閻魔の思惑

 玄蕃、気でも触れたのか、そんな言葉を危うく口にするところだった。

 戦国の世を駆け抜けた稀代の武将織田信長は、天正十年、本能寺で命を落とし、とっくの昔に冥土へ行っている。生前の所業を考えれば間違いなく地獄道落ちになっているだろう。息の根を止めるもなにも、すでにこの世には生きていない。


「若君が驚かれるのはごもっとも。信長公は六十年以上も前に亡くなられておられるのですから」

「そうと知っていて何故息の根を止めるなどと申すのだ」

「それは表向きの話。実は信長公はまだ生きているのではないかという噂が、まことしやかに語り継がれているのです」

「馬鹿な。今も生きていれば信長公は百十歳を超えていることになる。それほどの長寿があり得ようか」

「あり得ないことではありますまい。二年前に亡くなられた南光坊天海様は百八歳の長命であったと聞いております。加えて信長公は第六天魔王の力を借りております。人並み外れた長寿を保たれていても不思議ではありません」


 天海か。確かにあの男は長生きであったな。家光から天海が書いたという長寿の秘訣歌を見せてもらったことがあった。「こんな生き方をして何が面白い。太く短くが武家の生き様よ」などと、あの時は馬鹿にしていたものだ。


「しかし本能寺で光秀殿に攻め殺されたのは紛れもない事実であろう」

「はい。しかしながら御遺体は見つかっておりません。さらには本能寺の出来事自体、信長公が仕組んだ茶番劇だったのではないか、そんな噂話まで囁かれているのです」

「それも馬鹿げている。何が悲しくて天下統一の夢を自ら投げ出さねばならぬのだ」

「信長公のご気性は我ら凡人には計り知れぬほど異質だったようです。畿内をほぼ制圧し、実質的な天下人となられた天正十年、『もうさあ、いい加減に飽きちゃったんだよねえ。これだけ織田家が強くなったら放っておいても天下取れちゃうでしょ。最近の僕って合戦になっても全然ワクワクしないんだよ。もう引退しちゃおうかなあ。光秀君、ちょっと相談なんだけど……』などと、安土城の天守にて光秀様と密談していたと信長公記に書かれております」


 信長か。わしの従兄である家光公の母お江は信長の姪。信長とは親類の間柄と言えなくもない。それにしても聞いているだけで恥ずかしくなる話だな。自ら当主の座を投げ出すとは、戦国武将にあるまじき腑抜けっぷりだ。


「ならば本能寺の一件は信長公と光秀殿が示し合わせて一芝居打ったにすぎぬと申すのか」

「信長公記の記述から察するに、そう考えるのが自然でありましょう。光秀様は影武者を立てて山崎で秀吉と戦わせ、自らは信長公と手を取り合って仲良く遁走。伝え聞くところによりますれば、南蛮に近く長寿の地として名高い琉球なる島に逃げ落ち、今も二人で悠々自適の暮らしをされているとか、いないとか」

「う~む……いや、それでもわしはまだ腑に落ちぬ」


 この異世界の信長は自ら野に下り、今もどこかで生きていると言うのか。違いすぎている。わしが生きていた世で伝え聞いた信長像とは、あまりにもかけ離れすぎている。


 長火鉢に掛けた鉄瓶に手を伸ばし、煮出した茶を湯呑に注ぐ。喉を潤しながら玄蕃の話を反芻する。肯定も否定もできぬ。黙考し続けるわしの結論を促すように玄蕃が口を開く。


「西方の魔が居らぬ世から来た若君にとって、このような話は信じがたいものでありましょう。この世でさえ、当初は多くの者が信長公は亡くなったと思っておりました。しかし時が流れるにつれ、本当は生きているのではないかと考える者が次第に増えていったのです」

「ほう、それは何故だ」

「西方の魔が消滅しないからです。秀吉公の伴天連追放令によって、異国の人々はこの地を離れ、各地に建てられていた南蛮寺も全て破却されました。にもかかわらず西方の魔はこの地に留まり続けています。いや、むしろ前より勢いを増している場所さえあるようです」

「それが信長公の仕業だと申すのか」

「はい。西方の魔がこの地を去らないのは第六天魔王の力がまだこの世に残っているからではないか、今ではほとんどの者がそう考えております。あるいは信長公自身が第六天魔王になった、そんな声すら聞かれます」

