第三話 一人目の従者
父の説得
わしと玄蕃、そして姉の大姫は江戸屋敷謁見の間で客人を待っていた。上座にはわしの父にして水戸徳川家初代当主頼房が、退屈そうな顔をして座っている。
「あ~、遅いなあ。巳の刻までには来てねって言っておいたのに、もうすぐ昼九つだよお~」
相変わらず腑抜けた物言いだ。我が父ながら情けなくなる。
しかし本当に遅い。どれだけ待たせれば気が済むのだ。待たせているのはただの大名ではない。将軍家の縁戚に当たる水戸徳川家の当主なのだぞ。にもかかわらずこうも簡単に約束を違えるとは、よほどの
「ねえ、やっぱり旅なんてやめたほうがいいんじゃないの、光国君」
「まだそんなことを言っているのかい、父さん。これはもう決まったことなんだよ」
「そうだけどさあ~」
父は今でも納得していないようだ。虎の威を借りて無理矢理押し切ったのだからその気持ちはよく分かる。あの時もこの四人がすったもんだの話し合いをしていたのだったな。
五日前、姉の大姫がこの江戸屋敷を訪れた日の出来事を、わしはぼんやりと思い出した。
* * *
「旅に出てこその光国だ!」
姉からは加賀への旅を懇願され、玄蕃からは課せられた役目を果たすべしと激励され、遂にわしの腹は決まった。こうなれば即実行だ。
「玄蕃、旅支度だ。直ちに始めてくれ」
「お待ちください。まだ殿には何の話もしておりません」
「父上か」
さすがに父の許しを得ずに長旅に出るのは無理だ。玄蕃もそこまでの根回しはしていなかったようだな。
「ならば三人で話を付けに行こうではないか。姉上、玄蕃、頼りにしているぞ」
二人を連れて父の居室へ向かう。中へ入るとわしと同じく長火鉢に手をかざして父は茶を飲んでいる。寒がりは我が家の血筋のようだ。
「あれ光国君、いきなりどうしたの。お小遣いの値上げ交渉なら諦めてね。水戸の領民だって貧しい暮らしをしているんだから」
民百姓が重税に
「お小遣いじゃないよ。別のことでお願いに来たんだ。父さん、僕、旅に出たいんだ」
「旅? へえ~。それにしても光国君は今様言葉が下手だね」
それからは姉と玄蕃に説明してもらった。慣れない今様言葉でわしが説明するより、二人に話してもらったほうが父もよく理解できるはずだ。
「ふむふむ」
父は口を差し挟むことなく聞いていた。時々お茶請けのスルメを齧ったり半目になって居眠りしたりしている。完全に上の空だ。
『どうやら真面目に聞いてはおらぬな。これならあっさり許してくれるだろう』
と思って油断していたのがいけなかった。二人の話が終わると開口一番、
「駄目。そんな旅、お父さんは認めません!」
きっぱりと拒絶されてしまった。父も
「い、如何なる理由で駄目と申される、父上!」
「へっ?」
まずい。興奮して昔言葉を喋ってしまったではないか。落ち着け、光国。
「あ、ごめんなさい。え~っと、駄目な理由を教えてくれませんか」
「光高君がどうして死んだかなんて僕らには関係ないからだよ。将軍家の家臣の
物言いは腑抜けていても考え方はしっかりしている。その通りだ。わしとて閻魔から役目を課せられていなければ、こんな旅に出ようなどとは思わなかったからな。
父の返答に何も答えられないわしを見て、姉が強い口調で反論する。
「だけど光高さんが言い残した魔についてはどうなの。お父さんは気にならないの」
「ああ、蛇責めで殺された侍女の話ね。僕も気になってさあ、光高君の父ちゃんが江戸に来た時、訊いてみたことがあるんだよ。そしたら誤解だって言っていたよ。侍女は利常君が手に掛ける前に自害したんだってさ」
「本当のことを言っているとは限らないでしょう。それに火のない所に煙は立たないという諺もあります」
「う~ん、確かに火はあるんだよねえ。侍女たちと利常君はかなり仲が悪かったみたいだからね。でもそれは仕方ないよ。珠姫ちゃんが金沢に来たのは、関ヶ原の前年に起きた家康君の加賀征伐が発端だからね。前田家からはまつ婆ちゃんを人質に出し、徳川家からは珠姫ちゃんが嫁いだ。それで一旦は家康君も手を引いたんだけど、大坂には依然として豊臣家が君臨している。利常君の父ちゃんの利家君と秀吉君は『犬』『猿』と呼び合うほどの親友。どう考えても徳川の敵。言ってみれば敵同士がひとつ屋根の下で暮らしているようなもんでしょ。家康君が豊臣家に対して居丈高に振舞ったように、珠姫ちゃんの侍女が利常君に大して高飛車な態度を取ったとしてもこれは仕方のない話。で、むしゃくしゃした利常君は酒の席なんかで『あの高慢侍女、まっこと腹に据えかねるわ、ヒック。蛇責めにして殺してやりたい気分じゃわい、ウイ~』とか愚痴っちゃったのを誰かが耳にして、それが蛇責め殺しの噂に拡大した、そんなところじゃないのかな」
