岩竜の御加護

 白煙の中から現れた娘は両手で胸を隠してうずくまっている。狭い肩幅、華奢な背中、むっちりとした太もも。於カクとは似ても似つかぬ体付きだ。しかし身に着けているのは間違いなく於カクの着ていた法被と股引。なんらかの理由で姿が変わってしまった、そう考えるしかない。


「ちょっとごめんね」


 突然スケ姫が娘の背後に近付いた。両手を前に回して乳を掴もうとしている。


「きゃ、スケさん、何をするの」

「カクさんだってやったじゃないの。あたしにも乳を揉ませなさい」

「きゃあー!」

「……柔らかい。あたしより大きいのに、こんなに柔らかい……」


 スケ姫は力なく於カクの背後から離れた。落胆する気持ちは分からないでもないが、今は乳比べなどしている場合ではない。


「スケさん、これは一体どういうこと。カクさんに何が起きたの」

「知らないわよ。あたしだってカクさんに会うのは今日が初めてなんだから」

「玄蕃、おまえは知っていたのか」

「いえ。よもやこんなことが起ころうとは……」

「姉さんは、知るわけないか」


 こうなれば於カク本人に訊くしかない。極力優しい声で話し掛ける。


「えっと、君は於カクさん、なんだよね。もしよかったらどうしてこんなことになったのか、話してくれないかな」

「痣です。触れられるとこうなるんです。岩竜のせいです。そこだけ加護がないんです。分かったのはずっと後です。楓がいけないんです。術を滅多に使わなかったから忘れていたんです」


 全く要領を得ない話だ。肉体だけでなく精神も相当柔らかくなってしまったようだな。さてどうしようかと思案していると姉が於カクの体に羽織を掛けた。


「ひとまず女同士で話をしたほうがいいわね。光国と玄蕃さんは小居間で待っていてください。私が話を聞いてみるわ。スケさん、あなたも来て」

「はーい」


 うむ、さすがは姉だ。ここはひとまず任せるとしよう。羽織を着せられた娘は姉とスケ姫の二人に抱えられるようにして中庭を出て行った。


「それにしても殿がこの場にお見えにならなかったのは不幸中の幸いでしたな」


 同感だ。もし父が居たら、於カクは黄色い悲鳴を上げ続けねばならなかっただろう。

 わしと玄蕃は家臣たちが休憩に使う小居間で茶を飲んで待つことにした。茶菓子を食べながら一杯飲み干し二杯目がなくなった頃、ようやく三人が小居間にやってきた。於カクは元の姿に戻っている。


「迷惑を掛けた。すまぬ」


 小居間に入るや、於カクは両手をついて深々と頭を下げた。外側だけでなく内側も元に戻ってくれたようだ。


「とにかく話を聞かせてよ。一体全体どうした訳なの」

「簡単に言おう。普段ならばあのようなことは起きぬ。魔の術を使った時だけだ。術中そして術後しばらくの間、私の背中に楓の痣が現れる。そこに男、もしくは魔をまとった者の肌が触れると、あのような姿になる。痣が消えれば元の姿に戻る。だいたい四半刻くらいだ。話は以上だ」


 要点は全て述べられているが、話が簡単すぎて今一つ飲み込めない。それに中庭で言っていた『岩竜のせい』という言葉も気になる。


「だいたい分かったけど、どうしてそんな体になっちゃったの。生れ付き? それとも何か理由があるの?」

「それを話すと長くなる。構わぬか」


 一同、頭を縦に振る。於カクも頷くと話し始めた。それは次のような話であった。


 * * *


 私の魔の力は生まれ付いてのものではない。幼い頃はどこにでもいる平凡な童女にすぎなかった。寺を飛び出し山野を駆け巡って修行に明け暮れている時も、私の体は一般の男たちと大差なかった。

 ある日、修行仲間の一人からこんな話を聞いた。


石州せきしゅうの山奥に岩竜なる魔が住んでいる。その竜に戦いを挑んで勝てば魔の力を授けてくれるらしい」


 話を信じたわけではない。どこへ行くあてもない流浪僧が選んだ次の目的地に過ぎなかった。私は石見の国へ向かった。山を谷を川をくまなく歩いているうちに、とある滝のほとりにたどり着いた。季節は初冬、山を紅葉色に染めていた楓は散り始め、滝の水に乗って滝壺へと落ちていく。


「ちょうどいい」


 流れに沿って落ちる楓目掛けて拳を振るった。突きの修練のつもりだった。が、それが岩竜の目を覚ましてしまった。


「我に戦いを挑むか」


 地響きのような声と共に滝の岸壁がせり出してきた。その滝は岩竜の住処だったのだ。


「なんという僥倖。お手合わせ願おう」


 私は岩竜と戦った。圧倒的な強さだった。速さも力も硬さも到底私の及ぶ所ではなかった。手の皮は剥け、左肩は脱臼し、右足の骨は砕かれた。それでも私は戦い続けた。このまま命を落としても構わぬと思った。その必死の覚悟が伝わったのだろうか、岩竜の鋼のような鱗が一枚剥がれた。


