第二話 西方からの魔

元凶は信長公

「え~っと、僕はお腹がペコペコだよ。お昼ご飯はまだかなあ……か。この物言いも慣れてくると、なかなかに味わい深いものであるな。いや、味わい深いなあ、か」


 わしは江戸屋敷の居室で書を読んでいる。表紙には曲がりくねった書体で『今様言葉辞書、目指せ今様ますたあ!』と書かれている。二カ月前に玄蕃が、


「これを読んで早く今様言葉を身に着けてくだされ」


 と言って置いて行ったものだ。以来、毎日この書を読んで軽薄な言葉遣いを身に着けようと努力している。


「あ~、さすがにこんな生活には飽きてきたわい」


 この異世界に転生してから一歩も屋敷の外には出ておらぬ。三人の傅役から退屈な話を聞かされ、暇があれば今様言葉の習得に力を注ぐだけの日々。それもこれも閻魔との約束を果たすためだ。さりとて若い男が日がな一日屋敷に籠って悶々としているのは、どう考えても健康的とは言えぬ。


「現世を耐え忍んで来世の快楽を取るか、来世などどうでもよいから現世を存分に楽しむか。早くも心が揺らぎ始めておるわい、いや、心が揺らいじゃってるなあ~、か」


 急に嫌気が差してきた。書を投げ捨てて畳に寝転がる。天井を眺めながらこの異世界へ転生した日、正月一五日を思い出す。あの日、この部屋で玄蕃に全てを話した時、さすがにすぐには信じてもらえなかった。


「若君、まだ夢を見ているのでござりますか」


 開口一番、玄蕃はそう言った。当然の反応だ。同じ話を聞かされたら、わしでもそう答えるだろう。


「頼む、信じてくれ。この世で名君にならねば次は確実に地獄道行きだ。ここはわしが元居た世とは少し様子が違う。力を貸してくれる者がどうしても必要なのだ」


 玄蕃は探るような目でわしを見ている。嘘かまことか探っているのだろう。


「……分かりました。ならばひとつ試させてくださりませ」

「試す? 何を試そうと言うのだ」

「若君の言葉が真ならば、これより数十年先の世に何が起きるか、全てご存知のはず。実はそれがし、若君が本元服される今日のこの日のために、一冊の書物を用意しております。それが何か、当ててみてくださりませ」


 うむ、さすがは玄蕃。良い思い付きだ。十八の元服の折、玄蕃がわしに手渡した書物、何であったか。


「如何です。思い出せませぬか」

「いや、思い出した。司馬遷の史記だ。そうであろう」

「おお、よくお分かりになりましたな」


 さすがにその書物だけは忘れられぬ。そこに書かれた伯夷はくい列伝に感銘を受けて大日本史編纂を思い立ったのだからな。わしを学問の道へ導いてくれた大切な書だ。


「本日の奇妙な物言いと振る舞い、偽りを述べているようには見えぬこと、書を当てられたこと、そして話の辻褄が全て合うこと。もはや若君の話を信じぬわけには参りませぬ」

「おお、ようやく得心とくしんしてくれたか」

「はい。若君の地獄道行きを阻止するために、この玄蕃、身を粉にして働かせていただきましょうぞ。して、まずは何をご所望されますか」

「何故将軍家は軽薄な言葉遣いを強いるのか。そして『すらいむ』とか申す魔がどうしてこれほど蔓延しているのか、説明してくれぬか」

「承知いたしました」


 そうして玄蕃が語った話は実に興味深いものであった。全ては尾張の武将、織田信長から始まったと言うのだ。


「伝え聞くところによると、ある日、信長公は第六天魔王の力を借り、先の世の出来事を知る技『先読みの法』なるものを手に入れたのだそうです。その法を使って数百年先の書を読まれ、そこに書かれた言葉遣いに痛く感動し、己のみならず家臣にもその言葉遣いを勧めるようになりました。これが今様言葉の始まりと言われております」

「なんと! ならばこの軽薄な言葉は数百年後の者たちが実際に用いている言葉だと言うのか」

「はい。中でも信長公は己を指し示す『僕』なる言葉が大変気に入られたようです。『上に立つ者は下の者に対して下僕のように振舞うべきだよねえ~』という名言を残されております」


 にわかには信じがたい話だ。子供や若者ならいざ知らず、父のような壮年の男が「僕」などと言うだろうか。もしや信長は己の趣味を全開にして「登場人物全員軽薄男子」な書物だけを好んで読んでいたのではないのか。己の変態嗜好を家臣にも押し付けるとは迷惑千万にもほどがある。