なるほど。我が父ながら良い推論だ。そもそも利常は城内で立小便をしたり金玉を晒したりする
「でも光高さんは言っていたのよ。あれは侍女の魔かもしれないって。確かめてみる必要があると思わない」
「言葉通りに侍女が魔になって光高君を殺したのだとしてもさ、それでどうするつもりなの。人を殺すような強い魔は魔を用いなければ倒せない。光国君にはとても無理。下手すりゃ返り討ちだよ。僕の大事な跡継ぎをそんな危険な目に遭わせるわけにはいかないよ」
ん、今の言葉、ちょっと引っ掛かるな。強い魔は魔を用いなければ倒せない、どういうことだ。
「殿、玄蕃からも一言よろしいでしょうか」
「君たち粘るねえ。いいよ、言ってみて」
「これは若君の初陣と考えては如何でしょうか。信長公の初陣は一四歳、家康公の初陣は一七歳。若君は御年一八歳。そろそろ初陣を飾るに相応しい年齢かと思われまする」
「いや、初陣って。この天下泰平の世に何を言っているのかな、玄蕃君は」
「確かに人の世は平和になりました。が、魔の世はそうではありません。西方の魔が入り込んで以来、それまで大人しくしていた土着の魔が一斉に騒ぎ始めました。大和の魔と西方の魔、両者の戦いは今でも続いております。魔の世は今まさに戦国時代。これを鎮められるのは我らの若君、光国様をおいて他にはおりませぬ」
うむ、玄蕃の申す通りだ。次に冥土へ行った時には必ず天道送りになるように、この異世界の魔を一掃せねばならぬからな。それこそが閻魔によってわしに課せられた使命なのであるし。
「無理! 光国君には絶対無理!」
相変わらず頑固な父だ。無理かどうかはやってみなくては分からぬだろう。と言うより無理でも何でもやらねばならぬのだ。仕方ない。わしは玄蕃に身を寄せて囁いた。
「玄蕃、こうなれば父上にもわしの素性を話すしかあるまい。わしの置かれている立場を知れば、父上の考えも変わるであろう」
「いえ、その必要はありません。こうなれば奥の手を使います」
玄蕃が懐に手を入れた。取り出したのは書状だ。それを父に差し出す。
「これをご覧ください」
「んっ、誰からの書状なの?」
「読めば分かります」
父は大儀そうな顔して折られた封紙を広げた。中から現れた奉書紙に視線を落とす。その瞬間、大儀そうな顔が仰天顔へ変貌した。
「こ、これは家光君からの文じゃないの!」
わしは玄蕃を見た。にっこり笑っている。姉を見た。やはりにっこり笑っている。しかも姉は袖の下から上書きされた書状をチラリとこちらへ見せている。上書きの文字は『従弟の光国君へ、家光君より』だ。
なるほど、すでに将軍家光の承諾を取り付けていたのか。父だけでなくわしあての書状まで用意してあったとは。もしわしが加賀行きを引き受けなければ、この書状を読ませて無理にでも承諾させるつもりだったのだろう。
奉書紙を広げた父は声に出して読み始めた。
「ええっと、なになに。前略、頼房叔父さん、元気ぃ~。光高君が急に冥土へ旅立っちゃって、毎日泣いて暮らしている家光君で~す。なんちゃって、嘘だよお」
さすがは今様言葉の頂点に立つ将軍、家光。父の言葉を遥かに凌駕する腑抜けぶりだ。聞いていて背筋がぞわぞわしてくる。
「光高君の死因については現在調査中なんだ。でも将軍家は無関係っぽいよ。わざわざ加賀まで命を奪いに行くほど暇じゃないからね。となれば前田家内部の問題か、あるいは亀ちゃんが言うように魔の仕業か。一応隠密は放ってあるけど、光国君に調べてきてもらうってのも悪くないんじゃないかな」
核心部分ではまともな言葉に戻ったか。この部分まで腑抜けた物言いでは冗談にしか思えぬからな。しかしまだ姉を亀と呼んでいるとは驚いたな。そもそも亀姫から大姫に改名させたのは家光だろう。どうしてまだ幼名で呼んでいるのだ。
「ほら、かわいい子には旅をさせろって言うじゃん。あ、一人旅が心配なら、僕がテキトーに
「あ、ありがと、父さん」
余りにも呆気なく許してもらえたので嬉しさの実感が湧いてこない。頑固な父も将軍の言葉にだけは逆らえないようだ。こんなことなら最初から文を見せておけば良かったのに、と思わないでもなかった。
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