百魔剣物語——聖女と英雄と怨讐の魔剣——

せてぃ

序章 業火

第1話 侵攻

「しっかしなあ……」


 衛兵のジョシュが欠伸をかみ殺した声を漏らしたのは真夜中すぎの事。セロン・フルシュが巡回の為、ちょうどその前を通りかかった時だった。後輩衛兵の気の抜けように、セロンは立ち止まって声をかけた。


「ジョシュ、警備中だぞ。無駄口を……」

「ね、センパイもそう思いませんか?」


 ややお調子者なところはあるが、誰からも好かれる人懐こい性格のジョシュは、まだ幼さを残すそばかす顔に、眠気と不満を隠しもせずに浮かべている。


「……なんだ」


 セロンも、この青年ことが嫌いではない。また、セロン自身も、どこかに気の緩みはあったのだろう。足を止め、後輩衛兵の話に耳を傾けることにした。


「カレリアの東方では、ファラとの戦がいま、この瞬間も、続けられているわけですよ。世はまさに戦の時代を迎えたんですよ。大陸最大の信徒を持つ『天空神教』が根付く我が祖国、神聖王国カレリアと、軍事大国ファラの二大国家の開戦によって!」


 朗々と、まるで吟遊詩人の語りのように芝居がかった言葉を捲し立てる後輩を、セロンは冷ややかに見ていた。


「……それで?」

「戦の時代ですよ、センパイ! イ、ク、サ! 腕に覚えのある者たちは、これを機にのし上がっていくことも出来る、そんな時代が来たんですよ! その気になって、武勇を立てれば、おれだって貴族になれるかもしれない……それなのにおれは、こんな戦場から一番遠い外れの砦で、起きもしない戦に備えて、国境警備の毎日……」


 カレリアとファラ。アヴァロニア大陸を二分する大国の戦争は、開戦から二年を迎えようとしていた。両国では既に、数え切れない程の命が失われている。その事実すら、己の野望の前には取るに足らない、とでも言うようなジョシュの、この平和にどっぷりと漬かり込んだ若者らしい言葉に、セロンは深いため息を漏らした。


「……幸せなことじゃあないか」

「何言ってんですか、センパイ! センパイはバラート様の遠征にご同道したくなかったんですか! ご同道させていただいて、この剣を賭してバラート様をお守りし、いつかは……」


 貴族に、騎士に、精鋭騎士団の戦隊長に。聞かずともわかるジョシュの夢想。確かに、戦いの世を迎えた時代は、そのような方向へ流れ始めていた。


「センパイの剣の腕なら、間違いなく活躍できるじゃあないですか。それをどうして……」


 この砦に配置された国境警備隊の兵の中で、一番の使い手とされているセロンに、ジョシュは矛先を向けて来た。だが、セロンはあくまでも冷ややかに応じた。


「おれは、警備に残された事を天空神に感謝している。……あんな世界で、死にたくはない」


 最後の方の言葉は、ほとんどジョシュには届かないようにつぶやいた。セロンはジョシュの背後に広がる、夜の闇の向こうに視線をやった。そこに、かつて目にした、浮世離れした世界の映像が、仄暗い色で浮かび上がった。


 セロンは、戦場を知っていた。開戦当初に駆り出され、東方の最前線にいた事があるのだ。


 鮮血が濃密な霧のように満ち、大地は屍の肉と骨から作られている現世の地獄。敵を斬っては捨て、屍をさらに斬り刻み、踏みしめて歩けることを誇りに思わなければならない、真実の暗黒世界。それが戦場なのだ。目の前の若者の夢想には、一片も現れぬ世界であろう。


 ジョシュの言う通り、セロンは剣の腕に多少の覚えはあった。だからこそ、遠征軍に駆り出されたときには、断ることはしなかった。それが間違いだったと、いまならば思う。自分の力は微々たるもので、彼の戦場では自分以上の猛者など、数千単位で存在する。さらにその上を行く、鬼神のごとき戦士も存在する。セロンには、それを理解出来るだけの力はあった。だから生き残っている。自らの命を尊ぶのは、真に力ある者の証。己を知り、戦場を選ぶことは、臆病とは言わない。


