憑かれたお榛

「礼はまだ早い。打ち込まれた短剣を抜いて西方の魔を追い払わねば。私がやろう」


 於カクの怪力ならば容易たやすく抜けるはずだ。わしから渡された碧玉を左手で鷲掴みにし、右手を短剣に近付ける於カク。が、


「うぬっ!」


 その手は激しく弾かれた。もう一度、今度はゆっくりと近付ける。同じだ。弓に弾かれた矢のように於カクの右手は跳ね飛ばされる。


「あたしにやらせて」


 スケ姫が手を伸ばす。やはり駄目だ。短剣はその手を寄せ付けようとしない。まるで触られるのを拒んでいるかのようだ。


「恐らく宝樹院の手箱とは逆なのだ。あれは魔の力を持つ者しか開けられなかった。この短剣は魔の力を持つ者を受け入れない。だから私もスケさんも触れることすらできないのだ」

「じゃあ僕がやってみるよ」


 わしには魔の力はない。於カクの推測が正しいのなら、わしは短剣を触れるはずだ。気合いを入れて右手を短剣に伸ばす。


「うわっ!」


 駄目だ、弾かれた。予想以上の反発力だ。増水して氾濫した濁流に手を突っ込んだかのような衝撃だ。


「どうして。僕には魔の力なんかないのに」

「あんた、抗魔の武具を持っているじゃない。きっと所有しているだけでも駄目なのよ」


 そうか。手箱を開ける時はわしも力を貸したのだったな。しかしそうなると誰がこれを抜く。父も家光も破魔の刀を持っていると言っていたし。


「あの、私なら抜けるのではないでしょうか」


 お榛がおずおずと口を開いた。確かにお榛は魔とは無縁だ。しかしこの短剣は竜神の力を奪った魔の武具。危険すぎる。

 わしは何も言えなかった。於カクやスケ姫も同じ考えなのだろう。何も言わない。


「皆さんが心配する気持ちは分かります。でも今私がここにいるのは、ただの偶然ではないはず。何かをするために私はここに来たのです。その何かとは短剣を抜くこと、そうではないでしょうか」

「お榛さん……」


 きっとお榛は何かの役に立ちたいのだろう。あるいは自らの手で高祖母である竜体院の魂を救いたいのかもしれない。わしは於カクを見た。小さく頷く。スケ姫を見た。やはり頷く。


「分かった。お榛さんに任せるよ。でも気を付けてね」

「はい!」


 力強く返事をしたお榛は右手を短剣に近付けた。指先が柄に触れる。何も起こらない。しかしその指は震えている。


「頑張って、お榛ちゃん!」


 スケ姫の声援に勇気を得たのか、お榛は思い切りよく柄を掴んだ。最初はやんわりと、そして徐々に力を籠めてしっかりと握り締める。


「抜きます」


 短剣が滑るように動き始めた。突き刺さっていた剣身部分が徐々に露わになっていく。

 雨の降り方が激しくなった。聞こえてくるのは地と池と樹木から響いてくる雨音だけ。見えるのは雨に霞んだ風景だけ。その風景の中に短剣を高く掲げるお榛の姿が見える。抜けたのだ。これで竜神は救われる、そう思った瞬間、その言葉が聞こえてきた。


 ――我は水の魔、雲泥嶺うんでぃーね。我が楔を抜いた者たち、後悔するがよい。


 声ではない。言葉そのものが文字となって頭の中に送り込まれたのだ。同時に雨粒が集まり始めた。それは空中で巨大な水塊となり、やがて一人の透明な女体を形作った。


「こ、これが西方の魔、雲泥嶺」


 見た目は美しい裸体の女。だが、禍々まがまがしいまでの邪気がその体を取り巻いている。人を魅了する圧倒的な美と邪を前にして、わしの胸の内で燃えていた戦意が次第に失われていく。これが雲泥嶺の魔の術なのか。


「後悔するのはあんたよ!」


 スケ姫の声だ。火炎の如き深紅の魔剣を構えたその体は凄まじい闘気をまとっている。何という精神力。これだけの魔を前にしてもまだ己を保っていられるとは。


「侵掠すること火の如し!」


 何の躊躇もなくスケ姫は魔剣を振り抜いた。放たれた巨大な火球は狙い違わず雲泥嶺を直撃した。女体を形作っていた水塊は砕け、無数の雨粒となって地へ降り注いだ。


「おお、やったか」


 いつの間にか父と家光が駆け付けていた。従者たちの頭にへばりついていた水来忌すらいむも成敗できたようだな。


「いいえ、まだよ」


 スケ姫は真剣な眼差しで魔剣の柄頭を見ている。そこに埋め込まれた赤珊瑚は赤く発光している。わしも印籠を取り出した。葵の御紋は金色に光っている。魔が近くにいる証拠だ。


