる、悲しい『死神』の姿。


「わたしは、強くなりましたか……?」


 それは、自分の耳にも届かない程、か細い声だった。窓に映る自分の顔を見ると、張り詰めた様子を常とした、氷のような冷たさを感じる表情ではなく、自身でも久方ぶりに見た、優しく、しかし同時に憂いも帯びた、ひどく人間性に満ちた表情だった。


 しかし、それはほんのわずかな間の出来事で、窓に背を向ける前には、シホは再び顔から一切の感情を消していた。


 わたしは、強くなった。

 強くあらねばならなかった。

 それが自分の選び取った道であり、この先も歩んでいく道なのだ。


 天空神教最高司祭を示す、金の縁取りがされた純白の法衣の上、全く色合いの合わない、灰色の肩掛けを羽織っていたシホは、その肩掛けを外して、自分の椅子の背もたれに掛けた。その時には、シホ・リリシアは完全に天空神教最高司祭、『奇跡の聖女』へと変貌を遂げ終えていた。

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