本当の敵
雀の鳴き声が聞こえる。瞼を通して日の光を感じる。わしは目を開けた。天井、座敷、長火鉢、その横に座っているのはスケ姫だ。
「いつまで寝てんのよ。もう朝よ」
半身を起こして部屋を見回す。どうやら嘉兵衛の屋敷のようだ。差し込んでいるのは朝日か。半日以上も眠っていたとは、あの術は相当な体力を消耗させるようだな。
「ほら、食べなさいよ。お腹空いたでしょう」
差し出された椀には粥が入っていた。途端に猛烈な空腹に襲われた。人の体とは現金なものだ。
「いただきます」
「あの、スケ様も食べたらどうですか」
「そ、そうね。あたしもまだ朝ごはん食べてないから、あんたがそう言うなら食べようかしら」
すぐに長火鉢へ歩み寄り、土鍋から椀に掬った粥を食べ始めるスケ姫。うむ、やはり食事は一人ではなく二人で食べたほうが美味い。
「お榛さんはどう。もう元気になった?」
「ううん。医者に診てもらったけど数日は床に就いていたほうがいいって。でも、ただの疲れだからよく寝てよく食べれば元気になるって」
そうだろうな。
「お榛ちゃんが言うにはね、雲泥嶺が消えた瞬間、竜体院の声が聞こえたらしいのよ。こう言われたそうよ。『西方の魔を退けた者たち、心より感謝する。これからも我が霊力が続く限り、この蕨の地を見守っていこうぞ』って。お榛ちゃん、凄く喜んでいたわ」
「そうかあ、良かったなあ。戸田川の
「嘉兵衛さんに見に行ってもらったわ。元通り大人しい水来忌に戻ったって。これで昔と同じように渡し船を出せるわね」
肩の荷が下りた。ようやく藤左衛門の頼みを叶えてやれたか。報酬が一夜の宿と鰹の刺身だけでは、ちと割に合わぬ願いではあったがな。
「それからお榛ちゃんからあんたに言付け。『私と竜体院様を助けていただき本当にありがとうございました』って。あたしからも礼を言うわ、お榛ちゃんを見捨てないでくれて、本当に、ありが……」
匙を落としそうになった。スケ姫が礼? このわしに『ありがとう』と言ったのか。いや、最後は声が小さくてよく分からなかったぞ。
「あ、ごめん、ちょっと聞き逃しちゃったみたい。もう一度言ってくれないかな」
「だから、お榛ちゃんがありがとうって言っていたのよ」
「うん、そこは聞こえた。その後、何て言ったの」
「あ、あたしからもあんたに礼を、言って……」
スケ姫の頬がほんのりと桜色に染まっている。柄にもなく初々しい表情を見せてくれるではないか。少しからかってみるか。
「礼を言って、それから、何?」
「そ、それから、あ、あり……」
「ごめん、よく聞こえなかったからもう一度言ってくれない」
「し、しつこいわね。あたしが何て言ったかなんて、あんたには関係ないでしょ」
「おや~、お邪魔だったかなあ~、光右衛門君とスケ姫ちゃん」
唐突に父が姿を見せた。お邪魔だ。訊かずとも分かっているだろう。いい加減に小石川の屋敷へ帰れ。
「目が覚めたか、若旦那」
於カクも座敷に入ってきた。疲れは全く残っていないようだ。魔の使い手である二人の強靭さは桁違いのようだな。
「スケさんに感謝しろ。一晩、付きっきりで看病していたのだからな」
「ちょっとカクさん、余計なことは言わなくていいのよ」
また頬を桜色に染めている。照れずともよいぞスケ姫。おまえが慈悲深い娘であることは分かっているのだからな。
「か、勘違いしないでよ。あんたを看る人が誰もいないから、仕方なくあたしが付いていてあげただけなんだからね。心配なんか全然していないんだからね」
「うんうん、そうだねえ。ここで光右衛門君に死なれると旅ができなくなるから、仕方なく看ていてあげただけなんだよねえ。分かっているよ。スケ姫ちゃんの気持ち、僕にはよーく分かっているよおー」
また軽薄な父に戻ったか。蕨城跡で刀を振るっていた父と同一人物とはとても思えぬな。
「家光さんはどうしたの。まだ蕨にいるの」
「まっさかー、とっくに城へ戻ったよ。僕と違って将軍だからねえ、そうそう遊んでもいられないのさ。それよりもさ光右衛門君、ちょっと話があるんだ。粥を食べながらでいいから聞いてくれないかな」
ほんの少しだが父の表情に真剣味が戻った。かなり重要な話らしいな。
「粥はもう食べ終わったから気遣い無用だよ。何の話?」
於カクが湯呑に茶を入れて持って来てくれた。スケ姫は長火鉢の近くで二杯目の粥を食べている。もうわしは食わぬから直接土鍋から食っていいぞ。
「おまえとお榛ちゃんをこの屋敷に運んだ後、僕と家光君と於カクちゃんの三人で今回の一件についてあれこれ考えてみたんだよ。で、引っ掛かる点が三つ出てきたんだ。あっ、スケ姫ちゃんも話を聞いておいてね」
「は~い、もぐもぐ」
スケ姫はわしに一晩付いていたので話し合いには加わらなかったわけか。しかしよく食うな。もう三杯目だぞ。
「へえ、何が気になったの?」
