閑食――白銅貨異曲

安良巻祐介

 

 美術館へ向かう山道の途中で、ふと足を止めて息をつくと、見上げた、こんもりとした緑の上に、卵のような白い頭が少し覗いているのが見えてびっくりした。

 はて、こんなところに建物があったかしらと思っていると、手前の山の木の傍に、ピカピカした新しい真鍮の看板が出ていて、何やら知らぬ書体で、おそらくは店名が打ち出してある。

 珈琲壜とフォークの絵から、キャフェーの風情を残す、昔ながらの精養食堂らしい。

 山のなだらかな、のびやかな道を延々と来た疲れを急に感じて、看板の示すまま、階段を外れ、木立の間に道を取った。

 食堂の姿はすぐに現れた。

 木の上から見えていた頭の印象が、そのまま爪先まで続いているような、真っ白い、丸い建物である。

 取っ手の大きな、両開きのドアを押して、中へ入った。

 勘定台の向こう、笠付きランプの灯りの下に、こぢんまりした二人掛けのテーブルが幾つか用意してある。

 隅の方、一番遠くの席にはすでに一人客がいて、こちらに背を向けたまま、かちゃかちゃとフォークを動かしている。

 瀟洒な店内を軽く見回していると、それだけで、自然と酔っ払うような感じがしてきたので、とりあえず給仕にすすめられるまま、窓際のひとつに腰かけた。そして、紅茶と、小腹も好いていたので、オムレツにサラダを注文した。

 人心地の付いた気がして、何気なく奥の壁を見やると、メルヒェンな造りの時計が掛かっている。

 その針が、なんと真夜中を指している(太陽と月の印とで、時刻のほかに昼夜も計れるようにしてある)ので、一瞬間、ぎょっとしたが、よくよく見直してみれば、それはちゃんとした時計ではなくて、壁にそれらしく描かれた時計の絵なのであった。

 妙な事をするものだ、と思いながら、慌てて取り出しかけた懐中時計をしまって、椅子に背を預け直した。

 やがて、ちりんと小さく鐘が鳴って、お盆に載った、香気の立つ紅茶と、パセリを添えたふっくらしたオムレツと、春野菜のサラダとが来た。

 紅茶は、カップの中に琥珀を溶かしたようで、オムレツもきれいな卵色をして、赤いソースがよく映えている。

 そろいの白い食器の上に畏まったそれらを、据え付けの小ぶりな銀のフォークを取り上げて、ゆっくりと苛めだした。

 そうしながら、あらためて、店内を眺めてみれば、新しい店の筈であるのに、家具調度が、まるで百年も前から、この土地にあるような顔をしている。

 おまけにそれらは、店のと言うよりは、個人の、誰だかの長い愛着のある道具類であるように感じられた。

 また、奥行きを出すためであろうか、座っている窓際のこちらから、反対側の店の隅に向かって、天井が傾いて、端から端までの壁の間隔が、そちらへ向かって、急に狭まっていくことに気が付いた。

 さらによくよく観察すると、丁寧な事に、天井や壁と合わせて、据え付けられたテーブルも、隅へ行くにつれ、少しずつ小さいものへと変えてあるらしい。

 何のためだか知らないけれど、手の込んだ事だ、とさらに感心したが、腑に落ちないには、今の考え方で、縮尺を正しくしてゆけば、遠くにあると思った席も、本当は手を伸ばして届く位、ずっと近くにある筈で、そうすると例えばあの、一番奥の席に座っているお客などは、せいぜいねずみくらいの大きさしかない計算になる。

 そんなわけはない。しかし、どうしても、慣れてきた目を据え直して、こちらへ向けたままの、その、椅子より少し低い背中を見れば、そうとしか考えられなくなってくる。

 目をこすりながら見つめるこちらのことなど知らぬげに、その人は、相変わらず一心に、フォークを動かしている。

 不思議な気持ちになりながら、こちらも惰性で手を動かしていると、何だかだんだんとフォークの刃先に手応えがなくなってきて、そもそも初めから何も飲み食いできていないような、或いは、本当のところ、自分はとっくに山道を抜けて、美術館へ着いており、それで、ただずっと綺麗な絵を見ていたという、それだけのような気もして来るのだった。

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閑食――白銅貨異曲 安良巻祐介 @aramaki88

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