「なるほどな。まるで絵巻物の夢物語を聞かされているような心地がするわい」


 信長の自分勝手な気紛れのせいでこの異世界は大変な迷惑をこうむっているようだ。玄蕃の話を完全に信じたわけではないが、取り敢えず胸の内に収めておこう。


「信長公については飲み込めた。その話は一旦打ち切ろう。それで、閻魔の本当の狙いが信長公の成敗にあるとは如何なる理由なのだ」

「先ほど若君より伺った話によれば、この世は若君の生きていた世と比べ極めて異質だと思われるのです。信長公によって引き起こされた魔の跳梁跋扈ちょうりょうばっこ。魔の害は魔だけではなく人に対しても及びます。心を狂わせ、体をむしばみ、人としての道を踏み外すように仕向けます。その結果、本来天道へ行くはずであった亡者が、地獄道や畜生道へ落ちてしまう、そんな有様を目の当たりにして、閻魔大王様は心を痛めたのではないでしょうか」


 あの閻魔がそれほど優しい心の持ち主だとは思えない。が、一応冥土の王なのだから少しくらいは仁の心を持ってはいるだろう。


「若君を元の世ではなくわざわざこの異世界へ転生させたのは、蔓延する魔を取り除き元居た世と同じ世にせよ、という閻魔大王様からのお言い付けではなかったのか、それがしはそう考えるのです」

「そのために魔の元凶である信長公を討つ、それがわしに課せられた使命だというわけか」


 玄蕃は無言で頷いた。これもまた確証のない推論に過ぎない。しかし閻魔は言っていた。『人々を救い、歪んだ世を正し、悪を懲らしめよ』と。魔から人々を救い、魔によって歪んだ世を正し、悪に染まった魔を懲らしめよ、閻魔はこう言いたかったのかもしれぬ。


「若君はこれからこの異世界で何十年も生きていかねばなりません。その間、仏の五戒を守り通すのは大変なことでありましょう。しかし信長公を討ちさえすれば、閻魔大王様の命令は達成されたことになります。そうなれば残りの人生で少々ハメを外されたとしても、再び冥土で閻魔大王様に会われた時、『いや、わしは閻魔の望み通り魔王信長を討ったのだ。これほどの手柄を立てたものを天道に送らずとしてなんとする』などと申し開きができましょう。信長を討たないまま冥土へ行くより、信長を討って冥土へ行かれたほうが、若君にとっては遥かに有利と言えます」

「うむ、その通りだ」


 思わず手のひらで膝を打ってしまった。さすがは玄蕃、駆け引きのうまさは群を抜いている。信長さえ討てば、現世で享楽に耽っても天道行きはほぼ確約されるのだ。現世でも来世でも楽ができる、これほどうまい話はない。


「よし、決めたぞ。これよりわしは打倒西方の魔、打倒信長を旗印に掲げて生きていく。して、その為にわしは何をすればよい」

「まずはこの異世界の流儀を身に着けるのが肝要かと思われまする。当面は今様言葉の習熟、及び次期水戸徳川家当主に相応しい教養の習得、この二つに邁進してくださりませ」

「心得た」

 

 * * *


 それ以来、わしは屋敷に籠って味気ない毎日を送っている。唯一の気晴らしは時々井戸に現れる水来忌すらいむを手討ちにすることくらいだ。

 こいつは見掛けに寄らず厄介だった。斬っても分裂するだけで消滅しないからだ。何度も試すうちに核を持っていることに気が付いた。どれほど分裂しても核はひとつ。そのひとつを貫けば全て水に戻ってしまう。それが分かるまでに二カ月を費やしてしまった。今はもう一撃で倒せるので水来忌征伐はたまにしかやっていない。


「こんな日々を送っていては信長を討つどころか、魔に苦しむ人々を救うことすらできぬ。はてさてどうしたものか、いや、どうすればいいのかなあ~、か」


 間もなく四月になろうと言うのに今日は寒い。寝転がっていると足先が冷える。長火鉢の縁に足を乗せて温めながら今後の方針を考えあぐねていると、廊下から足音が聞こえてきた。


「若君、一大事でございます」


 玄蕃の声だ。珍しく慌てている。


「あ~、入っていいよ~」


 最近は玄蕃と話す時もできるだけ今様言葉を使うようにしている。習うより慣れろだ。


「先ほど加賀前田家よりふみが届きました」


 障子を開けて入って来た玄蕃の顔は少々引きつっているように見える。乱れた息を整えながら玄蕃は早口で言った。


「それによりますと、若君の義理の兄上であります前田光高みつたか様が急死されたとのことです」

「な、なんだと! あちちっ」


 立ち上がろうとして足先が火鉢の灰に落ちてしまった。そしてわしは己の迂闊うかつさにしばし茫然となった。

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