開かぬ手箱
わしの額に何かが押し当てられた。手のひらだ。横を見るとスケ姫が己の額にもう片方の手のひらを当てて立っている。
「熱はないみたいね」
ほととぎずは高熱による幻覚だとでも思ったのか。いや、むしろ熱があって病の
「あ、ごめん。梅の葉をほととぎすに見間違えたみたい。お騒がせしてごめんね、みんな」
「どうやったら梅の葉とほととぎすを見間違えるのよ。言葉だけじゃなく頭まで腑抜けてんじゃない。しっかりしてよ、若旦那」
スケ姫の手のひらがわしの額をパチンと叩いた。これでも少しは心配してくれたのだろうか。ちょっとだけ嬉しくなった。
「それよりも碧玉だ。お榛さん、早く見せてくれ」
「あ、はい。カクさん、分かりました。でもその前にひとつ聞いておいて欲しいことがあります」
「何だ」
「碧玉を
ふむ、家光もわしらと同じく西方の魔が竜神に憑いたと考えたか。それなりに努力はしたようだな。
「けれども開かなかったのです。力自慢の家臣が何人も開けようとしたのですが駄目でした。最後には手箱を壊そうとまでしたのですが、それだけはお許しをと住職様が伏して頼んだので、『こりゃあ僕の手には負えないよ。ごめんね』と言われて諦めてしまったそうです」
「なーんだ。それなら心配する必要ないわ。カクさんはすっごく力が強いんだから。手箱くらい簡単に開けちゃうわよ、でしょ」
「いや、それは何とも言えぬ」
於カクは考え込んでいる。わしも同意見だ。家光が腑抜けだとしても家臣は精鋭揃いのはず。それが束になって開かないとなると、力だけではない別の何かが必要なのかもしれぬ。
「お榛さん、話は分かったよ。とにかくその手箱を見せてくれないかな」
「はい。では住職様を呼んで参ります。皆様は本堂で待っていてください」
お榛が小走りに駆けていく。わしらは本堂で待つことにした。開け放しの扉から梅の木を眺めると、ほととぎすは身じろぎもせずに枝にとまっている。それは不吉の象徴というよりは、むしろ冥土から加勢に駆け付けてくれた援軍のように思われた。
「お待たせしました。これが竜体院さまの手箱でございます」
しばらくしてお榛と住職が本堂にやってきた。板敷の床に布を敷き、
「ほう、これは見事な細工物だ」
岩のように動じない於カクの心を揺り動かすほど、それは名品と呼ぶに相応しい手箱だった。円形の蓋と器には黒漆が何層も塗り重ねられ、蒔絵で描かれた榛名湖の水面から、
「なんだか触るのが恐いくらい綺麗ね」
闘争と食い物にしか興味のないスケ姫も、この手箱の美しさは分かるのか。ちょっとだけ見直したぞ。
「開けてみよう。よろしいか」
「はい。大切にお頼みします」
住職が差し出した手箱を於カクが掴む。丁寧にそして確実に於カクは力を籠めていく。わしら四人はその手元を見続けた。動かない。手箱も於カクの手も凍り付いたかのように動かない。
「駄目だな」
於カクは布の上に手箱を置いた。わしら四人の緊張の糸が一斉に緩む。
「思った通りだ。これは力では開かぬ」
「力じゃなきゃ何で開くって言うのよ」
スケ姫がじれったそうにしている。己も試してみたいのだろうが、於カクの力で開かぬものをスケ姫が開けられるはずがない。それが分かっているから余計にやきもきしているのだ。
「住職、ひとつ尋ねたい。この手箱は常に手入れをされているのか」
「いえ、八十年前より誰の手にも触れられることなく宝物庫に保管されていたと聞いております。私もこの手箱に触れたのは八年前の将軍家光様ご来院の時、そして皆様方が訪れた本日。この二度だけです」
驚いた。手入れもされずにこれだけの美しさを保っていると言うのか。手箱の表面には塵や埃はもちろん色褪せも曇りもない。まるで昨日仕上がったばかりのような美しさだ。
「なるほど。恐らくこの手箱は魔の力によって守られているのだろう。魔の封印を破るには魔の力を使うしかあるまい。スケさん、魔剣の柄をこの手箱に当ててみてくれないか」