「ぐおー!」


 凄まじい咆哮と共におびただしい血が私に降り注いだ。全裸で戦っていた私の体はくまなく岩竜の血に覆われた。


「よくぞ我に傷を負わせた。その武功に報いてやろう。おまえに山の魔の力を授ける。岩竜の血は常におまえを加護しようぞ」


 その言葉を残して岩竜は消えた。言葉はまことだった。岩竜の血が肌に吸い込まれて消え去ると、私の肉体は岩のように硬くなり、口は自ずから山の魔の呪文を唱えた。自分だけでなく他者も物体も重くする術。初めは大した効果もなかったが、何度も唱えるうちに術の力は増していった。


 そんなある日、術を使い終わった私は仲間の修行僧に汗を拭いてもらっていた。今日の光国殿と同じだ。そして背中に痣があると指摘され、そこに触れられた途端、か弱い女の姿に変わってしまった。

 驚いた。私自身、何故このような変化へんげが起きるのか、まったく分からなかった。が、痣の形が楓にそっくりだと聞いてようやく事情が飲み込めた。

 岩竜と戦った地には散り際の楓が多数舞っていた。岩竜に傷を負わせて血を浴びた時、恐らく舞っていた楓の一枚が偶然私の背中に貼り付いたのだ。その為にそこだけ血を浴びられず、岩竜の加護を受けられなくなったのだ。


 更に詳しく調べるため、様々な者に様々なやり方で痣に触れてもらった。その結果、痣は術後四半刻で消え、その間に男、もしくは魔をまとった者が触れた時だけ変化することを知った。

 弱々しい女に変化するのは、恐らく反動のようなものではないかと思う。弓を引き絞れば引き絞るほど矢は遠くへ飛ぶ。私は常に強さの方向へ引き絞られている。その引き絞っている力から解放されると、一気に弱さの方向へ飛ばされてしまい、あのような姿になる、そんな風に考えている。話は以上だ。


 * * *


 於カクの話はわしを打ちのめした。余りにも壮絶だった。於カクは特別な存在ではなかったのだ。わしらと同じ、平凡な普通の女子おなごに過ぎなかった。

 にもかかわらず、これだけの体と心と技を手に入れたのだ。誰の力も借りず己の努力だけで……恥ずかしかった。何もしようとせず、座敷で呑気に毎日を送っていた己が恥ずかしくて仕方なかった。


「弁解がましく聞こえるかもしれぬが、故意に隠していたのではない。本当に忘れていたのだ。術を使わなくなって久しいうえに、術を使っていた時も変化することはほとんどなかったからな。だが、この弱点が明るみに出た以上、もはや旅の供をすることはできぬ」

「カクさん……」


 スケ姫が力なくつぶやいた。弱点か。確かにあの姿では足手まといにしかならないからな。


「手合わせしてよかった。私が如何に旅の供に相応しくないか分かったのだからな。短い間だったが世話になった。玄蕃殿、せっかくのお誘いを棒に振ることになったな、許せ。光国殿、スケさんは強い。きっと私の分まで……」

「待ってよカクさん、何を一人で勝手に決めているのよ」


 スケ姫は話をさえぎると於カクの両肩をぎゅっと掴んだ。


「弱点なんて誰にでもあるわよ。それにカクさんの弱点なんて弱点に入らないわ。だって術を使わなければ楓の痣は浮かび上がらないんでしょう。だったらどうってことないじゃない。一緒に旅に行きましょう」

「お心遣いに感謝する。だがそれを決めるのはスケさんではない。光国殿だ」

「光国! あんたまさかカクさんを追っ払うつもりじゃないでしょうね」


 もちろんそんなつもりは毛頭ない。わしが言おうと思っていたことを先に言われてしまっただけだ。スケ姫の先走りには困ったものだ。


「カクさん、僕もスケ様と同じ意見だよ。カクさんなら魔の術を使わなくても大抵の敵はやっつけられるからね。改めて僕からお願いするよ。この光国の旅の供として、加賀まで同行してくれないかな」

「光国殿……有難き幸せ。謹んでお受けする」

「そう来なくっちゃ。見直したわよ、光国」


 スケ姫の明るい笑顔が心地良い。今の二人となら長い道中も楽しくやっていけそうな気が……しないでもない。


「さて、二人の旅の供が決まったとなれば、後は旅立ちの支度を整え、一刻も早く加賀へ向かわれるだけですな」

「そうよ、光国。姉上はあなたの帰りを首を長くして待っていますからね」


 玄蕃と姉の口調も明るい。父がここにいなくて本当に良かったと思った。言うまでもなく於カクの弱点を父に教えるつもりはない。於カクにも絶対に喋らぬよう固く口止めしておかねばな。

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