板橋宿の奇遇

「やったー、雨が上がったぞ」


 翌日は朝から抜けるような青空が広がった。昨晩気合いを入れて三十体の照々法師を作った甲斐があるというものだ。


「ちっ、遂に晴れちゃったわね。あーあ、豪華なお食事三昧の日々とも今日でお別れか」


 よくもまあ雇い主の面前でそんな言葉が吐けるものだと思うのだが、隠し立てして良い子ぶったりしないのがスケ姫の長所とも言える。育ち盛りの一六歳でもあるし、小言はやめておこう。


「お世話になりました」


 しっかりと朝飯を済ませ礼を言って屋敷を出る。閉められた門の向こうで塩を撒くような音がした。厄介払いができて清々せいせいしていることだろう。こちらもようやく旅を始められて清々すがすがしい気分だ。日の光は誰をも幸せにする力を持っているようだな。


「まずは板橋宿を目指すよ。二人ともちゃんと付いて来てね」

「承知した」

「ふふん。あんた、すっかり若旦那気取りね」


 江戸と各地を結ぶ主要な街道は五つ。その起点はいずれも日本橋である。だからと言って誰もがそこから旅を始めるわけではない。

 日本橋は道中奉行によって定められた各街道の起点という意味しかない。従って東海道ならば最初の宿である品川宿が実質上の起点であり、中山道なら板橋宿が旅の始まりと言える。

 両者とも江戸市中にある宿だ。見送りの者たちはこの宿まで随行し、別れの宴を催し、旅人を送り出すのだ。


「今朝は発つのが遅れたけど六里は歩けると思うんだ。今日中に浦和宿辺りまで行っておこうよ」

「心得た」

「嫌よ」


 二人から正反対の言葉が返ってきた。拒否の回答は言うまでもなくスケ姫だ。


「えっと、スケ様。六里というのはあくまでも控えめな距離で普通は一日十里。女の足でも八里は進むものなんだよ。浦和宿まではここから五里ほどしかないんだし、余裕で行けると思うんだけど」

「それは暁七つに出た場合でしょ。あたしたちが出たのは朝五つ半頃。二刻半も遅れてるんだから無理よ」

「遅れたのはスケ様が『朝ご飯を食べないと歩けない』とか言って動こうとしなかったからじゃないか。原因を作ったのはスケ様なんだから頑張って歩いてもらわなくちゃ困るよ」

「なによ、あたしが悪いって言いたいの。お腹が空いていたら歩くのが遅くなって、浦和どころか板橋にだって着けないはずよ。こうしてあんたたちと同じ速さで歩いてあげているあたしに感謝しなさい」


 途端にスケ姫の足が遅くなった。言い合いをしても疲れるだけで何の益も生まないようだな。もはや言い返す気力も失せた。こうなったら好きにさせておこう。溜め息で返事をして口を閉ざすと於カクがスケ姫の肩を叩いた。


「スケさん、とにかく板橋宿までは行っておこう。平尾にある茶屋の饅頭はうまいぞ」

「行く。絶対に今日中に行って食べる」


 途端にスケ姫の足が速くなった。なるほど、ヤル気を出させるには食べ物で釣るのが有効なのか。まだ出会ってからひと月も経っておらぬというのに、於カクはすっかりスケ姫の操縦法を心得てしまったようだ。二人の主として見習わねばな。


 本郷から平尾までは一里半ほどだ。のんびりと歩いて一刻もかからずに中山道最初の宿場、板橋宿に到着した。

 板橋宿は平尾宿、中宿、上宿の三つに分かれている。日本橋から一番近い平尾宿は川越街道の起点でもあり、分岐点となる平尾追分の近くには一里塚が立っている。茶屋はこの一里塚の傍にあった。


「いただきま~す」


 朝飯を食べてからさほどの時も経っておらぬのにスケ姫の食欲は旺盛だ。わしも一口食べてみる。うむ、疲れが吹き飛ぶうまさだ。これを昼飯代わりにしてすぐに歩け出せそうだ。


「最初の宿場町にしては人が多いわね。旅が始まったばかりで宿に泊まる人がこんなにいるの?」


 スケ姫の疑問はもっともだ。江戸を発って板橋で宿を取る旅人などいるわけがない。ここはまだ江戸市中。旅人でなくても酒や女郎を目当てに人がやって来る。だから賑わっているのだ。