「いいけど」
スケ姫は腰から魔剣を外し手箱に当てた。柄頭に埋め込まれた赤珊瑚が淡い光を放ち始める。
「えっ、どうして光ってるの。強い魔が近くにいなきゃ光らないのに」
なんだと。その魔剣、そんな便利な仕掛けが組み込まれているのか。知らぬまま旅を終えるところだったぞ。
「若旦那、玄蕃殿より抗魔の武具を譲り受けたはず。それも当ててくれぬか」
「うん、分かった」
懐から印籠を取り出し手箱に当てる。蒔絵で描かれた葵の御紋が淡い金色に輝き始めた。なんと、この印籠にもこんな仕掛けがあったのか。どうやら玄蕃自身も知らなかったと見えるな。
「これで手箱の封印は弱まったはず。修行時代に習った術だが試してみるか」
於カクが右手を蓋に当てた。静かに息を吐き、おもむろに息を吸った後、天に轟く遠雷の如き低い声を発した。
「動くこと
「むっ!」
印籠に微かな振動を感じた。同時に葵の御紋の光が消えた。魔剣の赤珊瑚の光も消えている。
「カクさん、開いたの?」
スケ姫の問い掛けには答えず、於カクは右手をゆっくりと持ち上げた。右手は蓋を掴んだままだ。開いたのだ。
「おお、やりましたな」
住職は興奮を隠そうともせずその身を於カクの傍らに寄せた。数十年に渡って手箱を守ってきたのだ。碧玉を直に見たい気持ちを抑えきれないのだろう。だが、
「こ、これは!」
中を覗き込んだ住職の驚きの声と困惑する顔。それはわしら三人も同じだった。ないのだ。そこにあるはずの碧玉がないのだ。手箱の中は空だった。
「あり得ませぬ、このようなこと。開かない手箱から碧玉が消えるなど……」
「聞け!」
厳かな声が住職の言葉をさえぎった。お榛の声だ。しかしお榛の言葉ではない。いつの間にか立ち上がったお榛は、その姿もその表情も、人ではない別の何かに見えた。
「お、お榛ちゃん、どうしたの」
怖いもの知らずのスケ姫の声が震えている。いや、怖いのではなくお榛の異変を心配しているのだろう。
「案ずるな。わらわは竜体院。碧玉に宿りし竜神。数十年の長きに渡ってこの地を見守ってきた。が、八年前、碧玉に打ち込まれた楔によりわらわの魂は奪われた。その者の名は
本堂に響いていた言葉が途切れると、お榛の体は崩れ落ちるように床板へ倒れた。
「お榛ちゃん!」
スケ姫と於カクがその体を支える。二人の腕の中でお榛はすぐ目を覚ました。
「あたし……あたし聞こえたわ。そして感じた。竜体院様にはもう力がほとんど残っていない。悪しき魔に奪われ、今も奪われ続けている。助けてあげなくちゃ。蕨城へ行きましょう」
「もちろんよ。竜神様の頼みを断ることなんかできないもの。若旦那、訊くまでもないけど当然行くわよね」
スケ姫は
「もちろんだよ。今度こそ碧玉を見付けて西方の魔をやっつけよう。スケ様、カクさん、頼りにして……」
――お気を付けくだされ、若君。罠はすでに張られておりますぞ。
それは突然聞こえてきた。懐かしい声。かつて何度も聞いていた声。間違いない、玄蕃だ。だがこの異世界で聞いた四十代の玄蕃ではない。冥土で聞いた六十代の玄蕃の声だ。
「何故、玄蕃の声が……」
その時、わしは気付いた。本堂の扉から見える梅の木には、まだほととぎすがとまっている。わしをここへ連れてきた冥土の鳥。その冥土で玄蕃は言っていた。「……いつでも草葉の陰から若君を見守っておりまする」と。ほととぎす、もしやおまえは冥土にいる玄蕃の想いを、この異世界へ連れてきてくれたとでも言うのか。
「きょっきょ、きょっきょ」
ほととぎすは返事をするように甲高い声で鳴くと、枝を離れて曇天の中へと飛び去った。きっとその方角に蕨城はあるのだろう、わしは漠然とそう思った。
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