「どうして碧玉が蕨城跡の祠に移されたのか。どうして水来忌を頭にへばり付けた従者が襲ってきたのか。雲泥嶺が言っていた約定とは何か。この三つに関して激論を戦わせた結果、僕らの本当の敵は他にいる、って結論になったのさあ」
これは予想外の内容だ。父の表情に真剣味が戻ったのも頷ける。それに、言われてみれば確かに気になる事柄ばかりだ。父の話は続く。
「みんなはすぐ祠に走って行っちゃったから知らないと思うけど、実は操られていた従者たちは全員家光君を狙って襲い掛かってきたんだよ。それに気付いた僕は試しに地面に寝っ転がってみたんだけど、誰も僕を襲おうとしなかった。何だか悲しくなっちゃったよ。でもこれで魔の狙いがはっきりしたのさあ」
いや、悲しくなったのは戦いの途中で相棒に寝っ転がられた家光だろう。一歩間違えれば本当に命を落としていたぞ。
「魔の狙いは家光君の命だった、そう考えると碧玉が蕨城跡へ移された理由も分かるよね。宝樹院に家光君が来る機会なんてほとんどないけど、蕨城跡の御殿なら来る可能性大だからね」
「でも魔が家光さんを狙う理由はあるのかな。将軍の命を奪ったところで次の将軍が後を引き継ぐだけだし」
「そう、そこが重要。あっ、於カクちゃん、僕もお茶もらえる」
於カクは長火鉢を挟んでスケ姫と一緒に茶を飲んでいる。どうやら土鍋の粥は二人で平らげてしまったようだ。於カクから湯呑を受け取った父は一口飲んで話を続ける。
「それを解く鍵は雲泥嶺が言っていた約定という言葉だよ。誰かに何かを約束させられていたんだ。その誰かが雲泥嶺を碧玉に宿らせ、蕨城跡の祠に移した。つまり家光君を狙っていたのは魔じゃなくて、その誰かなんだよ」
「じゃあ雲泥嶺は利用されていただけってこと?」
「多分ね。島原の乱で多くの西方の魔は行き場を失くした。そんな魔たちに
「ちょっと待ってよ、何、その話」
スケ姫が立ち上がった。口元には飯粒が付いている。もしかして一晩見守っていたのはわしではなく、粥の入った土鍋だったのではないか。
「じゃあ、あんたたちが蕨城跡に来なかったら、あたしの最初の一撃で雲泥嶺は倒せていたってことじゃない。家光がいなければ約定は果たせず、お榛ちゃんに憑けなかったんだから」
「そういうことになるねえ。僕たちお邪魔だったみたいだね。許して、てへっ!」
「てへっ」で全てが許されると思ったら大間違いだぞ。いや、しかし考えてみればこれで良かったのかもしれぬ。雲泥嶺のあの言葉がなければ、ここまでの推理はできなかっただろう。
考えてみれば雲泥嶺も哀れな魔だ。八年間も待たされてやっと縛りから解放されたと思ったら、呆気なく葬られてしまったのだからな。
「すると次の問題は魔を利用したのは誰か、ってことか。父さんはその正体は何だと思う」
「今は何とも言えないよ。島原の乱の生き残りか。豊臣方の残党か、徳川家に遺恨を抱く大名か。いずれにしてもこの蕨だけでなく、各地に魔の罠を仕掛けていると思うんだよなあ。尾張、紀伊、水戸、そして加賀……」
父の目が険しくなった。加賀、姉の夫である光高が急死した土地、そしてわしらの目的地。今回の件と関係があると言うのか。
「前田家の一件もその誰かによって引き起こされた、父さんはそう考えているの」
「それもまだ分からないね。でもその可能性は決して低くないと思うよ。前田家は外様大名だけど光高君は徳川家大好き当主だったからね。狙われたのは家光君と光高君。誰かの動機が打倒徳川にあるのなら、この二人を標的にしたとしても不思議じゃない。そしてこの二人が狙われたのなら、他の徳川家の者たちもまた標的にされている可能性がある。わしも、それから光国、おまえもだ」
今様言葉マスターの父でも最後は軽薄のままではいられなかったようだ。それほどわしらにとって重い意味を持った言葉だった。魔を利用して徳川家を、この天下泰平の世を覆そうとしている者がいる。今回の一件は彼らが用意した企ての、ほんの序章に過ぎなかったわけだ。
「あ~あ、二人とも暗い顔しちゃって。そんなこと考えたって仕方ないでしょ」
スケ姫の声は明るい。腹が膨れたのですこぶる機嫌が良いようだ。
「火の粉が降りかかってきたら払えばいいのよ。天下最強の魔の使い手、あたしとカクさんの手に掛かれば、どんな狡猾な罠だって立ちどころに粉砕してあげるわ」
「その通りだ。若旦那、大船に乗ったつもりで旅を続ければいい」
「於カクちゃん、スケ姫ちゃん、僕を守ってくれる人は誰もいないんだけど、どうすればいいのかな」
父が情けない声を出している。実に情けない。
「あんたには破魔の刀があるじゃない。あれって家康からもらった武具なんでしょ。刃こぼれするまで斬りまくりなさいよ」
「うん、頑張る!」
父も随分と前向きだな。まあ、小石川の屋敷には玄蕃もいることだし何とかなるだろう。
縁側の障子を通して日の光が差している。間もなく五月か。今日は暑くなりそうだな。
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