退魔の術

 目を開くと周囲は水に包まれていた。手が重い。足が重い。これは水というより一匹の巨大な水来忌すらいむなのだろう。わしらはその中に取り込まれてしまったのだ。

 父と家光は喉に手を当てて苦しんでいる。息ができぬのだ。

 剣を構えて仁王立ちになったスケ姫の体は炎と湯気に包まれている。自らの発する熱で周囲の水を蒸発させて薄い空間を作り、辛うじて息をしているようだ。

 於カクもまた全身が水に浸かっている。が、いつもと変わらぬ表情でこちらへ歩いてくる。右手をわしに伸ばす。何かを渡せと言っているように見える。


「妙だな。何故わしは息ができるのだ」


 ようやく気付いた。わしの顔は水に浸されていない。首から下だけが水に包まれている。理由はすぐ分かった。印籠だ。右手に握り締めたままの印籠は金色の光を放ち続けている。抗魔の武具、この印籠のおかげで雲泥嶺うんでぃーねの魔の術を軽減し、首から上はかろうじて水没を免れているのだろう。


「そうか、於カクが欲しているのはこの印籠か」


 祠から碧玉を取り出す時、於カクは術によって池の水を鎮めた。この窮地を抜け出すには於カクの術に頼るしかない。

 意図を悟ったわしは於カクに歩み寄る。体が重い。思うように足が動かぬ。だが急がねば父と家光の息が詰まってしまう。


「於カク、頼むぞ」


 右手を伸ばして印籠を於カクに渡す。たちまちわしの全身は水没した。代わりに於カクの全身が気泡に包まれた。術の軽減効果はわしよりも遥かに強いようだ。


「任せろ!」


 於カクは水中で勢いよく跳ねると、一気に水塊から飛び出した。お榛の背後へ回り羽交い絞めにする。


「うぬ、こしゃくな真似を」


 抗うお榛。だが腕力は町娘のままだ。於カクの怪力に敵うはずがない。直ちに言葉が発せられる。


不動如山ふどうにょざん!」


 たちまち水が引き始めた。全身を覆っていた水が剥がれ落ちる。だが完全ではない。膝下は水に浸かったままだ。於カクの力を以てしても雲泥嶺の術を完全に鎮めるのは無理なのだろう。


「ごほ、ごほごほ」


 父と家光は四つん這いになって激しくむせている。スケ姫は問題なさそうだ。わしは父の元へ駆け寄った。


「父上、ご無事ですか」

「うむ。しこたま水を飲まされたが辛うじて生きておる。家光、おまえはどうだ」

「ハアハア、三途の川は渡らずに済んだようですな」


 二人とも命に別状はなさそうだ。しかしここまで息が上がっては満足に戦えまい。父もそれは分かっているのだろう。荒い息遣いを抑えて声を張り上げる。


「スケ姫、これが魔を倒す最後の機会だ。於カクの術が切れれば今度こそ我らの命はない。どのみちお榛は助からぬのだ。迷いを捨ててお榛を討て」

「嫌よ!」


 スケ姫の目が燃えている。断固として引き下がらぬ、そんな強靭な意思に溢れている。


「お榛ちゃんが助からないですって。誰がそんなことを決めたのよ。あたしはお榛ちゃんを諦めない。絶対にお榛ちゃんを助けてみせる」

「無理だ。魔を引き離す術は遠い昔に失われた。おまえとて分かっているはず」

「分かっているわ。だから何だって言うの。助からないから命を奪ってもいいって言うの。何の罪もないお榛ちゃんの命を奪うなんてできない」

「まずい、水嵩が増し始めた!」


 膝までしかなかった水位が徐々に高くなっている。お榛を羽交い絞めにしている於カクの息が乱れている。雲泥嶺を抑え込むために普段以上の力を使っているのだろう。術が切れるのは時間の問題だ。


「スケ姫、このままでは我ら全員無駄死にだ。おまえはそれでいいのか」

「構わない。お榛ちゃんを見捨ててまで助かりたいとは思わない。お榛ちゃんが死ぬのならあたしも……」

「いいえ、スケさんまで命を落とす必要はありません」


 それはお榛の声だった。於カクの術を受けて雲泥嶺の支配が弱まったのだろう。お榛が己を取り戻し、己の声で話しているのだ。


「お榛の覚悟はできております。どうぞこの胸を貫いてください」

「できないわ。あたしにはできない」


 スケ姫、これほど情の深い女子おなごであったのか。だがそれは剣士としてあるまじき資質だ。非情に徹さずしてどうして敵を討てようか。わしは父の刀の柄を握った。


「父上、破魔の刀を貸してくだされ。スケ姫ができぬのなら、この光国がお榛を討ちましょう」

「已むを得ぬな」


 父から刀を譲り受けたわしは切っ先をお榛に向けた。於カクに羽交い絞めにされたまま頭を垂れ、静かに己の運命を待つお榛。その潔さにわしの心は揺れる。が、すぐに気を取り直し一歩踏み出す。