「ふふふ、やはり生身の女体は居心地がよい。碧玉とは比べ物にならぬわ」


 それは声だった。耳から聞こえてきた声の言葉。発したのは……お榛だ。


「なんたる不覚。お榛が憑かれたか」


 於カクが呻く。迂闊であった。わしらはすでに宝樹院で見ていたではないか。竜体院はお榛の体を借りて言葉を伝えた。ここでも同じことが起きるはずだと何故思わなかった。


「光国、玄蕃の印籠を使ってみろ。抗魔の武具ならば追い払えるかもしれぬ」


 父が叫ぶ。わしは手に持った印籠をお榛の額に当てた。駄目だ、何も起きない。水来忌に憑かれた従者たちと同じく、お榛の虚ろな目は宙を彷徨さまよったままだ。


「そのような玩具で我を追い払えると思うたか。片腹痛いわ」

「この、言わせておけば」


 スケ姫が魔剣を構える。が、もちろん術を放つことはできない。


「どうした。先ほどのように火を放たぬのか。ふっ、できまい。我を討てばこの娘の命は尽きるのだからな。情に縛られて戦えぬとは、人とはなんと不便な生き物であることよのう」


 不敵な言葉にもかかわらず、お榛の艶のある声は心地好く感じられた。わしの戦意はまだ失われている。西方の魔、雲泥嶺。人に敵対する悪しき魔であることに疑いの余地はない。だからと言って無条件で倒す必要があるのだろうか。話し合えば解決できるのではないか。わしはお榛に語り掛けた。


「雲泥嶺、聞いてくれ。僕らはあなたを倒しに来たんじゃない。戸田川で暴れている水来忌を元に戻して欲しいだけなんだ。それを約束してくれるなら僕らはあなたに何もしない」

「ふっ、何を言い出すかと思えば、実に下らぬ戯言よのう。そのような約束、できようはずがない。我ら魔は生き物の悲しみ苦しみ怒りをかてとして生きておる。水来忌へ向けられる人々の怒り、魔によって味わわされる人々の苦しみ、それらを食わねば生きていけぬのじゃ。おまえたちとて明日から米を食うな、魚を食うなと言われたからとて、素直に従うことはできまい。それと同じじゃ」


 魔は人を苦しめねば生きていけぬと言うのか。なんというごうの深い存在なのだ。やはり人と魔は共存できぬ定めにあるようだな。


「分かった。戸田川については諦める。その代わりお榛さんから離れてくれないか。元通り碧玉に戻ってくれれば僕らはもう何もしないよ」

「ふふ、はははは」


 雲泥嶺の笑い声が響く。濡れた体に吹き付ける風のように寒々とした嘲笑。それは明らかに拒否の返事。ここまで譲歩してもまだ足らぬと言うのか。


「勘違いしておるようじゃな。碧玉に宿ったのは我が意思だとでも思っておったのか。逆じゃ。我は約定やくじょうによって碧玉に縛られておったのじゃ。だがその約定も遂に果たされた。我はこうして自由になった。おまえたちは竜神を助けるためにここへ来たのであろう。今、竜神は解放された。我に力を奪われ、もはや虫の息ではあるが、とにかくおまえたちの望みは叶った。何の不満があるというのじゃ」

「だからってお榛さんを渡すとは言っていない」

「我は実体を持たぬ。何かに憑かねば存在できぬ。おまえたちに竜神を渡した以上、代わりを貰うのは当然であろう」


 やはり話し合いでの解決は無理か。碧玉には戻らぬ、お榛も返してくれぬとあればもはや打つ手がない。


「光国、こうなったら戦うしかあるまい。お榛もきっと分かってくれる」


 父の言葉がのみのようにわしの心をえぐる。抉られた穴から染み出た後悔が胸の内で広がっていく。お榛を連れて来るべきではなかった。短剣を抜かせるのではなかった。わしの見通しの甘さがこんな事態を招いたのだ。


「苦しんでいるな。それでよい。際限無く苦しむがよい。その苦しみこそ我が糧、我が力。さあ、どうする。我と一戦交えるか」

「無論!」


 父と家光が刀を構えた。たとえ罪のない町娘でも、今のこの二人ならば容赦なく斬るだろう。


「ならば更に苦しむがよい。人の生身に宿った我が力、見せてやろうぞ」


 お榛の両手が前方に突き出された。手のひらは池の水面に向けられている。


水塊来襲インペトゥス・アクアルム!」


 お榛の叫び声と同時に爆音が鳴り響いた。なんたることだ。池の水が持ち上がっているではないか。古びた祠は宙に舞い上げられ、巨大な水の塊が津波のようにこちらへ襲い掛かってきた。


「ぐおっ!」


 逃げる暇もない。瞬くうちにわしら五人は水中へと取り込まれてしまった。

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