「しかし玄蕃よ。それならば今様言葉を使うのは織田家だけで十分ではないか。何故全ての大名が使わねばならなくなったのだ」

「家康公でございます。信長公と非常に親しい仲であった家康公は、織田家との間で取り交わすふみ、宴での談笑、戦場での合議などなどで信長公の軽薄な物言いに晒されているうちに、すっかりその言葉に染まってしまったのです。江戸に入られた時には、もはや今様言葉しか喋れなくなっておりました。当然、二代将軍秀忠公も今様言葉愛好者。どうせ数百年後に使う言葉なのだから、今のうちから使っておけばよいではないかと、わざわざ武家諸法度に定められたため、今では大名のみならず、公家、僧侶、町人、百姓、無宿の渡世人などの間にもじわじわと今様言葉が広がっております」

「……なんたることだ」


 家康がかくも情けない武人であったとは、我が祖父とは思えぬていたらくだ。だが戦国の世の厳しさを考えれば、それもまた無理からぬことであったのだろう。当時の信長の力は絶大。機嫌を取るために家康は己の長男に切腹を命じたほどなのだ。信長が今様言葉を使っているのなら、家康もまたそれを使わぬわけにはいかなかったのだろう。


「言葉についてはよく分かった。次は魔の蔓延について話してくれぬか」

「はい。それも信長公と切っても切れない関係にあります」


 また信長か。どこまで後の世の我らに迷惑を掛ければ気が済むのだ。


「と申しましても、全ての責任を信長公に負わせるのは少々酷と言えましょう。魔を持ち込んだのは異国の方々、特に伴天連ばてれんの皆様の影響が大きかったのです」

「伴天連……天主でうすなる神を信じる異国人か」

「光ある所には必ず影があります。神と魔は表裏一体。伴天連たちは西方の神を持ち込むと同時に魔も持ち込んだのです。折しも信長公が第六天魔王の力を借りたことにより、これまで鳴りを潜めていた我が国の魔たちはざわつき始めておりました。そこへ西方の魔が大挙して押し寄せてきたものですから、刺激された我が国の魔たちは一気に顕在化。ふたつの魔と魔が入り乱れて、戦国の世は大混乱に陥ったそうでございます」


 こちらの魔にしてみれば異国の魔が攻めてきたように感じられたのだろうな。人と人との争いだけでなく魔と魔の争いまで繰り広げられては、当時の民衆もたまったものではなかったであろう。


「信長公失脚の後、秀吉公は事態を収拾すべく、直ちに伴天連追放令を出しました、南蛮貿易禁止、各地の南蛮寺の破却、切支丹弾圧などによって、ようやく魔の騒動も収まりました。が、それでも国内の魔が一掃されたわけではありません。今も生き残りの西方の魔が時折現れて悪さをするのです」

「なるほど。よく分かった」


 わしが居た世界とこの異世界、基本的に大きな違いはないようだ。諸悪の根源は信長か。たった一人の軽率な振る舞いがこれほどまでに世を変えてしまうとは、やはり信長は稀有な武将であったのだろうな。


 話し終えた玄蕃は一息入れて茶を飲んでいる。九歳でわしの傅役になって以来、この玄蕃からは散々退屈な講義を聞かされてきたが、今日ほど面白くて実りある話はなかった。

 一息入れてわしも茶を飲む。聞きたかった話が聞けて胸のつかえもようやく取れた。


「それにしても何故閻魔は赤子ではなく一八歳のわしに転生させたのであろうな。それも前世の記憶を持たせたままで」

「それは閻魔大王様のご慈悲でござりましょう。五戒を守り、道を踏み外さぬよう生きろ、と幼子に申し付けたとて従えるものではありません。面白半分に蛇でも殺せば、その時点で地獄道落ち確定です。試練を容易に乗り越えられるよう、自律心が備わったこの年頃に転生させたのではないでしょうか」


 うむむ、素直に納得はできぬな。この年頃にはこの年頃なりの葛藤があるからな。特に女だ。精神は老人でも肉体は若者。溢れる劣情を手懐てなずけられるかどうか、いささか心許こころもと無い。


「ときに若君、こうしてお話をしているうちに、この玄蕃には閻魔大王様の意図がぼんやり見えて参りました」

「ほう、何だ。申してみよ」

「信長公の息の根を止める、それこそが若君に課せられた使命と思われまする」

「な、なんだと!」


 わしは湯呑を置いて玄蕃を見詰めた。いつもと同じく一片の嘘偽りもない澄んだ眼がそこにあった。

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