「あんた、あんた本気なの、光国。あんたまでそんなことをしようとするなんて……」


 わしの前にスケ姫が立ち塞がった。その頬を一筋の光が流れ落ちた。雨なのか涙なのか、わしには分からなかった。


「見損なったわ、光国。これがあんたの世直しなの。何の罪もない娘の命を奪って何が直るのよ。あんた言ったじゃない。弱い者を助けるって。悪を懲らしめるって。お榛ちゃんを見捨てることが弱い者を助けることなの。お榛ちゃんを討つことが悪を懲らしめることなの。どうしてそんな酷いことができるのよ。どうして最後まで頑張ろうとしないのよ」


 スケ姫の言い分はよく分かる。わしとてできるならお榛を助けたいのだ。だが、お榛の命を救い雲泥嶺を野放しにすれば、わしら五人だけでなく更に多くの村人が犠牲になろう。お榛を討つ、これがわしらにできる最良の選択なのだ。


「仕方なかろう、スケ姫。お榛を助ければ我らは助からぬ。もはやこの外に取るべき道はない」

「そう、そうなの。よく分かったわ。あんたの世直しなんて偽物よ。本当は自分の命を助けたいだけ。そのためにお榛ちゃんを犠牲にしようとしている。でもそれは間違ってる。逆よ。あたしたち全員の命を犠牲にしてもお榛ちゃんを助ける、それが正しい世直しなんじゃないの。弱い者を助ける、悪を懲らしめる、偉そうなことを言っても、結局あんたは自分のことしか考えていないのよ。でも、あたしは違う」


 スケ姫はわしに背を向けてお榛を睨み付けた。何をするつもりなのだ。水はもう腹を越えて胸の辺りまで上がってきている。ぐずぐずしてはいられない。


「雲泥嶺、憑くのならお榛ちゃんではなくあたしに憑きなさい。あたしのほうがその娘よりずっと力がある。魔の術を思う存分使えるはずよ」


 伏していたお榛の顔が正面を向いた。その目は虚ろに宙を見詰めている。雲泥嶺の支配が戻ったのだ。術をかけている於カクの力はもうほとんど残っていないのだろう。


「ほう、ならば手に持った魔剣を捨てよ。そして我が短剣を手に取れ」

「分かったわ」


 スケ姫が魔剣を捨てた。目を疑った。命より大切だと言っていた魔剣を捨てたのだ。


「光国……」


 スケ姫はこちらを振り返ると左胸を指差した。全てを理解した。雲泥嶺が憑いたら己の胸を刀で貫け、そう言っているのだ。命を捨ててまでお榛を助けたいと言うのか。なんという仁の心。かくも深き思い遣りと慈しみがこの娘の中に潜んでいたとは……何故気付かなかった、何故見抜けなかった。

『……心根は優しい女子なのです』その通りだ、玄蕃。そなたの言葉は真であった。そしてわしはようやくわし自身の醜い姿を見出せた。


「我が志のなんと矮小であったことか」


 世を正すのも、人を助け悪を懲らすのも、ただ己を救いたいからだ。地獄道落ちを免れ天道へ行きたい、そんな己の欲望のために、この異世界で善行を積もうとしていたに過ぎぬのだ。

 だがスケ姫は違う。己の命を犠牲にしてお榛を救おうとしている。たとえこの身は滅びようともお榛だけは助けたい、それがスケ姫の想い。わしよりも遥かに崇高で尊敬に値する魂をその身の内に宿している。


「わしはそなたを見誤っていたようだな。またも前世と同じ過ちを犯してしまうところであった。スケ姫、そなたが命を捨てる必要はない。その役目、わしが担おう。もとよりこの身は地獄道へ落ちる宿命にあったのだ。今更、何の未練も……」


 そこまで言い掛けた時、声が聞こえてきた。今日一日、宝樹院からずっとわしを見守ってくれていたあの声が。


 ――若君、よくぞ悟られました。この玄蕃、嬉しく思いますぞ。


 おお、冥土の玄蕃か。見上げれば一羽のほととぎすが円を描いて飛んでいる。


 ――今の若君ならば使えまする。この玄蕃も冥土より力を貸しましょう。さあ、印籠をお持ちなされ。そして心のままに言葉を発しなされ。されば願いは必ずや聞き届けられましょうぞ。


