出立前夜

 夜風が心地良い。今宵は満月か。開け放した障子の桟が座敷に影を落としている。中庭の井戸にへばりついた水来忌すらいむが月光を反射してプルプルしている。わしは茶を飲んで物思いにふけっていた。


「若君は月見ですかな」


 玄蕃だ。控えの間から入って来たのか。


「玄蕃君、若君はやめてよ。僕は光右衛門みつえもん。しがない町人にすぎないんだから」

「明日からは嫌というほどその名で呼ばれるのです。今宵くらいは若君と呼ばせてくだされ。昔言葉でお話くだされ」

「そうか、そうだな」


 玄蕃の心遣いに感謝した。加賀への旅は明日から始まる。明朝この屋敷を出た瞬間、わしは加賀屋の光右衛門になるのだ。


「僅か数日で旅の支度を整えるとは、相変わらず仕事が早いな」

「前田家のお力添えがあったればこそです。それがしの手柄ではありません」


 二人の旅の従者が決まった後は、旅の名目をどうするかが問題になった。旅に必要な道中手形は奉行所に届け出て入手する。その際、旅の目的も明らかにせなねばならない。馬鹿正直に「光高の死を調べるために水戸徳川家の世継ぎである光国が加賀へ行く」などと届けては、加賀前田家も警戒して真相究明などできようはずがない。

 姉や玄蕃とも相談の上、公儀隠密と同じく身分を偽るのがよかろうとの結論に至った。わしは加賀の金箔問屋の若旦那、光右衛門。於カクは加賀屋の奉公人。スケ姫は雇われ用心棒の浪人と称することにした。

 旅については「江戸の前田家へ金箔五百枚を納入し国許へ帰る」という名目にした。手形の偽造などおいそれとはできぬ芸当だが、前田家の他に将軍家まで手を貸してくれるとあれば話は別。容易たやすく全ての支度が整ってしまった。


「最後の夜です。一献いっこん如何ですか」


 玄蕃が銚子ちょうしを掲げた。別れのさかずきか。だが閻魔との約束がある。不飲酒は五戒のひとつ。この異世界に来てからは一口の酒も飲んではいない。わしは頭を横に振った。


「一杯程度ならば閻魔大王様とて許してくれるはず。多少は大目に見てやると言われたのでしょう」


 今宵の玄蕃は妙に人懐っこいな。別れを前にして哀惜の情が募ったか。


「ならば、もらおうか」


 玄蕃の酌で一気に飲み干す。酒が目にまで染みてくる。今宵は満月か。この異世界に来たのも満月の日だった。まだ三カ月しか経っておらぬのだな。

 思い出す。腑抜けた今様言葉、プルプルの水来忌、光高を失って嘆く姉、スケ姫の魔剣、於カクの相撲と変化……


「月に風、裸になって相撲かな」


 発句が口から零れ落ちた。わしもまた少々憂愁の情に浸されているようだ。


「於カクさまとの相撲、お見事でありました」

「うむ。そのおかげで於カクの秘密も知れた。あの娘ほど飾り気のない者はおらぬであろう。体だけでなく心も隠そうとしない。外も内も裸でありながら堂々としておる」

「潔い女子でありますな」

「玄蕃よ、於カクは全てを話してくれた。ならばわしもあの二人に素性を話すべきではないのか。これからは昼夜を問わず共に過ごさねばならぬ。隠し通すのは大変なことのように思われるのだが」

「いえ、それはなりませぬ」


 玄蕃はきっぱりと否定した。これほど強い口調で答える玄蕃も珍しい。


「何故だ。あの二人を信用しておらぬのか」

「いえ、スケ姫様はともかく於カク様は信頼の置けるお方でしょう。さりとて人は弱い者。簡単に心を乱されます。若君は別の世からこの異世界に来た、それだけならば心乱されることはありますまい。後の世から来たという事実が人の心を乱すのです。その威力は魔の術に匹敵すると言えましょう」


