第二章 蕨宿の竜神
第一話 板橋宿の遊び人
スケ様は雨が嫌い
江戸から加賀への道筋は二通りある。中山道を歩いて追分宿まで行き、そこから北国下街道に入って越後高田宿から南下し加賀へ至る道。
もうひとつは東海道または中山道を歩いて近江まで行き、そこから北国上街道に入って北上し加賀へ至る道である。
加賀前田家の参勤交代は前者を使う。距離的に短いという理由の他に、通過する領地の問題があるからだ。
北国上街道には徳川一門の越前松平家。中山道には譜代大名筆頭の近江井伊家。そして東海道には御三家筆頭の尾張徳川家が存在する。
外様大名の加賀前田家としては、これらの領地に足を踏み入れるだけで非常に気を遣わねばならない。宿を取るとなれば尚更だ。難所の多さと街道筋の不便さを考慮しても、参勤交代に北回りの道を選ぶのは必然と言えるだろう。
「わあー、今日の夕食は剥き身切干ね。あたし好きなんだあ、これ」
スケ姫が本日の料理を見て歓声を上げている。わしら三人は夕餉の膳についているところだ。
「ふむ、
うまいと言う割には於カクの表情はいつもとまったく変わらない。淡々と箸を動かし、料理を口に運んでいる。
「カクさん、もっと味わって食べなさいよ。剥き身は普通なら
「おや、吸い物も蛤か。まるで桃の節句だな」
「カクさんは桃ではなくて端午の節句がお似合いよね」
普段は無口な於カクも飯の時は饒舌だ。最近の楽しみと言えば食うことくらいしかないからな。岩のように硬い心も飯の時は柔らかくなるようだ。
「ええっと、それで旅の話なんだけど、僕たちも前田家の参勤交代と同じく、中山道から北国下街道を通って行ったほうがいいんじゃないかなあ」
いつまでも飯の話では気が引ける。旅人らしく街道の話題などを出してみるが、
「んっ、旅? どうでもいいわ。光国、じゃなかった若旦那の好きにしなさいよ」
「お任せする」
などと連れ無い返事しか返ってこない。それどころか、
「すみませーん、ご飯のお代わりお願い!」
「私もだ」
などと言い出すので、二人の
「ちょ、ちょっと二人とも、少しは遠慮してくださいよ」
「うるさいわね。腹が減っては旅はできぬって言うでしょ」
「スケさん、できないのは旅ではなく
於カクもうまいことを言うものだ、などと感心してもいられない。給仕の女中は何も言わないが、その内心は
「もう四日目だって言うのになあ。やれやれ」
思わず愚痴が出てしまった。小石川の江戸屋敷を発ったのが一六日。今日は一九日。スケ姫が女であることを考えても一日八里は歩けるはず。よって今頃は上州板鼻宿辺りにいなければならないのだ。しかしわしら三人がいるのは、
「あ~、さすがは加賀百万石の前田家。毎日が宴会みたいなお食事ね。ごちそうさまっ!」
そう、スケ姫の言葉通り、非常に不本意ながらここは本郷にある前田家の下屋敷なのである。旅を始めて四日も経つのにまだ江戸市中にいるのだ。
このような事態に至った要因はいくつかある。
「加賀屋の若旦那が旅を始めるのはさあ、前田家のお屋敷からじゃないと不自然だよ。金箔五百枚を届けた帰り道って設定なんでしょ。全然関係ないこの屋敷から旅を始めるのはどうかと思うよお」
などと父が言い出したのがケチのつき始めだった。そこまでこだわる必要はなかろうとわしも玄蕃も進言したが、
「真相を探るために身分を偽るなら徹底的にやるべし! まずは金箔五百枚を持って前田家の屋敷へ行くのだあ!」
と、まるで聞く耳を持たない。さすがに当主の意向には逆らえないので、わしら三人はさっそく加賀屋御一行の装束に着替えた。
わしは寒がりなので袖なし羽織を小袖の上に重ね着し、下は歩きやすいように裾を絞った
「あたしはこのままで行くわ」
スケ姫は白の小袖に緋色の野袴。ただし袴の裾には舶来品の黒い
「さらしを巻くのか。仕方あるまい」
於カクは法被と股引、それに加えて胸にはさらしを巻いてもらった。
「魔の術を使うことは多分ないと思うけど、万が一ってこともあるしね。楓の痣が浮き出る部分はさらしで隠しておいたほうがいいでしょ」
と言いくるめてなんとか着用させた。
言うまでもなく本当に隠して欲しいのは痣ではなく乳である。全力で走っても微動だにせぬ堅固な乳ではあるが、目に入るとどうしても気になってしまう。街道の旅人にとって於カクの乳は目の毒だ。
「当面の路銀です。無駄遣いなさらぬように」
玄蕃からは銭の入った胴巻きと数枚の為替手形をもらった。為替は宿場にある両替商で銭と交換できる。この金の出所はもちろん前田家である。ケチな父が出してくれるはずがない。
「やだあ、雨が降ってる~。あたし雨は大嫌いなの」
旅立ちの一六日は
「確かに受け取りました」
前田家から持たされた金箔五百枚を無事前田家に返却する。これでこの屋敷に用はない。すぐにでも加賀への旅を始めねばならない。のだが、スケ姫の甘い言葉がわしの心を揺るがせた。
「ねえ、加賀への旅は雨がやんでからにしましょうよ。雨が降っては旅はできぬって言うじゃない」
いや、そんな諺は聞いたことがないと言うべきであった。しかしそれに追い打ちを掛けるように、
「よければ今日はここでお休みになられて、明日発たれては如何ですか」
と前田家からも甘い言葉を聞かされてしまったので、
「う~ん、そうだね。急ぐ旅でもないし。ではご厚意に甘えて」
と言ってしまったのが運の尽き。雨は一日中降り続き、翌日もその翌日も降り続き、今日もまだ降り続いているのである。さすがに辛抱できず、昨日の朝、
「えっと、スケ様。これくらいの雨なら歩いてもさほど濡れないと思うし、そろそろ出発しませんか」
と言ったのだが、
「なによ。雨がやんでから旅に出るって言ったじゃない。男に二言はないんでしょう」
と言い返されてしまった。
「いつになったら出て行ってくれるのかねえ」
夕餉が終わって片付けをしている女中の愚痴が聞こえてくる。もちろんこの屋敷の者は誰一人わしら三人の素性を知らぬ。加賀の商人とその従者としか思っていない。そんな
『姉上がこの屋敷にいなかったのが不幸中の幸いであったな』
わしが七二歳で亡くなった時には、本郷にあるこの屋敷が前田家の上屋敷だった。だが今は和田倉門近くの屋敷が前田家の上屋敷で、ここは下屋敷だ。
わしら三人の素性を知っているのは、姉と江戸家老を始めとする数人の重臣たちだけ。その者たちは皆上屋敷にいる。
『このような有様、恥ずかしすぎて姉上には見せられぬ。一刻も早く出立せねば。そのためには雨雲を退散させるしかあるまい』
わしは腰を上げた。これから寝所に割り当てられた座敷に戻って
「今夜も法師作りか。精が出るな、若旦那」
「カクさんも手伝ってくれないかな。一日でも早く雨がやむように」
「数が多ければ効き目が大きくなるというものでもあるまい。布の無駄だ」
於カクの合理的思考に頭は納得してくれる。が、感情は同意してくれない。溺れる者は藁をも掴むの心境なのだ。
わしは寂しい笑顔を浮かべると一人寝所に向かった。下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる、今宵は三十体ほど作ってみるかと考えながら。
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