 円を描いていたほととぎすが舞い降りた。於カクの右手から印籠を奪うと再び舞い上がり、わしの頭上で印籠を放す。

 淡い金色の光を放ちながら落ちてきた印籠を手にした時、わしの中で何かが弾けた。得体の知れぬ新しい力が腹から全身に満ちていく。


「スケ姫、よせ。おまえが犠牲になる必要はない」

「考え直すのだ、スケ姫」

 父と家光の声が聞こえる。


「スケさん……駄目だ、もう力が尽きる」

 於カクが呻いている。


「さあ、もっと近くへ寄って我が短剣を手に取れ」

 雲泥嶺の声に誘われるようにスケ姫は歩いていく。


 印籠の輝きが増した。腹の中で膨れ上がった新しい力は無意識の言葉となり、わしの口から一気呵成に吐き出された。


「ええい、鎮まれ鎮まれ! この紋所もんどころが目に入らぬか!」


 印籠から眩い光が放たれた。後光の如き金色の円光が、周囲に満ちていた水を池へと押し流していく。わしは言葉を続けた。


「聞け! 戦国の世は終わった。天下はすでに徳川のものである。泰平の世に西方の魔は要らぬ。雲泥嶺、そなたもまた消え去る運命。抗うことなく滅するべし!」


 高く掲げた印籠が一際強い光を放った。同時に魔の力を持った言葉がわしの口から発せられた。


災魔退散さいまたいさん!」


 降り続く雨粒が集まり始めた。お榛の体を取り囲む。やがて大きな水塊に変わると、女体の姿を形作って宙に浮いた。家光と父が叫ぶ。


「おお、お榛の体から魔が離れた」

「これは、退魔の術。どうして光国が」


 水塊となった雲泥嶺は身悶えしながら苦しんでいる。それはわしも同じだった。術が発動した瞬間、強烈な魔の力がわしの肉体と精神を浸食し始めたのだ。正気ではいられぬほどの脅威と恫喝がわしを襲い、荒れ狂う竜巻のような勢いで体力と気力が吸い上げられていく。この術も長くは持ちそうにない。


「スケ姫、急げ!」

「分かってるわよ」


 地に置いた魔剣を素早く拾い、スケ姫は身構えた。一気に全身が灼熱色に燃え上がる。


「これでお仕舞いよ、雲泥嶺」


 溜まりに溜まった怒りを吐き出すようにスケ姫の言葉が発せられた。


侵掠如火しんりゃくにょか!」


 突き出された魔剣の切っ先が爆炎を生んだ。轟音を発しながら燃え上がる業火が雲泥嶺に襲い掛かる。単なる水塊に成り果ててしまっては、もはや防ぐ手立てはないのだろう。為す術もなく直撃を受けた雲泥嶺は砕けることなく、水蒸気に包まれながら消滅していく。


 ――我は去る。が、西方の魔は我だけではない。その者たちが必ずやこの世を戦国へと変えるであろう。覚悟しておけ……


 それは最初に現れた時と同じく直接頭の中へ送られた言葉だった。立ち上っていた水蒸気は徐々に薄れていき、やがて完全に消滅した。


「終わったか」


 印籠を懐に仕舞う。体も心も疲れ切っている。立っているのがやっとだ。


「お榛ちゃん!」


 地に倒れたお榛をスケ姫が抱きかかえている。疲れた様子はまったくない。底なしの元気が羨ましくなる。


「カ、カクさん、何を」


 いきなり於カクが法被を脱いだ。体からは湯気が立ち上っている。


「ああ、暑くて敵わぬのだ。すまぬがこれくらいは許してくれ」


 そうか、術後はひどく汗をかくのだったな。今日ばかりは背中を拭いてやる気力もない。


「しかし驚いたな。若旦那が退魔の術を使えるとは。この術を会得した者はこれまでに僅か三名。信長、秀吉、家康、いずれも覇者となった武人たちだけだ。それ故あの術は覇者の術とも呼ばれている。どこで会得したのだ」


 於カクに訊かれても答えられるはずがない。むしろこちらが訊きたいくらいだ。


「さ、さあ、どこで覚えたのかな。あ、スケ様、お榛さんは大丈夫?」


 強引に於カクとの話を打ち切ってスケ姫に問い掛ける。それにしても疲れた。それに眠い。今すぐこの場に突っ伏して眠ってしまいたい。


「大丈夫、命に別状はないみたい。でも凄く弱っている。早く屋敷に運んであげなくちゃ」


 そうか。どうやら皆無事のようだな。手こずりはしたが一件落着できたのだから良しとしよう。


「ねえ、光国」

「んっ、何かな、スケ様」

「馬鹿!」


 いきなり左頬に衝撃を感じた。スケ姫がわしの頬を思いっ切り平手打ちにしたのだ。一番の功労者であるこのわしにこの仕打ち、訳が分からず茫然と立ち尽くす。


「あんた、あんな術を持っているのならどうしてさっさと使わなかったのよ。あれじゃ魔剣を手放したあたしが馬鹿みたいじゃない。何、勿体付けてんのよ」


 ああ、そういう意味か。確かに傍から見れば出し惜しみしていたように思えたかもしれぬな。やれやれ、言い返す気力も湧かぬ。平手打ちがわしの緊張の糸を完全に切ってしまった。悪いがしばらく眠らせてもらうぞ。


「きゃああ、あんたどこ触ってるのよ」


 ああ、これはスケ姫の胸か。真っ平らだと思っていたが網で焼いた餅程度の膨らみはあるようだな。それに実に心地良い。うむ、父の言葉通り、やはり乳は大きさではないな。


「ちょっと、離れなさいよ、ペチペチ」


 ペチペチは頭を叩く音か。こんな時でも容赦のない娘だ。しかしもはや痛みも感じぬ。少し休ませてもらうぞ、スケ姫……そうしてわしはスケ姫の腕の中で大きな安らぎに包まれながら深い眠りへと落ちていった。

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