第一章 獅子と聖剣

第1話 『若獅子』

 誰もが予想出来なかった報告に、オードの蛮勇は手にした杯を取り落とした。


「さ、『沈黙を告げる騎士団サイレント・ナイツ』です、ラングル様! レネクルス城から『沈黙を告げる騎士団』が……」

「ばかな……」


『沈黙を告げる騎士団』は現在、神聖王国カレリアと軍事大国ファラが激突する東方の最前線へ遠征しているはずである。彼らは神聖王国に存在する騎士団の中でも、精強と呼ぶに相応しい主力騎士団である。それ故の最前線、東方への遠征であり、それ故に、かつて蛮族と呼ばれたものたちが盟主を立てた、新興国家であるオードの動向に、睨みを効かせる存在でもあったのだ。


 それが、およそ二か月前、オード王ルーメイは神聖王国との間に不可侵条約を締結した。


 これにより神聖王国は、これまで小規模にしか動かすことの出来なかった精強騎士団を、大規模な東方遠征へと赴かせる事が出来るようになったのである。


 しかし、オード王からすれば、それこそが条約締結の狙いだった。


『沈黙を告げる騎士団』が遠征し、手薄になったレネクルスを侵略する。


 温厚で知性派、蛮勇からはかけ離れた性格で知られ、その弱腰故、批判の声も出ていたルーメイの言葉を聞いた時、かつてはカレリア西岸を広く暴れ回った山賊、海賊の末裔である蛮族たちから反感は吹き飛び、替わってルーメイの策略を称賛する声と、かつてのように好き放題、暴れ回る事が出来る喜びの声が広がったものだった。


 無論、オードの一部族を預かるガード・ラングルも、その時ばかりは飛ぶように喜んだ。ルーメイの即位、国家の成立後、武器にして来た斧を伐採用の物に変え、開拓と開墾、木こりや狩人の真似事のような生活を強いられてきた部族の反感は、頂点に達しようとしていたところだった。だからこうして、どの部族よりも先に立って、侵略の先陣を切ったのだった。


 いま、レネクルス領西方を統括する城、ルートクルスの玉座に、こうして巨体を沈め、踏ん反り返って酒を煽って居られるのも、全ては『沈黙を告げる騎士団』の不在あったればこそのはずであった。


「どういうことだ! 奴らは遠征中のはずだぞ!」


 勝利の美酒を泥酔するほど煽っていたはずのラングルの思考から、一瞬にして酒気が抜けた。赤らんでいたであろうひげ面の頬が、いまは熱を喪っているのがわかった。蒼白になっているかもしれない。


 報告した斥候も、玉座の間に詰めていたラングルの部族の戦士たちも、誰一人としてラングルの怒鳴り声に応えるものはいなかった。ただ、斥候の男だけが、直接答えにはならないことを口にした。


「て、敵はさほどの大部隊ではありません。ですが、既に前哨の砦を突破、このルートクルスへ行軍中であります!」

「くそおおおおっ!」


 焦りと苛立ちに、ラングルは玉座の間に引っ張り出して置いていた会食用の長机を、力任せにひっくり返した。上に乗っていた様々な食品類、高価な食器、燭台などが、けたたましい音を立てて床に散乱した。


「……いったい、何が起こっている……奴らは遠征に……」

「ラインハルトです、ラングル様!」


 自分の認識が、間違っていないことを確かめる為、うわ言のように、今度は小さな声でラングルが呟いた時、別の斥候の兵が玉座の間に駆け込んで来た。動転した様子で、息も絶え絶えに叫び声を上げる。


「ラインハルトです、ラングル様。防衛用にわずかに残されていた『沈黙を告げる騎士団』の分隊を率いているのは、ラインハルト・パーシバルです!」

「なにっ!」


 ラングルは斥候に近づいた。泥にまみれ、衣服もその上に纏った軽装鎧も傷まみれ。ぼろぼろで、たったいま、辛くも戦場から逃げ帰って来た、という様子の斥候兵を、ラングルは胸倉を掴み上げて、無理やり立ち上がらせた。そのまま腕に必要以上の力を込め、首を締め上げるようにして、問い詰める。


「ラインハルトだと? あの『若獅子』がレネクルスに残っていたというのか?」


 息を止められた斥候は、返答することが出来ない様子だった。だが、ラングルには、その様子を見ても、構うだけの余裕がなかった。斥候がどうにか首を縦に振り、ラングルが手を離すと、斥候の身はその場に崩れ落ちた。


 締め上げている時、斥候の顔から見る見る血の気が引いていくのがわかったが、それが理由で手を離してやったわけではなかった。手を離したのは、先ほど、杯を取り落とした理由と同じだった。


「……撤退だ」


 遠征軍の陣容を調査した、戦前の観測に誤りがあったのか。それとも自分たちにだけ知らされていなかったのか。とにかく、いまはそれを問うても、考えても、意味はなかった。あの若獅子が迫っている。その事実だけを理解して、迅速に動かなければならない。あまり戦術、というものを考えたことのない、生粋の蛮勇であるラングルも、この時ばかりは自分の取るべき行動を最大限考えた。そして出た答えは、撤退の二文字だった。


「撤退だ! 早くしやがれ!」


 人形のように立ち尽くしていた部下たちを怒鳴り散らす。その声でようやく我に返ったのか、慌てて男たちが走り出した。部屋から飛び出し、ぶつかり合って無様に転がり、それでもすぐさま起き上がると、散り散りに走り出ていった。そうして、玉座の間にラングル一人が残されるまで、さして時間はかからなかった。


「ラインハルトだと……」


 勝利の美酒を浴びていた、ほんのわずか前までの喧騒が嘘のように静まり返った玉座の間に、反響した自分の震えた声を、ラングルは聞いた。

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