 玄蕃が何を言いたいのかよく分からぬ。後の世から来たことがそれほど大きな意味を持つのか。とてもそうは思えぬ。玄蕃は話を続けた。


「若君はすでに心乱された者を見ております。光高様の死を知った時のそれがしと大姫様の恨みと悲しみ。もし若君が光高様の死を知らなかったのなら、それがしも大姫様も恨みの感情など持ちえなかったでしょう。後の世に何が起きるか知っている、それは若君を利することもあれば害することもある諸刃もろはの剣。他の者に知られれば必ずや若君の身に危険が及びましょう。たとえ旅の従者といえども軽々しく口にするものではありませぬ」


 そうか、わしが後の世から来たことが問題なのか。確かに光高の一件では玄蕃も姉もわしを恨んだであろうな。知っていながら教えなかったのだから。

 後の世の出来事を知りたがらない者などおらぬ。その為ならどんな手段も厭わない者も多いだろう。我が身を守るためにも、わしの素性を知る者は玄蕃と姉だけにしておいたほうが賢明だな。


「よく分かった。わしの素性は誰にも明かさぬ。玄蕃、できるならおまえを連れて行きたいものだな。これほど旅の供に相応しい者はおらぬ」

「ならば連れて行ってくださりませ」

「なんだと……」


 本気で言っているのか、それとも冗談なのか。次の言葉を継げないでいるわしに笑顔を向けながら玄蕃は懐から何かを取り出した。


「これをそれがしと思い、旅の供としてくださりませ」

「これは……印籠か」


 手渡されたのは平たい楕円形の印籠だった。黒漆塗りでずしりと重く、表側には徳川家の家紋である三つ葉葵の蒔絵が描かれている。


「覚えておりますか。スケ姫様との手合わせの時、それがしが若君を庇った時にスケ姫様がつぶやかれたお言葉」

「うむ。覚えている」


 忘れるはずがない。あの時は本気で死んだと思ったからな。確か、「ちっ、玄蕃ったら。抗魔の武具を持っていたのね」と言っていたな。舌打ちの好きな娘だ。


「その印籠は我が祖父が信玄公より直々に賜った抗魔の武具です。今ではその力もほとんど衰えましたが、かつてはどんな魔の術にも抗える力を持っていたと聞いております。本来表には当家の家紋が彫られておりましたが、此度の旅立ちに合わせ徳川家の家紋を描かせました。道中、魔との戦いに巻き込まれることもありましょう。印籠の中には万病に効くという越中の妙薬万金丹まんきんたんも入れておきました。お役立てくだされ」


 信玄から賜った抗魔の武具だと。そんな大切なものをわしのために差し出すと言うのか。


「いいのか、玄蕃。これはおまえが肌身離さず持っていた先祖伝来の家宝なのだろう。容易く手放せるものではないはずだ」

「よいのです。この家宝はこれまで何の役にも立てられませんでした。いわば宝の持ち腐れだったのです。スケ姫様との手合わせでようやく日の目を見せてやれました。それがしの元にあるよりも若君と共に旅をさせたほうが印籠も喜びましょう。お持ちくだされ」

「玄蕃……」


 この男の海よりも深い思い遣りにわしは何度助けられたことだろう。元の世で、冥土で、そしてこの異世界で。不意に目頭が熱くなった。今宵の月光は目に染みる。


「玄蕃、もう一杯注いでくれぬか」

「あまり飲み過ぎますと閻魔大王様に叱られますぞ」

「これが最後の盃だ。三杯目は加賀から無事戻った時に、おまえの酌で飲ませてくれ」

「楽しみに待っておりますぞ」


 注いでくれた酒を飲む。明日からは光右衛門としての新しい日々が始まるのだ。その日々の中にこれまで頼りにしてきた玄蕃はもういない。不安はある。心許無い気持ちで一杯だ。江戸と加賀を往復する二百四十里、多くの困難と試練がわしを待っているに違いない。だがわしには印籠がある。二人の心強い供がいる。必ずや目的を果たして江戸へ戻り、再び玄蕃と酒を酌み交わすのだ。三杯目の酒はそれまでお預けにしておこう。


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