姉の頼み

 己の迂闊さに茫然となったのは足先を長火鉢に落としたからではない。光高が死ぬことはわかっていたのに、知らせを受けるまで忘れていたからだ。


「詳しく話してくれ、いや、話してくれないかなあ~玄蕃。光高殿は、いや光高君はいつ、どこで、どうして亡くなられたのだ、いや死んじゃったのかな」

「若君、今は昔言葉をお使いください。話が進みませぬ」


 有難い助け船だ。さっきからまどろっこしくて仕方なかったのだ。「分かった」と言って頷くと玄蕃は先を続けた。


「さる三月二十日、江戸へ出仕するにあたり金沢城内で茶会が開かれました。その席にて突然卒倒し、そのまま帰らぬ人となられたそうです。前田家の江戸屋敷でも今朝がた加賀から文が届いたばかりで詳細は不明、とのことです」


 今日は二四日。加賀から四日で知らせが届いたか。この異世界の早飛脚もなかなか優秀なようだ。


「そうか。姉上もさぞかし落胆しておられるだろう」


 わしには多くの兄弟姉妹がいる。父は生涯正室を迎えなかったが、わしが知っているだけでも九人の側室を持ち、一一男一五女の子宝に恵まれた。その一五女のひとりである大姫は、わしとは腹違いで一歳年上の姉だ。六歳で家光の養女となり、その翌年、加賀前田家の光高に嫁いだ。

 光高は姉の夫、わしにとっては義理の兄にあたる。六年前、三代目当主利常の隠居に伴って家督を継ぎ、四代目当主となったばかりだ。年もまだ三十そこそこのはずだ。


「光高、良き男であった」


 名に「光」の字を持つのは、わしの名である光国と同じく、元服時に家光の「光」の字を与えられたからだ。家光は大層光高を気に入っていたようで、夜伽の相手をさせていた、などという噂もあった。

 そもそも前田家は美形の家系だ。信長の寵愛を受けていた初代当主利家が身の丈六尺の細身の麗人であったように、光高も眉目秀麗かつ学芸と武芸の両道にけた偉丈夫であった。もしわしが女子おなごに生まれていたら一目で惚れていたであろうな。


「本葬は国許くにもとの加賀で行われますが、ここ江戸でも前田家の菩提寺である長元寺にて葬儀を執り行なうとのことでございます」

「詳しい日取りが決まったら教えてくれ。それから光国も大変心を痛めていると姉上に伝えておいてくれ。ご苦労であったな。下がってよいぞ」


 玄蕃は一礼した。が、そのまま動こうとしない。じっとわしを見詰めている。


「どうした玄蕃。他に用があるのか」

「何故教えていただけなかったのですか。若君は五十年以上も後の世からこの時代へ転生されたのでありましょう。ならば光高様が亡くなられるのもご存知だったはず。何故黙っていたのですか」


 恨みがましくわしを見上げる玄蕃の視線が痛い。玄蕃もまた光高には一目置いていた。実際、わしよりも遥かに優れた器量を備えた男であった。それだけに此度こたびの急死がよほど悔しいのだろう。


「うむ、おまえの疑念はもっともだ。すまぬ。有りていに言えば失念しておったのだ。今様言葉だの、井戸の水来忌すらいむだの、この世のあれこれに手一杯でな。今日の今日まで光高という言葉さえ浮かんではこなかった。だが、理由はそれだけではない」

「と言いますと」

「わしが元居た世と何もかもが同じ、というわけではないのだ。わしは元の世で正保二年に本元服をした。しかしこの世では正保三年だ。一年遅くなっている。光高殿もまた違っている。元の世では急死されたのは四月五日、江戸屋敷で開かれた茶会の席であった。だがこの異世界では三月二十日、参勤交代で江戸へ向かう直前、金沢城内で亡くなっている。出来事は同じだが微妙に違っているのだ」

「なんと……何故そのようなズレが生じているのでしょうか」

「分からぬ。これもまた信長公の仕業なのかもしれぬな」

「左様でございますか……」


 この話はここで終わった。これ以上根拠のない話し合いを続けても意味がない。それに日付のズレの原因が何であろうと、光高が亡くなった事実は変わらぬのだ。


 それから数日後、長元寺で光高の葬儀が行われた。もちろんわしも父も玄蕃も参列した。

 将軍家からは老中の酒井忠勝、そして驚くべきことに義理の父である将軍家光まで足を運んでくれた。人目も憚らず涙を流している姿を見ると、やはり二人の仲はただならぬものであったのだなと、思わずにはいられなかった。