「もったいないっすよー。センパイなら絶対、貴族の仲間入りできますって。おれは最前線に行きますよ? 必ず行きます。行って、敵将の首級を上げてやりますよ!」


 手に持った長槍を構えて見せるジョシュは、そんな真実を知るはずもなく、愚かな程に夢を見ては、無邪気な笑みを向けてくる。


 戦場に、行かせたくはないな。


 戦場で、早々に命を散らしそうな性格の後輩衛兵の身を案じ、セロンが国境警備隊の兜を少し直した時だった。


「あれ……センパイ……」


 軽薄ながらも意気揚々としていたそれまでの語調とは打って変わって、ジョシュが囁いた声は幽霊でも目にしたかのような、弱々しいものだった。


「あれ……なんですかね……?」


 ジョシュの右手が上がり、その指先は砦の外に広がる闇の中を指していた。セロンはその指先を追って視線を転じた。


 いまセロンが立っている石造りの砦は、神聖王国カレリアと、南西の小国、オードとの国境に築かれ、関所の役割も果たす堅牢で巨大なものである。見張りの為に、砦壁面上部の回廊を巡っていたセロンと、立ち番のジョシュの前には、『黒森』と呼ばれるオードの、深い針葉樹森が広がり、その呼び名に違わぬ深い夜の闇が、黒く、黒く広がっている。砦の巨大さゆえに、その闇を見下ろす格好になっているはずだが、闇の深さゆえに、それすらわからない。昼間の景色を覚えていなければ、手元の松明の明るさも手伝って、その闇の中に何かがあるとは到底思えない暗さだった。


 ジョシュの右手は、その闇の中を指さしていた。セロンは自身から松明を遠ざけ、目を凝らしたが、闇の中に何かを見つけることは出来なかった。


「……どうした?」

「あ、ほら、また光った。なんだあ、あれ……」


 しかし、やはりジョシュには何かが見えているらしい。


「光った? 火か?」

「ですかね。赤い……」


 ジョシュが何かを言いかけた瞬間だった。おそらくジョシュが目にしたであろう赤い光が、突然『黒森』の中に屹立した。


 渦を巻く、紅蓮の火柱。


「火事か? 大きなものだが、あれはオードの……」

「センパイ!」


 ジョシュが悲鳴に近い声を上げた。セロンも目を見張った。信じられない光景が、眼前に迫ってきていた。


 立ち上がった火柱は、オード領内のものであり、それが山火事の類だとしても、この時点では手の出しようがなかった。一応、報告の義務はあると判断したセロンが、その場を離れようとした瞬間、火柱が砦に向かって動き始めたのだ。


 物凄い速度だった。立ち上がった火柱から、一直線に炎の筋が、砦目掛けて迫って来る。只事ではない事だけはわかったが、何をどう対処すればいいのかが、セロンにもわからなかった。


「……とにかくおれは報告に行く。ジョシュ、お前は……」


 この事実を素早く砦全体に行き渡るようにしなければならない。後輩には短い指示を出そうとした時、事態は、さらに信じられない光景を生んだ。


 炎が、堅牢な砦の壁面を、下から上へと駆け上ったのだ。


 砦壁面上部を通り過ぎ、砦内部まで炎は浸食した。


 いや、違う。


 これは……


「う、うわああああ!」


 悲鳴はジョシュのものだった。駆け上った炎は、ジョシュの背後の少し離れた位置を通過したが、その炎が伸ばした触手のような火が、ジョシュの背中で燃え、あっと言う間に全身が炎に包まれた。転げ回って火を消そうとする後輩衛兵に駆け寄り、セロンもどうにかして火を消そうと、手で叩いたり、払ったりを繰り返したが、その炎は揺らぎもしなかった。


「くっ……」


 肉が焼ける異臭がした。たったいままでにこやかに話していた後輩は、黒い炭となり、動かなくなった。


 いったい、何が起こっている。セロンは立ち上がって、いまだ燻る炎の筋を見た。内部まで燃え広がった砦では、セロンが知らせて歩くまでもなく、休んでいた兵士たちが着の身着のまま、兵舎から駆け出してくる騒然とした声が聞こえ始めていた。


 と、それとは別の叫び声が、砦の外で上がった。


 セロンは『黒森』側の壁に飛びつき、眼下を見下ろした。


 いったい、いつの間に現れたのだろうか。砦の外は、無数の松明の炎で満たされていた。揺らめく火の光の中に浮かび上がるのは、オード人特有の、がっちりとした体形の、屈強な男たち。手には様々な武器を握っているが、その多くが、手斧や伐採用の大振りな斧だ。その姿は、蛮勇の徒として知られる、オードの戦斧戦士のものだった。