「ここにいる人全部が全部、旅人ってわけじゃないからね。ほら、あんな風に普通の町人なんかもここに来て、一杯飲んで食べて騒いで帰っていく……おや」


 十間ほど離れた場所に遊び人風の男が二人、連れ立って歩いている。着流しの上に羽織を引っ掛け、頭に丸頭巾、足袋に草履。どこからどう見ても町人なのだが、その顔には見覚えがある。


『ば、馬鹿な!』


 胸の内で叫び声をあげた。一人はわしの父、頼房。そしてもう一人は、あろうことか将軍家光である。徳川家の重鎮二人が供のひとりも付けずにふらふらと歩いているのだ。


『見間違いか。いや、確かに父だ。どうしてこんな所にいるのだ。いやいや、わしらこそどうしてこんな所にいるのだと詰問されそうだ。見付かってはまずい』


 わしは軒先にある縁台からすぐさま立ち上がると、茶屋の物陰に隠れて二人を手招きした。


「スケ様、カクさん、こっちへ来て」

「ぷっ、光国、じゃなくて若旦那。何やってんのよ。かくれんぼ?」

「いいから、早く」

「心得た」


 於カクも父の姿に気付いたのだろう。すぐに茶屋の物陰に身を潜めてくれた。しかしスケ姫は縁台に腰掛けたままのんびり茶を飲んでいる。


「スケ様、早く!」

「うるさいわねえ。食後のお茶くらいゆっくり飲ませなさいよ」


 父と家光はゆっくりではあるが着実にこちらへ近付いてくる。このままでは確実にスケ姫は見付かってしまうだろう。と、於カクが懐から饅頭を取り出した。


「スケさん、ここに饅頭がある。食わないか」

「食べる!」


 スケ姫は湯呑を置くとすぐにわしらの所へやって来た。そうだった。スケ姫を動かすには食い物を使えばよいのだ。よし、懐にはスケ姫誘導用の食い物を必ず忍ばせておくようにしよう。


「ねえ、ところであたしたち、どうしてこんな所に身を潜ませていなきゃいけないのよ」


 饅頭を食べ終わったスケ姫がようやくただならぬ事態に気付いてくれたようだ。わしは指先でこちらに歩いて来る二人の男を指差す。ぼんやり眺めていたスケ姫の顔が驚きに変わった。


「えっ、ウソ!」


 目を丸くして口を押えている。厚顔無恥のスケ姫もさすがに二人に見付かるのはマズイと思ったのだろう。その程度の羞恥心は持っているようだな。


「置かれている状況が理解できたのなら静かにしていてね」


 小声で囁くとスケ姫は口を押えたまま頷いた。そのまま息を潜めて二人が通り過ぎるのを待つ。うむ、大丈夫だ。こうしていれば気付かれることはないだろう。取り敢えず危機は去ったようだな、と安心した瞬間が実は一番危険なのである。油断大敵とはこのような時のためにある言葉と言えよう。


「あら、そこにいるのは光国ではなくて」


 背後から聞こえてきた声に思わず振り向く。なんたることだ。そこには姉の大姫が立っていた。


「ね、姉さん!」


 驚いた。姉がここにいることだけでなく、その姿にも驚かされた。長かった髪が肩の辺りでバッサリと切られているのだ。


「その髪……」

「ああ、これ。落飾したのです。どう、短い髪も素敵でしょう」


 そうか。当主が没すれば正室は髪を落として仏門に入るのが習わしであったな。と言っても出家するわけではないので、尼のように丸坊主にはせず髪を短く切るだけだ。


「号は清泰院せいたいいんと付けてもらいました。これからはせい様とでも呼んでもらおうかしら」


 心なしか言葉遣いが以前に比べて上品になっているような気がする。落飾して心まで清められたか。良いことだ。


「あれ、そこにいるのはひょっとして光国君、じゃなくて光右衛門君?」


 しまった、と思って振り向けば父と家光が目の前に立っている。姉の出現に気を取られ二人のことをすっかり忘れてしまっていた。まずいな。この窮地、何とか切り抜けねば。



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