「姉上、なんとお気の毒なお姿であろうか」


 何より胸に響いたのは姉である大姫の姿だった。姉の記憶はほとんどない。わしは生まれてから家臣の屋敷で育てられ、五歳で水戸城に入った。その年に姉は六歳で家光の養子となった。

 翌年わしは正式に世継ぎと定められ、水戸から小石川の江戸屋敷に移ったが、同じ年に姉は七歳で前田家へ嫁いでいった。姉と共に暮らしたのはほんの僅かな期間でしかなかったのだ。


「光高の死のおかげだな。こうして姉上と再会できたのは」


 人生万事塞翁が馬。運命とは皮肉なものだ。


 * * *


「え~っと、僕はもうお腹がいっぱいだよ。これ以上食べたらお腹が破裂しちゃう、か。何度口にしても軽薄な言葉であるな」


 すでに四月に入っていた。暦の上ではもう夏。四月朔日の衣替えに合わせてあわせから綿を抜いたが朝晩はまだ空気が冷たい。日当たりの良い畳に寝転がり、長火鉢に足先を乗せ、今日も今様言葉の修練に励んでいる。


「この長火鉢だけでは手放せぬのう」


 お気に入りの長火鉢は一年中出しっ放しだ。寒がりのせいもあるが、これほど重宝する調度品はない。冬は手をかざして体を温め、夏は乾燥させたヨモギを焼いて煙で蚊を追い払う。湯を沸かす、餅を焼く、うどんを煮る。実に使い勝手がいい。


「長火鉢は便利だなあ。ずっと一緒に生きていこうね長火鉢君、って長火鉢は生き物じゃないやろがあ……ううむ、これがひとりボケツッコミというものか」


 今様言葉応用集に収められた「高度な今様会話」の例文だが、これのどこが高度な遣り取りなのかさっぱりわからぬ。数百年後の世に生きる者たちの感性は我らとはかなり違っているようだ。


「入りますよ」


 いきなり障子の向こうで声がした。肝が潰れそうになった。聞こえてきたのは玄蕃でも父でもない、女の声だ。それも年のいった女中のしわがれた声ではなく、鈴を転がすように軽やかな若々しさを感じる声。わしは慌てて長火鉢に乗せていた足先を下ろし、畳に座って居住いを正した。


「ど、どうぞ」


 声が上ずる。鼓動が早くなる。こちらの世に来てから若い女には全く縁のない生活が続いている。中身は老人だが肉体は一八歳の若者。興奮を押さえろと言う方が無理というものだ。


「失礼するわね」


 聞きなれない今様言葉を喋りながら若い女が入って来た。誰だろう、わしとさして年は違わないようだが。


「えっと、何の用ですか」


 こちらも今様言葉で返す。女は少し驚いた顔をした後、微笑みながら言った。


「お久しぶり、光国。元気そうね。お葬式に来てくれてありがとう」

「あ、姉上! じゃなかった、姉さん!」


 そうだ、思い出した。光高の正室にしてわしの姉、大姫だ。数日前の長元寺の葬儀では、ほんの二言三言しか言葉を交わさなかったので、すぐには思い出せなかった。


「姉さんもお元気そうでなによりだよ。光高君は本当に残念だったねえ。僕も悲しいなあ」


 うむ。これまで積み重ねてきた今様言葉修練の成果だな。淀みなく喋れている。我ながらたいしたものだ。


「お心遣い感謝するわ。私も訃報を受け取った時はすごく驚いたけど、今はもう平気。今年生まれた万菊丸のためにも、頑張らなくちゃって思っているの」


 ああ、そうだった。光高が亡くなった年に次男の万菊丸が生まれたのだったな。いや、ちょっと待てよ。生まれたのは光高の死後ではなかったか。これもまた日付けのズレなのか。


「そうだね。女は弱し、されど母は強しって言うもんね」

「あら、そんな言葉どこで覚えたの」

「えへへ、内緒」


 今様言葉名言集で覚えたのだ。これでも毎日必死になって勉学に励んでいるのだぞ。それにしても女の使う今様言葉は聞いているだけで実に心地良い。男が喋ると腑抜けにしか聞こえぬが、女が喋ると耳を通して魂を頬ずりされているような気分になる。


「ところで姉さん。急にやって来たりしてどうしたの。いつものようにふみじゃいけなかったの」

「ええ。光国に大事なお願いがあるの。直接会って頼まなくちゃいけないくらい大切なお願いが」

「へ~、どんなお願い」

「加賀へ行って欲しいのよ」

「はあ!」


 いくら何でも唐突すぎるのではないか。さすがはわしの姉。傍若無人にもほどがある。呆れすぎたわしの口は暫しのあいだ開きっ放しになっていた。

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