 戦士たちが再び叫び声を上げる。鬨の声だ。これは……


「侵攻……?」


 セロンは一歩、二歩、後退る。壁の向こうの景色は見えなくなったが、代わりのように戦士たちが攻め込んでくる声が聞こえた。


 戦士たちの声は、セロンのちょうど真下に集結し始め、程なくして砦の中にまでなだれ込み始めた。やはり、間違いなかった。あの炎は、ただ壁を駆け上って、壁を乗り越えて、砦内部にまで達したわけではなかったのだ。


 砦の壁そのものを切り崩していた。


 初めに伸びた炎の筋。


 セロンにはそれが、斬撃に見えた。


 


「そんなことが……」


 言いかけたセロンは、奇妙な気配を感じて振り返った。そこには炭化した人形が倒れていて、そのすぐ脇に、気配の正体が立っていた。


「……なんだ、貴様は」


 がいる。


 そうとしか形容のしようがなかった。


 頭の先から手の先、足の先まで、炎に包まれた人間がそこに立っていた。しかし、その人間は、全身火だるまにも関わらず、先程のジョシュとは違って、叫ぶことも、焼ける身の痛みにのたうち回って、全身を包む炎を消そうとすることもなかった。


 ただゆっくりと、剣を構えた。


 人型の炎が手にした剣は、やはり炎に包まれていた。燃え盛る刀身が揺らめき、剣の実体がわからない。むしろ、あの炎そのものが刃なのではないか、とすらセロンには見えた。


「……この砦より東は、神聖王国カレリアが領土。バラート・パーシバル卿が治めるレネクルス領である。如何なるものも、武力を持ってこれを侵すことは許さん」


 もはやそんな言葉は意味をなさない。それはセロンにもわかっていた。だが、口をついて出たのは、普段から職務上、言い慣れている言葉であった。同時に、腰に佩いた剣を抜いた。


「何者かは問わぬ。即刻立ち去れ!」


 セロンは叫んでいた。らしくない、と思った。ただ、恐怖のあまり、それを払拭したいが為に叫んでいた。そうでもしなければ、その場に膝をついてしまう。剣を構えた人型の炎という、信じられない何者かと向き合うことになったいまを理解できるはずもなかった。


 砦内部の至る所から、オードの戦士たちが暴れ回る声が上がる。本当に、侵攻してきたのだ、と聞きながら、セロンは目の前の炎に睨まれたように、身動き一つ出来なくなっていた。


 動いたら、殺される。


 その感覚だけが確かだった。


 数年前の戦場での体験を思い出していた。


 圧倒的な『死』が、目の前にいた。


「バラート・パーシバル……」


 ふいに、妙に曇った声のようなものが聞こえた気がした。それが目の前の人型から発せられたものだと気付くのに、セロンは少し時間がかかった。


「パーシバル!」


 がらがらと何かが絡みつくような声で叫んだ人型は、燃え盛る剣を振り上げた。刀身の炎が勢いを増し、実寸の二倍か三倍程に、長く膨れ上がったように見えた。


 まずい。


 セロンが何かを叫ぼうとした時には、遅かった。


 燃え盛る剣が振り下ろされ、伸びた刃と、そこから発せられる炎が、石造りの砦を上から下へ真っ二つに切り裂いた。


 セロンの足元が崩れる。


 炎の刃が切り裂いた傷が、セロンの立つ砦の壁を完全に切り崩したのだ。


 不意のことに、足場を失い、落下する身を、どうすることも出来なかった。手にした剣が滑り落ち、しまった、と思った時には、視線の先で、人型の炎が再び剣を振り上げたのが見えた。


 そしてその剣は、そこから伸びた炎は、今度は真っ直ぐにセロンの頭上から、セロンを両断した。





……それが神聖王国カレリア、レネクルス公バラート・パーシバル卿に仕えた、名もなき一人の国境警備兵が見た、最後の光景だった。


 この夜、カレリア・オード間にあった唯一の関所砦は、文字通り跡形もなく崩れ落ちた。翌早朝、レネクルス領内の、砦近隣の農村が次々とオード軍に襲撃される。そして、その日の晩までには、レネクルス領西方を統括するルートクルス城が陥落した。


 カレリア・ファラの大戦の為、東方遠征へ出向いた領主、バラート麾下のカレリア精鋭騎士団である『沈黙を告げる騎士団サイレント・ナイツ』が出払っているいま、レネクルス領全体の陥落、カレリア本国への侵略は、時間の問題である、と思われた……

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